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ステイ・ホーム(おうち教室)①|先生になりたかった私のこと

 私の将来の夢は、小学校二年生の頃は「おかしやさん」。「ひもに洗たくばさみでたくさんおかしをぶら下げて、子どもたちが来たら、ひょいと取ります。少しぐらいお金が足りなくてもまけてあげます」と、作文に書いたのを覚えている。そして最後に、「それか、学校の先生です。どうしてかというと、教えるのがうまいからです」と書いていた。

 小学校六年生頃の将来の夢も、再び「学校の先生」。その頃の理由は、たぶん前とは違っていて、勉強が面白かった時期だったので、勉強の先には先生という職業があるような気が、なんとなくしていた。

 中学生の時は、毎日に夢中で、将来のことを考える暇もなかったような気がする。何か「建設的に積み上げる」という発想がない時期だったように思う。学校は校内暴力で荒れていて、殴って抑え込むような教員たちは、なりたい大人の見本には、まったくなり得なかった。


 高校二、三年生頃、再び「学校の先生」を思い描くようになっていた。最終的なイメージは養護学校の先生であり、大学も国立大学の特殊教育の教員養成系を受けていた。
 ただ、自分が子どもの中にいて教えているイメージは具体的にはなくて、「認められるべき存在としての子ども」と、「子どもを認めることができる大人でありたい」のような理想像として、教員を思い描いていたように思う。
 そんなふうだから、灰谷健次郎を相当に読み込んでいた。当時好きな本のトップ5以内には、彼の著書『私の出会った子どもたち』が入っていた。
 よく自由の森学園を特集していた教育雑誌『ひと』を、少ない小遣いから買って読んでいた。あの頃、学校教育への疑問があった。学校教育に乗れていない、こぼれおちている子どもたちがいた。そして、教えるべき本当の何かがあるはずだ、という、漠然とした反骨と理想があった。私はまだ大きな挫折を知らず、社会にも揉まれていなかったから、かなり観念的な理想を描いていたのではないかと想像する。

 子どもが好きだったかというと、そのような自覚はあまりなく、ただ、当時の私は、子どもだった感覚を、他の大人よりも失わずに持ち続けている、と思っていた。
 私は、不器用でゆっくりで、慎重に一つずつ乗り越えてきた子どもだったので、子どもが何につまずくかを知っていた。だから、子どもに「子どもらしさ」を求めることもなかったし、大人として子どもに媚びることもしなかった。子どもからすると、大人らしくない大人、だましにくい大人に見えると思う。私は、笑顔で子どもに近づいていくことは、決してしなかった。少しずつ自然に距離が近くなるのを待つ、そんな関わり方をしていた。そうして、長続きする関係が作れる、という自信があった。大人と子どもとしてではなく、人としての関係を持つというのが、私の子どもとの距離感だった。

 自分についてはそんな記憶だったから、最近になって母から、私が小さい頃から子どもが好きで、遊んであげるのが上手だった、という話を聞いて、とても意外だった。そんな自分の姿は、全く思い浮かばないのだった。そもそも私は、以前も今も、人との関係を作るのはあまり得意ではない。

 大人になって、学校の先生にはならなかったが、様々な形で、人に何かを教えるようにはなった。事業の中で、様々な人にいろいろなことを、また研修や職場等で、後進に知識や技術的なことを教えている。グループでの教育や、大きな集団に対する講義や講演、職場の中でのOJT等。
 教える仕事を目指してそうなった、というよりは、結果としてそうなっていた。「教育」として上手いかとえば、あまり上手いとは言えない。教育は、もっと内面を引き出すものだろう。私は、受け手に合わせられるにすぎないから。

いま、あの頃に理想として描いた先生に、なれているのかな…

(つづく)           …続きは3月7日(月)にアップ予定



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