せめて触れられるものだけでも

「魂に色や形ってあるの?」
 落ちかけたまぶたでそれでも目の前のコリンズグラスから酒をすすり、アレクサンドルが問いかけた。ほとんどの照明を落とした薄暗いダイニングでは、外の風と、アレクサンドルが時折揺らすスリッパが床に当たる音だけが聞こえる。
「君たちの思うそれとは違うかもしれないけれど、ないわけではないね。色というか、温度や手触りや匂い、風や日差しにも似ている」
 アレクサンドルのすぐ横でテーブルに肘をついたシャルマンは、それとなく青年の目の前の食器を遠ざけた。大切そうに握られたグラスを取り上げると、いくらか残っていた中身を勝手に飲み干す。恨めしげなアレクサンドルの視線に「今日はもう終わりだ」と浮いたままの手を掴んでテーブルに置いた。アルコールで熱を持った汗ばむ手を冷ますように、シャルマンの冷たい手がそれを覆う。
「ひとの言葉で説明するのは難しい」
「あんなに本を読んでいるのに」
「それとこれとは別だよ」
 そのまま手遊びのように手の甲の凹凸をなぞっていた指は言い終わるなりすんなりと離れ、アレクサンドルによって遠くに追いやられた水のゴブレットを運んでくる。大人しくそれを受け取ったものの、アレクサンドルの手にはぬるい指先の温度を惜しむ感覚が残る。その物足りなさはガラスの冷たさではごまかしきれない。
「俺のは?」
 何気なくもたらされた満たされぬむず痒さを押し流すように与えられた水を飲み、アレクサンドルはぼんやり浮かぶ興味をそのまま口にした。
「君の魂は美しいよ。間違いなく」
 すべて自分のものにしてしまいたいくらい。
 よどみなく返ってくる言葉に口を歪めると、アレクサンドルはふんと鼻を鳴らした。
「……よくわかんない」
 空になったゴブレットを握ったまま、アレクサンドルはシャルマンによってスペースが確保されたテーブルに伏せた。羞恥を隠すように腕に埋もれ、視線だけをシャルマンに投げる。
「例えるならそうだな、暖かく香り光る春の木漏れ日のよう」
「詩人みたい」
「どうも。あれだけ本を読んだ甲斐があったよ」
 ふざけて目を細めるシャルマンに、アレクサンドルはため息で答えた。周知を含みながらも、満ち足りたため息だった。
「でも、正直あんまりピンとこない。そんなきれいなものかな」
「それはそうだろう。自分では見えないからね」
「あなたも?」
「そう。鏡に映るものでもないし」
「ふぅん」
 そんなもんか、とつぶやいたアレクサンドルが、一拍ののちにふふ、といたずらっぽく笑った。間違いなく酔いに任せたその笑いは、シャルマンの視線をより柔らかいものにする。
「俺にも見えれば面白かったのに」
「どうだろうね」
「シャルマンのも、きっときれいなんだろうな」
 テーブルに伏せたままのアレクサンドルが機嫌良く続けるのを、シャルマンは喉を鳴らしながら聞く。
「君もたまにおかしなことを言う」
「君もって、誰と比べてるのさ」
「誰って、他にいないだろう。私が語る人間なんて」
 途端にむっと表情を曇らせたアレクサンドルが、引き締まりきらない表情でシャルマンを睨みつけた。
「……意地悪だ」
「でも魂はきれいそうなんだろう?」
「発言を撤回しかねない」
「構わないよ」
 アレクサンドルが不機嫌に顔を伏せ抗議の意を示すのを見て、シャルマンはまたくつくつと喉で笑った。
「私自身の魂を君にどう言われたって、私は君を離す気はないし」
 同じようにテーブルに伏せたシャルマンは、アレクサンドルの腕の隙間から漏れるくぐもったうめき声を聞く。
「そういうの、本当にやめたほうがいい」
「どうせ明日の君はもう覚えていないだろう。それに、君にしか言わない」
「またそうやって」
「感情を溜め込んでいては私のせっかくの美しい魂が濁るからね」
 おかしそうに低く笑う声が先程よりも近くで響くのにアレクサンドルが腕の中から顔を向けると、思っていたよりも至近距離にあった赤い瞳が楽しそうにまばたいた。
 ほら、俺にはこんなにも眩しい。
 自分と同じように少しくすぐったそうに笑う男の、透き通る瞳の向こうにそれを見た気がして、アレクサンドルはそう心の中で唱えた。
 アレクサンドルがそのままシャルマンの目を覗き込んでいると、すぐに心地良い温度の手が頭に乗り髪を梳きはじめる。まどろみを呼ぶその手に抵抗せずにまつげを伏せると、途端に意識が曖昧になり、アレクサンドルがそれらを言葉にする力を奪っていく。
 暗闇で冷えた体を温める炎のように美しい魂と、熱を伝える手、どちらか一つでいいからいつか自分だけのものにならないだろうか。
 夢の入口でぼんやりと浮かんだ思いはすぐに途切れてどこかへ消えた。

2022.05.02 初稿
2024.02.08 加筆修正