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「オドサ」と「オガサ」の証言 竹花 博

 このところグラマンが連日のように陸奥湾から青森市の空を縦横無尽に飛び回り、野内のガソリンタンクを襲撃し、連絡船を爆撃した。連絡船が爆撃された夕方、安方の築港へ行って見た。死体が無造作に小型機船から岩壁に揚げられていた。助かった船員(青色の作業服の国鉄職員)も皆負傷していて、やっと歩く者、友人に抱えられる者、それぞれ血まみれで油と汗で汚れ切っていた。救護所も赤十字の旗も見当らなかった。皆てんでに自宅へ帰ったのだろうか。

 翌日のグラマンの襲来の時、農業会の二階の会議室で見ていた私の目の前で、一機が急降下して来た。「あっ、来たな。もうだめか。」操縦兵の黒い姿が見える。新町小学校の隣の火の見櫓の中腹ぐらいの高度だから、約十五メートルか二十メートルぐらいであろう。(火の見櫓の高さは三十メートルだと教わっていた)

 グラマンの黒い下腹部が、赤く火花を散らしたと思うと、「バリバリッジューッ」と鈍い音を立てた。グラマンのスピードが止まったようだ。瞬間、後方で「ズドドーン」という爆発音が上がった。グラマンは上昇して、黒い一点となって雲間に消えていった。後で知ったのですが、公会堂が爆撃されたのだそうです。

 他のグラマン数機も機銃掃射しながら飛び去っていってしまった。建物が破壊され、誰かが負傷し、誰かが射殺されたにちがいない。

 私はなぜか、私の家の隣に建っている農業会(現在の火災共済会館)の二階の会議室からこの空襲を見ていた。恐ろしいとか、逃げようとかいう考えは全くない。連日の無惨な戦火の中で神経が麻痺して、虚脱状態だったと思う。

 (昭和20年)七月二十七日の月の美しい夜でした。私の誕生日なのです。一機のB29が憎らしいほど悠々と上空を旋回したかと思うと、「バリバリッ」と火を発して投下した物があった。その瞬間「パーッ」と強烈な光を放って周囲が明るくなった。『照明弾だ』明るさが消えるまで暫くの間があった。この夜、B29一機が去った後は静かだった。


 二十八日の夜も月は美しかった。『昨夜の照明弾は、今夜空襲するぞという前触れではなかろうか』と思いながら我が家の入り口の上り台に腰を降ろして考えていた。

 当時、私の家は、現在の県火災共済会館の後の部分にあって、向いは刑務支所、右隣は県農会、左隣は寺井弁護士さん、裏は石郷岡車屋と棟方志功さんの自家があり、柳町五番地がその住所でした。

 私は、六才の時、上海で父と死別し、母の実家であるこの家へ引き取られて育てられました。母の実家は『斉藤差入弁当処』という看板を掲げ、警察・刑務所、裁判所に弁当を差入れする仕事を明治二十年代から続けていました。

 燈火管制で市内は真暗で、それは静かでした。夏の暑い盛りでしたが、戦闘帽に防空頭巾を被り、軍手を履き、巻き脚絆をつけ、布製の編み上げ靴に、雑囊を引っ掛けたいでたちで、家の奥から聞こえてくる、感度の悪い五球甲一型のラジオを聴いていました。「東部軍情報・・・空襲警報発令」と、途切れながらも叫ぶような声が終ると、県庁の議事堂の上の防空監視所あたりから、断続的にサイレンが鳴り出した。

 間をいれず「ドーン」「バーン」「ザーッ」と三段階の音がする。やや間を置いてから「ダダダダダーン」と破裂音が高く響き渡る。親子焼夷爆弾が発射され、空中で親爆弾が炸裂し、沢山の焼夷弾が散乱して落下する様子は、大輪の花火そのものです。地上で一斉に破裂して火を吹くのですから、木造建築だけにたまったものではない。

 B29が次から次へと現われて、規則的に投下していく。いわゆる『波状攻撃』であった。

 古川が燃えている。青森駅も安方も、浦町や堤川方面の空も赤くなっている。周辺から先に投下したらしい。私は家の前から走って裁判所の正面玄関に向かった。頭上で親子焼夷弾が炸裂した。このままでは直撃を受け命が危い。咄嗟に弁護士控室脇の防空壕にとび込んだ。と同時に『バリバリバリッ』と轟音もろとも、あたり一面炎の海と化してしまった。壕から跳び出して、大きな松のある築山の後方に見える菊のご紋章のある裁判所の玄関に駆込んだ。足に火がまとわりついている。『油脂焼夷弾らしい』玄関横に有った防火水槽から、側にあったバケツで三杯水を頭から浴びた。「ゴソゴソ」「ヌルヌル」『腐った水だ、ボーフラだな』と思いながら、普段入ることも出来ない廊下のツルツルな火の反射を見ら裏門へ出た。そこは、国道四号線である。跨線橋の方へ走った。

 新町小学校の裏入口を過ぎ、市営バスの交通部車庫前を通ると、交差点の向い側は県庁で、黒塀の知事官舎だが、そこまで行けない。一面火の海。建物は皆一斉に炎上中だ。黒い固りが転がって足もとで止まった。屋根のトタンかなと思ったが何と人でした。黒い裸体です。両手を握って胸の所におき、両肘を張り、足は膝を曲げて仰向けになって倒れ、衣服はわずか残り、肌にへばり付いているだけでした。今、ここまで来て息を引き取ったのでしょう。丸い頭部も顔も真黒く、男女の弁別も出来なかった。初めて見た焼死体でした。焼夷弾の直撃を受けたものと思われます。

 後ろを見ました。火の見櫓も、消防署も新町小学校(母校)も、裁判所も、赤十字社も、市役所(現在市警察署)も炎上中です。海手を見ました。警察教習所も、警察署も図書館も東奥日報社も炎の中です。前を見ると県庁も知事官舎も火に包まれ、山手を見ると、長島小学校の鉄筋コンクリートだけが炎の上に浮んで、窓々の中は火の渦です。

 国道は、炎が川のように流れ、アスファルトが溶け、靴底を通して熱い。息苦しく、鼻から目に沁みて激痛が全身を走る。こうしてはいられない。山手の方に炎に包まれていない暗い所が見える。今鉄工場横を山手に走り、長島小学校を左手に見ながら、まだ火のまわっていない細道に出て、やっとひと息ついた。旧線路通りだったかと思う。人々はまだ逃げ迷い右往左往している。大きな荷を背負う者、子を背負い、手を引き泣き叫ぶ母親、オドオドして唯立ちつくす老婆、親の名を呼びながら泣き泣き走り去る子どもを、周囲の家屋が燃え上り、一瞬の中に炎が全てを呑み込んでしまった。

 雨だ、雨が降って来た。豪雨だ、激しい降りざまである。B3の姿も爆音もなくなった。被いかぶさってくる炎の中を浪館通り方向につっ走った。やっと三本線路踏切まで辿り着いて、炎から脱出することができ、死からも免れることができた。市の中心部は燃え盛る最中であった。

 私のように、炎の中を逃れて来た人たちは唯茫然として立ち竦み、新城、浪館、安田方面から来た人たちは、親類、家族の安否を気づかって、心配そうに互いに声をかわしていた。しかし、この線路の踏切の上からは一歩も進めないのです。

 西空の雲の上で月が鈍い白い光を見せていますが、夜明けにはまだ余程間があるようです。私は、母のことや家族のことを思い再び炎の中に入って行った。

 最初の経験で国道のような幅広い道路の中央を背を低くして口に濡れ手拭を当てて歩くと良いことがわかったので、そのようにして国道に出て、跨線橋の下から県庁方面に向って進んだ。炎の勢力はいまだ強いものの、全てを燃えつくしたので下火になる一方だった。柳町通りと国道の交差点まで来た。人影一つない。交差点の真中が一番安全だ。べったり胡座をかいて腕組みをした。ここまで来る途中、何人のあの黒い死体と出会ったことだろう。仰向けの人、俯せの人。小さな体は子どもだろうに、と頭の中ではしかし虚脱状態で思考が定まらない。火力がいくらか弱まって、片岡の方も、柳町の浜手の方も、堤橋の方も見えて来た。

 炎と黒煙の間からちらちら見える東岳の嶺線の後がうっすらと明るい。夜明けが近いのだろう。焼土と化した市内に、一番最初に帰って来たのは、私なんだ。(後に、私が胡座をかいた場所に、最初の戦災記念平和観音像が建立された時は、感無量でした)

 炎上の勢いも鎮まり、周囲が薄明るくなった頃、三三五五、人が集まって来た。議事堂と、火の見櫓が堤のを含めて二つ、蓮華寺の屋根、点在する土蔵、鉄筋コンクリートのウドカラの姿が疎らに建っている他は全く灰に化してしまっていた。この時、ものすごい竜巻が橋本小あたりから堤川方向に走っていった。

 やおら立ち上って家の方へ歩いた。柳の木が焼死者の亡霊のように黒い肢体を震わせて立っている。斉藤の米屋、珍田の花屋、カネシメのそばや、川口弁護士の家、関の豆腐屋、西村の梅干屋、高木の医者さま、中村弁護士さん、と焼跡をたどりながら刑務支所(通称未決)の前の我が家へ行って見た。水道が破裂している。畳や布団が燻ぶっているだけでなにもないと言ってよい。母が帰って来た。伯母も従妹も生きていた。しかし、誰も何も言わない。母の出した釜にご飯が炊けていた。皆、釜の中に手を入れて口に運んだ。

 やおら母が私に「不破のオドサとオガサどうしてらがさ見で来てけろ」と言った。不破は、母の叔父(父の弟)で不破臣一当時七十三才、妻その六十八才。不破臣一は大正から昭和初期にかけて青森警察署の刑事を勤めた人であった。私は「うん。」と頷いて栄町の不破宅へ向った。

 海から山まで遮る物がない焼け野原である。焼死者がころがっている。負傷者もよろめきながら歩いている。自分の家とおぼしい所をかきまわしている人々がまばらだった。堤橋を渡り二本目の道を海手に折れて、一つ目の道を合浦公園方向へ曲って三軒目が不破宅だが、家の手前の路上でお二方の遺体に出会ってしまった。オドサは仰向けに、オガサはオドサを庇うように俯せてあった。裸体同様だったので焼跡から布団を拾って来て掛けて上げた。小さい頃、可愛がっていただいた。やさしいオドサとオガサだけに泣けて泣けて止らなかった。大声を上げて思い切り泣いた。やがて野内の黒滝さんに嫁いでいる娘のみどりさんがお出になったので、私は母や親族の皆様に報告のために帰って来た。

 帰途、製缶工場の東側、おたふくやさんのあたりの国道脇(現在の市文化会館玄関の向い側)の防空壕の入り口が開いていたので覗いて見た。六、七人の男女が折り重なって死んでいた。苦しそうな顔は一つもなく、静かに眠っているようだ。窒息死したのであろう、『壕がら出て逃げればよかったのに』と思ってそこを離れたが、あのまま埋められてしまったのではなかろうか。まだまだあちこちにこの様なことが沢山あったようだ。

 昨年、昭和六十一年七月二十七日に、どうしたことか、第六回青森空襲展に入って見た。空襲のことは話したくもなかったし、聞きたくもなかった。空襲を語る会に誘われても記録する会への投稿を推められてもた断か龍断わってきたし、空襲展も一度も観ませんでした。現実その中で過ごしただけに出来なかった。

 空襲展を観ていてもやはり空しい。ふと『空襲犠牲(死没)者名簿』に目を通して驚いた。再三見直しても、オドサとオガサの名が記されていないのです。主催なさっておられる大先輩の小田原金一先生、成田繁七先生にお話いたしましたところ、早速親身になってご調査くださり、私の証言を認めていただき平和観音のもとで供養され、オドサとオガサの上に終戦が訪れることになりました。

合掌

(「次代への証言」青森空襲の記録・第7集 青森空襲を記録する会 昭和62年7月より)

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