朝の習慣

「ずっと思っていたが」
 洗面器から顔を上げると、鏡越しに目が合う。顎から滴る水を手で軽く拭えば、後ろからタオルが差し出された。
「君、酒が入っていないと朝早いんだね」
「習慣? ってやつ?」
「いいことだ」
 おはよう私の子猫、といつもの挨拶をよこし、すでに軽く身支度を終えた、今日は随分とラフな出で立ちのシャルマンは窓辺に置かれた椅子を引っ張り近くに座る。背もたれを跨ぎ肘をついてこちらを見上げる顔が差し込む朝日に照らされる姿はさながらモデルのようで、鏡の中の未だボサボサに濡れそぼった髪の自分とは比べるのもおこがましい。
 小さく挨拶を返し受け取ったばかりのタオルを被ると、顔も髪も関係なくガシガシと拭った。その姿をじっと見られていることにくすぐったさを覚えながら、なにが楽しいのか、とバレないようにため息をこぼす。
「あなたこそ、いつ寝てるんですか。いつも俺より寝るのが遅くて、起きるのが早い」
「君と寝るときには眠っているだろう」
 間をもたせるように呟いた疑問は間髪置かずに返され、その内容に自然と口が歪む。この男はすぐにこうやってからかってくるのだと覚えてから、最近やっと、たまに受け流せるようになってきた。
「それだけ?」
 タオルを首にかけ、鏡の中の自分と向き合い表情をごまかす。おおよそ乾いた髪を適当になでつけマシ丶丶にしていく。
「いいや? もしや、心配してくれてるのかい」
「……そういうわけでは」
「そう? それは残念だ」
 くつくつと楽しそうに笑うのを聞いて、どことなく情けなく歪んだ自分の顔を見ないようにシャルマンに向き合った。
「ところで、人のオメカシを覗きに来て、なにかご用でしょうかね。俺はまだ、服も着てない」
 裸の上半身を大げさに広げて肩をすくめてみせると、そのようだ、とまた笑われた。
「私は朝が好きなんだ」
「うん? それは知ってる」
 突拍子のなさはいつものことで、先を促すとシャルマンは一層嬉しそうに目を細める。返事のチョイスを間違えたかもしれない。
「君も目覚めたことだし、散歩に行こうと思って」
 彼はへらへらと笑いながら窓を開け、早春の風を室内に呼び込んだ。まだ少し肌寒い風にさらされた肌が粟立ち、ふるり、と体が震えるのを、窓辺から眺めている。
「よければ一緒にどうだい、と、お誘いに来た」
「わざわざバスルームに?」
「そう、早く誘いたくてね」
 逆光で陰った表情はまぶしくぼやけるが、溶け出すような甘い空気は春の風でもさらいきれない。光にくらむふりをして目をそらした。何度向けられても未だ慣れぬ視線や言葉に、心臓は大人しくしていてくれない。
「……いいね」
 平気なふりで返事をするが、鏡の中の自分の肌の色がなにも隠せていないことを物語る。
「お腹は空いてる?」
「まだそんなに」
「では戻ってからか、出先で開いているカフェにでも入ろうか」
 シャルマンはなんでもないように話を続けるが、視線だけは愛猫を愛でるような柔らかさを失わない。それを向けられているのが自分だという事実を、理由含めて飲み込める日はまだ先のようだ。
「まずは服を着なさい。風邪を引くよ」
「途中で邪魔をしたのはそっちだろう」
 邪魔をしたつもりはないんだが、とシャルマンが声を出して笑うと、重たくないのに濃密だった空気は霧散していった。いつもどおりの朝の空気に安心して、置いてあった着替えに手を伸ばす。
「俺がいない日、いつも散歩してるの?」
「日によるかな。まだ夜の時間から外に出ていることもあるし、昼までベッドから出ない日もある。一日聖堂にいたり、家から出ないこともあるが。最近はまあ、君の知るとおりだよ」
 自堕落と言うには活動的すぎるここ最近の彼の生活の発端であり、そこに確かに組み込まれた自分の存在に、むず痒くなり肩をすくめた。
「……、いい暮らしだ」
「そうかもしれないね」
 寄ってきたシャルマンが手を伸ばし後頭部を撫で、直しきれていなかっただろう寝癖をもてあそび笑うのを、避けるものでもないと諦めて受け入れる。その手の温度が自分には嫌に冷たく感じるのは気付かないふりをして。

2021.03.08 初稿
2024.02.10 加筆修正