どれくらいそうしていたかはわからない

 差し込む日の明るさにくらむように目を覚ますと、見慣れてしまった天井に、嗅ぎ慣れた少し甘い匂い。またやってしまった、と重い頭を左へ向けると、そこにはいつまで経っても見慣れない整った顔の男。いつも伏せがちな目は完全に閉じられ、アレクサンドルを抱え込むように乗せられた左腕からは力が抜けて重たい。ゆっくりと規則的に上下するその肩を見て、珍しく自分のほうが先に起きたのだな、とアレクサンドルは起こさぬように慎重に体をひねる。
 自分が押し退けたであろう、二人の間にわだかまる薄いブランケットを手繰り寄せ自分にかけ直し、ついでに自分が押しのけたせいで彼の肩から落ちかけていたそれを少し直す。
 それほど厚くないカーテン越しに照らされる室内は早朝の明るさで、まだ起こさないほうがいいだろう、とアレクサンドルはあくびを噛み殺す アルコールが残る体は少しだるいが、眠気はもうどこかへ逃げてしまった。腕を退かしベッドから抜けたら起こしてしまうだろうし、としばしその寝顔を見つめる。そういえば、こんなにじっと顔を見るのは初めてかもしれない。アレクサンドルは思い至り、せっかくだしとその顔をまじまじと観察する。
 まつげ長い、光ってきれい。肌も傷一つないな、髪は俺よりも少し硬いけど、艶があってサラサラだ。前髪、下ろしていても雰囲気がある。少し無防備で、いつもより色っぽい。
 無意識に伸ばしていた手に気付き一瞬ためらうも、自分だっていつも触れられている、と恐るおそる前髪を梳く。自分のそれとは違う感触に一人くすぐったさを感じながら、まだ起きていないよな、と顔を覗いた。もう少し触りたいという気持ちが手を動かす。
 前髪を梳き、そのままぺたりと手の甲で頬に触れた。アレクサンドルはいつも見ているだけの素肌に自ら触れている興奮に息を詰め、そのまま壊れ物を扱うように慎重に、ゆっくりと撫でる。外気にさらされて少し冷たくなっているその肌は、しっとりと柔らかい。
 女性に触れるときですらこんなに緊張したことはないな、とじんわりと手に浮かぶ汗を感じながら、いつも自分がそうされているように今度は指先で目元、頬、顎と輪郭をなぞる。
 柔らかく結ばれた唇の手前でぎくりと止まり、誰に見られているわけでもないのに一度さっと手を引いた。改めてまだ深く眠っていることを確認し、そろり、と人差し指の甲でそこに触れる。
 いつもこの唇が自分に触れるんだ、と不思議な気持ちを抱く。呼吸が止まる。心臓がうるさい。
「……くッ、クック……」
 突然その唇が弧を描き、触れていた手をガッチリと捕まえられた。声にならない悲鳴をあげぐっと手を引くも容赦なく握りこまれる。
「起きてるなら言ってよ!」
「いつになったら目覚めのキスをしてくれるのかと待っていたんだが」
「しないよ! そんなこと勝手にできないだろ!」
「真面目だな、君は」
 クツクツと喉を鳴らしながらシャルマンは薄く目を開き、アレクサンドルを眩しそうに見つめ掴んだ手に唇を落とした。
「おはよう、モンプティシャトン」
「お、おはよう……」
 にこりと笑いかけられ反射のようにアレクサンドルも笑顔を返すが、力の限り引いている手は相変わらずピクリとも動かない。
「で? おはようのキスは?」
 シャルマンはそのままごく自然に右腕をアレクサンドルの首の下に潜り込ませると、グイグイと自らの方にその顔を引き寄せる。
「えっ」
「してくれるんだろう? 勝手でなければいいとさっき君が」
 ぐぅ、とアレクサンドルの喉の奥からは声が漏れ、先程までその唇に触れていた指と顔に熱が集まる。
 そう、彼はこういう人なのだ。アレクサンドルは大きな後悔の念に飲み込まれていく。
「するとは言ってないだろ」
「だめだ、観察料をいただこう」
 そんなのあり? と声を裏返しても、シャルマンはにこにことアレクサンドルを見つめるばかりだった。柔らかい表情とは裏腹に、変わらず片手はしっかりと拘束され、体を引き寄せる腕の力は強い。
「ほら、君が触れていたここに、ちょっと口付けるだけだよ。いつものビズとそんなに変わらない。簡単だ」
 なんでもないことのようにそう言うと、ずいとアレクサンドルに顔を寄せる。
「さあ」
「……っ!」
 するまで離さない、という強い視線に頭がグラグラと揺れるような感覚に陥り、アレクサンドルは浮かびそうになる涙をぐっと目を閉じて追いやった。ずるいぞ、と心の中で叫んだ声はシャルマンには届かない。
 静かな室内にかすかな衣擦れとリップ音が一瞬だけ響き、すぐにしんと静まり返る。
 いまだ離してくれない腕から、視線から逃れるように柔らかくシャルマンの体を押しつつ、アレクサンドルはそっと目を開ける。そこにいるのはいつもの彼で、からかうでも、喜ぶでもなさそうに柔らかく笑っていた。
 と、アレクサンドルが思ったのはほんの一瞬のことだった。
「よくできました」
 にんまりと口の端を上げ目を細めたかと思うと、シャルマンは少し離れたアレクサンドルの体をまたぐいと引き寄せ、首をがっちりロックする。かわいらしい音をたてたキスなどなかったかのようにしっかりと押し付けられた唇に、アレクサンドルは逃げることもできずに目を見開き固まるしかできなかった。

2021.07.19 初稿
2024.04.01 加筆修正