長島小学校二宮尊徳像100周年記念誌より

二宮尊徳像のこと 松井義男(元青森市立長島小学校教頭)

 長島小学校の正門右側には二宮尊徳の石像が建っている。これについて昭和三十八年三月、故工藤直三郎先生が「君は今、長島にいるそうだが一つ聞かせたい話がある。あの長島小の二宮金次郎像のことだ。あれについて本当に知っている人は何人もいない、何時か機会があったらあれについて伝えてほしい。」といわれた。そんなことで本年は創立百年に当る意義をも考えて、つぎに記してみることにした。
 昭和十五年十二月工藤先生(当時新町小学校長)は二宮尊德研究のため、小田原の柏山を訪れた。人のいわく、二宮尊徳は柏山の一百姓であったが、独学勤勉で偉大なる学者であり、人格者でもあったので、諸候からの相談は勿論あったし、特に当時の殿様大久保候からの信頼が厚かったという。安政三年七十才にして没し、明治二十四年小田原市にその頌徳をしのび、二宮神社が創建された。そんなことなどを見たり、聞いたりしてから、教育学の大家草場弘氏、日本報徳会々長笹真太郎氏 (後日二宮尊徳研究について博士となる)の師道講習会にも参加することができ、五日間で多くの収穫をおさめ帰途につくことになった。
 ちようどその時、東京において鋳型家の佐々木 (名不詳)氏という人に会った。氏は二宮尊徳像の鋳型師であるが、それよりも彫刻家当時の (無鑑査)の橋本 (名不詳)氏のきざんだ尊徳像を全国にひろめようとしていたので、工藤先生にとっては誠に好機を得たのだという。さっそく佐々木氏に依頼して発注にふみきったが、これが経費の捻出に困ったので青森市長千葉伝蔵氏におあいして、この旨お願いしたところ、今すぐには金がでないということになった。これこそ困ったことである。これをきいた大坂猛四郎氏は寄付を申し出で、昭和十六年の夏の頃、新町小学校々庭に建立されるにいたったのである。したがって、像は橋本氏の作によるもので、全国に同一のもがいくら残っているかどうか、貴重な彫刻に違いないという。
 御承知の如く、二宮金次郎という人は男性的な身体に大声である一面、気はやさしく人に親切、道理に明るい方であった。像はその人間のゆたかさを表現し、かわいい子ども姿で表わされているという。学校に建てられているわけも、ただの踊りではなく、その人柄を子ども達に接触させるためのものである。長島小のものは、そのいわれも深いものである。 昭和二十年七月青森市大戦災のあと、8月からはすべての行政指示が米国進駐軍に従わされた。当時公会堂に軍政府がおかれ、行政的方面に権力をもったキブンス氏が、「かかるものは校庭から撤去すべし」ときびしい注意があり、県市ともにあわててしまった。これを知った熊地要太郎氏は夜こっそり自宅に運びかくしておき、ギブンス氏には破かいし捨てたことにしていたという。
 昭和二十七年十月二十八日。長島小学校創立八十年。熊地さんは新町校の合併になった両校のシンボルとして、今の長島小の校門に当時そのままの姿で再建してくれたという。それにしても、七年間よくもこれを守り、かくしてくれた熊地さんに感謝したい。
 台石の「至誠報徳」は当時の市長千葉伝蔵氏の筆、「ふる道につもる木の葉をふみわけて天照す神のあしあとを見む」は尊徳の歌であり、工藤直三郎先生の筆によるものである。尊徳は歌人でもあったということである。何れにせよ校歴の一頁にふさわしい尊徳の像である。

(創立100周年記念誌「汝我志磨」青森市立長島小学校創立百年記念事業協賛会  昭和47年9月25日発行より)

2019新町小学校二宮金次郎


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