minuit

 額を通り過ぎ、髪を梳く柔らかな感触にアレクサンドルが薄く目を開ける。視線を持ち上げると、月明かりに照らされた物柔らかな薄い笑顔と視線が絡む。
「……どうかした?」
「起こしてしまったね。すまない」
 男の穏やかな声にアレクサンドルが今しがたまで見ていた夢を散らすようにため息をこぼす。甘い表情には随分慣れてきたアレクサンドルでも、警戒心の解けきった夜中のまどろみの中で突然もたらされたそれに胸の奥がいくらか疼いた。ともに寝入ったはずのシャルマンはすぐ隣で完全に起き上がり、いつからそうしていたのか、アレクサンドルの頭を撫で続けている。
「眠れない?」
「いいや。眠るのがもったいなくて」
「寝るの好きだろ」
 目覚めきっていないアレクサンドルの体からぽつぽつとこぼれるくぐもった声はため息にも似て、シャルマンの手の動きに合わせて心地良さそうな色をまとう。まだいくらか酔いが残るのか、繰り返し通り過ぎていく手にすり寄るように身じろいだ。
「君のことを見ていたいんだ」
「……変な顔してた?」
 一度ぱちくりとまばたいたアレクサンドルが気まずそうに上目でシャルマンを窺う。その穏やかな表情は変わらず、細められた目には情愛がにじむ。
「いや。君は美しいよ」
「……」
 アレクサンドルはその言葉を受けまた始まったと言わんばかりに顔をしかめ、隠すように枕に埋まった。
「……シャルマン」
「ん?」
「……どうして俺なの?」
 あらわになったアレクサンドルの乱れた後頭部を先程までと同じように撫で整えはじめた体が笑って揺れるのを、アレクサンドルは枕にうつ伏せた隙間から盗み見る。
「君が私を選んでくれただろう」
 髪に触れていた手が首筋に移され、温めるように覆う。アレクサンドルが心地良さとくすぐったさに肩をすくめた。
「私以外のなにもかもを選び取れる君が、自らの意思で、私を選んで飛び込んできた。君が先に私を愛してくれたんだよ」
 それほど遠くない過去を思い出しているのか、シャルマンの声がさらに柔らかくなる。思い当たる節がいくつも浮かぶのを、アレクサンドルは顔を押し付けた枕にぶつけてごまかした。
「でも、あなたは、……〝彼〟を愛していただろ」
「今でも愛しているよ」
「……じゃあ、なんで」
「愛が一つにとどまらないことは、隣人を愛すよう育てられた君のほうがよく知っているだろう」
「……意味が違う」
「平等と唯一が必要?」
 ようやく枕から顔を離し不服そうにシャルマンを見上げたアレクサンドルを、まっすぐ見下ろしながらシャルマンが続けた。
「私は神じゃない。君への愛は彼へのそれとは違う。もちろん、君たちがくれる愛もそれぞれ違う。私には、君と彼のどちらか一方を選び取ることはできない。わがままだろうか」
 相手を溶かすようなシャルマンの目はアレクサンドルが自分を受け入れるとわかりきった色をにじませる。嫌なやつだな、とアレクサンドルは眉を寄せた。アレクサンドルの心の声が漏れ聞こえているのか、シャルマンがクツクツと喉を鳴らす。
「今の私にできることは少ないが、これだけは約束するよ」
 シャルマンは背を丸め、アレクサンドルの耳に直接落とし込むようにつぶやく。
「君が私の愛を拒み私の前から消えようとも、君が生きている限り、私は君を優先する」
「……シャルマン、俺は、……」
 口ごもるアレクサンドルの髪をまたくしゃりと掻き混ぜ、シャルマンが小さく笑った。重たくなりつつある空気を散らすように大げさにため息をつく。そのまま寝転んだシャルマンがさっさと布団を掛け直すと、まだなにか言いたそうなアレクサンドルから言葉を奪うようにして視線を合わせた。
「愛の証明すらできずに君を不安にさせてしまうほど、私はまだ未熟なようだ」
「……、もう十分すぎるほどもらってるよ」
 肩まで引き上げられた布団を握り寝直す体勢をとったアレクサンドルを見て、にこりと笑ったシャルマンが当然のようにその体を抱き寄せた。慣れた香りと体温にぐんと蘇る眠気を逃さぬ程度に、アレクサンドルはシャルマンの腕と枕の具合を整えるように肩を丸め姿勢を変える。
「愛しているよ、サーシャ。私のかわいい子猫」
 アレクサンドルの額に寄せられた唇が、小さく音を立てて離れていく。
「どうか今はまだ、わがままな私のそばにいておくれ」
 彼を愛し彼の愛を抱えたあなたが好きなのに、どうやって離れろと言うのだろうか。
 アレクサンドルのその言葉は、おやすみ、とすぐに話の終わりの合図を送る、他の誰でもないシャルマン本人に遮られ届かない。決定的な言葉を拒み、逃げ道を与え続ける男の愛をもどかしくも受け入れるしかない状況に甘え、アレクサンドルは拭いきれない不満の理由すらわからないままに目を閉じた。

タイトル日本語訳:真夜中

2022.06.21 初稿
2024.02.12 加筆修正