農業少年のまま、大人になった似た者同士は話が尽きない、池添さんと僕。

似た者同士友人

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久々に、たねとり農家で、たねとり自給生活というYouTubeチャンネルを開設する池添さんに会いに行った。

三重県松阪市の奥地、宇気郷村(うきさとむら)まで、片道2時間。
FBでたねとり学校計画に乗っかりたいという想いと、そのための施設の改装お手伝いのつもりだったのだけれど、間に合わず、着いたらすでに終わってた(笑)。

おかげで、二人でたっぷりお話しできた。

たねとり農家で有名な池添さん、そんなに何回もあってないし、ゆっくり話をしたこともあまりないけど、あんまり必要ないくらい言語・行動領域が似ているので、すぐに理解できる。僕の「カッパ学」で分類すると、池添さんは、霊長類の中のヒトではあるけど、ホモサピエンスではない、カッパに属する。しかも、かなり純度が高い。まさに、ど真ん中のKAPPA of KAPPAである。

おなじくカッパ属の僕からすると、もう、一緒にいるだけでビシビシと刺激を受ける、数少ない貴重なDNAレベルでの似た者同士の一人だ(と勝手に思っている)。

見ている世界の言語領域

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カッパの池添さんは面白くて、めちゃくちゃ勉強してるから、かなり科学的に物事を見ている。決して、感性に頼りきった農家ではない。今回見せてもらった草の生えない田んぼでの意見も、なぜそうなのかという分析論もとても面白いけど、結局、僕の結論は、「池添さん」という中心線が存在してこそのなせる現象だと結論づけた。
池添さんの目指す自然環境と一体化する農的暮らしの神髄に、それこそ環境が反応して全体の風景を作り上げていく。その過程の一つに、田んぼという機能を持つ部分が、池添さんが草取りしなくていいように、勝手に調整し余計な雑草が生えないように協力してくれている結果だ。

同じことを別の場所に持ち出したって、決してそうなるものではない。
農というのは不思議なもので、環境という最強の相手に対応し、調整していく一定期間を過ぎ、互いに接点を見出せるようになると、途端に、環境も関わる生き物も、互いにとって居心地の良い形に、自然と成ってくる。
まさに、「自然と成ってくる」それ以外にない。

そうして、自然と成った結果の農場を見せてもらうのは、僕らのようなカッパ型には、最高に、ビシバシに、いやもうそれ去年全身がよじれるくらいの喜びが全身を駆け巡るのである。

だから、景色を見て、気になるイメージを言語化して、言語化された感性から、また湧き出る言語の分かち合いが、すべてなのだ。どうしてそうなるかの分析論や技術論など、まさにへのカッパである。

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こんな風に、アマランサスの太陽に向かって垂直に伸びる立ち姿を見ると、それだけで池添さんがどういう世界観で生きているのかわかっちゃうのである。

そして、草の生えない田んぼで丸々と肥えたオタマジャクシを見ると、3次元の世界では池添さん体の一部ではないけど、例えば6次元くらいの目にはとらえられない高次元で見ると、ああ、すでに、この田んぼは池添さんの体の一部であり、命の泉なのだと理解することが出来るわけです。

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そうして、彼から出てくる言葉が、「人もこの田んぼの水飲むだけで生きて行けたりして」などとなると、それはやっぱりカッパ言語領域で、深くうなずくしかないわけである。間違いない。池添さんはカッパだ。

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よく見ると、確かに、オタマジャクシの顔も、なんとなく池添さんに似てるよね。そうやって、すべての生きとし生けるものが相互関係のモトに「似てくる」と、そこに、圧倒的な一つの「風景」としての「暮らし」が立ち上がるのだ。

農業とは、農を営む生業(なりわい)ではあるけれど、

このレベルになると、それは業(ギョウ)ではなく、業(ゴウ)であり、カルマであり、お与えなのだと思わざるを得ない。

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僕もそうだし、池添さんもたぶんそうなんだけど、
幼少期に、自分の天職に出会ってしまって、ただその世界にずっといるだけだから、そこに「正義」が存在しない。

例えば、「気づきから農家を目指した人」には、多くの場合、正義がセットになっている。体を壊したから健康を目指したり、社会人生活で何か違うと感じ田舎暮らしを目指したり、資本主義に違和感を覚え自然の循環に価値を見出したりする類の方々は、圧倒的な転換点を知っているから、逆にその転機に気づいた正義から逃れることが難しい。

でも、僕は幼少のころから、「こうやって生きていたい」と思っちゃったことをずっとやってるから、転換期の正義を持たないから、「こうしたほうがいい」という押し付けが、全くないのである。

「ああ、その人はそうしたいんだなあ・・・。」くらいしかない。だから、ダメもないし、イイもなくて、「やりたいなら、やればいいのに。」しかなくて、「やめたいなら、やめればいいのに。」しかないのだ。

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幼少期に、鮮明に、ある風景にとりこになってしまった人は、
ただ、その時の風景を求めている。
僕も池添さんも、たぶん、子どものころ見た風景のある暮らし方を、何十年も探求しているだけに過ぎない。

自分の正義がない人(池添さんはカッパだけど)は、いっしょにいても楽でいい。

農を志す人、もし、技術的な部分や理想と現実のギャップに苦しんでいるなら、自分の原体験の「風景」を目指すことをお勧めする。
原体験にしみこんだ風景は、決してぶれずに、どうあるべきかをあなたに教えてくれるような気がする。自然は、自分の正義では説明がつかないほどに複雑でシンプルで、何より、高い次元でつながっているからね。


池添さんのYouTubeチャンネル「たねとり自給生活」はコチラ↓
https://www.youtube.com/channel/UCdNQQJ98z5ThXXN-J_QgBvw



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