迷子の末現在八代目

「君はいつも歩いてここに来ているのかい」
 まだ慣れない紅茶の香りをふんふんと嗅ぎながらカップにミルクを注ぐアレクサンドルを、シャルマンは物珍しそうに眺めながら聞いた。アレクサンドルが質問の意図を測りかねるように動きを止め、ちらりと視線をよこす。
「えぇ、まあ、はい。そうですね」
「家は近く?」
「いや、四十分くらい歩くかな。歩くの早いほうだから、普通だともう少しかかるかも」
 手を止めたままのアレクサンドルを促すようにふぅんとうなずいていったん会話を終わらせたシャルマンが、ミルクと砂糖を好きなだけ追加して満足気にそれを飲み込んだアレクサンドルの表情を見て笑った。
「車やバイクは乗らないのか」
「持ってない」
「自転車は?」
「あるけど、坂道や階段もあるし徒歩のほうが。寄り道もしやすい、こないだみたいな」
 アレクサンドルは出先で遭遇した先日の出来事を思い出したのかにんまりと笑いかけ、すぐに表情を引き締める。きりりとした顔で続けた。
「酒もそれなりに飲むし。そうするとほら、迷子になるんだ。自転車が」
「かわいそうに」
 自転車に対してか、アレクサンドルに対してか、心底同情した沈痛な面持ちでシャルマンが見つめてくるのをアレクサンドルは無視する。ビスケットを半分ほど紅茶に浸し、ぱくんと一口で頬張ると、バターと紅茶の香りがアレクサンドルを幸福にした。
「何故そんなことを?」
 痛々しい表情のままのシャルマンはアレクサンドルの質問に首をかしげ、トントンと片足でリズムを取るように革靴のつま先を浮かせた。
「いつも革靴だから大変じゃないかと思ってね」
 アレクサンドルの視線が、磨き抜かれたシャルマンの靴から自分のそれに移っていく。たしかに、初めて教会を訪れ捕まった丶丶丶丶ときから毎回ジャケットに革靴という、なるべくフォーマルな格好を選んでいた。
「……スニーカーでもいいならそれは楽だけど」
「だめな理由があるのかい?」
「よく考えたら特にない。けど、ここに来るのにジーパンにスニーカーって、あんまり考えられない」
 糊のきいたシャツ、完璧なディンプルの洒落たネクタイ、どう見てもオーダーのベストやジャケット姿でいつもアレクサンドルを出迎える色男は、なにもわかっていない顔でどうして、と首をかしげた。じっとアレクサンドルの回答を待っている。
「本気で聞いてます?」
「なにがだ?」
 いぶかしげな表情すら様になるものだという感心と、そもそもこういう緊張とは無縁の存在だろうという諦めとが混ざりあった盛大なため息がアレクサンドルからこぼれた。何度か話題が変わらないかちらちらとシャルマンの顔を窺うも状況は変わらず、諦めたアレクサンドルが自白する。
「……たぶん、あなたがいつもきちんとしているから」
「ふぅん、そうか。君はゲストなんだからそんなこと気にしなくてもいいのに。私もラフな格好をすればいいのかな」
「いや、なんでもいいよ。あなたにはそれが似合っているし、あー、いや、俺が気にしすぎなだけだ。仕事柄歩き慣れているから全然平気。全く。俺も好きでこうしてる。気にしないで」
 意図せずこぼれた褒め言葉を流してもらえるようにアレクサンドルが早口で言い訳を並べるも、目が合った途端ににこりと笑われ無駄に終わったと察する。
「ありがとう」
「……どういたしまして」
 するりと自分の頬をなでたシャルマンが、機嫌良く続けた。
「君が隣に並んで気後れしないような服も増やしておこう。最近の流行はわからないから、調べなければね」
「……そういう意味では」
「私が好きでそうするんだ」
「左様ですか……」
 結局わかっていたじゃないか、とアレクサンドルがうなだれるのに、シャルマンは面白そうに鼻を鳴らした。アレクサンドルのうらめしげな視線にふむと思案し、そうだ、と思いついたように提案する。
「もし歩いて帰るのが大変なら、送ってあげることもできるよ」
「車あるの?」
 シャルマンはなにを考えているのか、視線を天井に浮かせた。その少しの間に、アレクサンドルの懸念が募る。
「うん。十年以上触っていないが、裏のガレージに。〝彼〟が車があれば便利というから持ってきたが、そういえば〝彼〟は一度も運転しなかったな。結局急ぎのときと遠くに遊びに行くときくらいしか使わなかったし、運転も私に任せてばかりで……」
「……遠慮しておきます」
「私と一緒なら絶対に安全だよ。それに、少し気難しいがいい車だ。もったいない」
「余計怖い」
 整備されていない機械の恐ろしさも、目の前の男の底知れなさも知っている身として、アレクサンドルは自転車のほうがマシだと首を横に振った。色男の運転する「いい車」で送迎される姿を誰かに見られた日にはなにを言われるかわからないという恐怖もある。
 気安い様子だった神父様すら遠慮するような車に俺が乗るのは無理です、と渋い顔で紅茶をすするアレクサンドルに「君もわがままだな」とシャルマンがため息をついた。

2022.09.12 初稿
2024.02.02 加筆修正