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「自分以外の価値観」を知らなさすぎるのかもしれない。

アダルトチルドレン、母娘問題、毒親問題、などなど…呼び方は様々でありながら、結局のところ、何がつらいって「大人になり、親元を離れてもなお、生きづらさが続いている」ことなんだと思う。

「親と離れました、はい、解決!」
ってなればいいけど、全然そうならないことが、「おおぉ…」ってなる。

それは、「自分の家の中で当たり前であったこと」つまり、幼い子供からすれば「全世界、全宇宙」みたいなものが、絶対的に(違うとわかっていても)崩れなくて、それはもはや洗脳。

これが、なかなか頑丈で。


私は、種別(?)でいうと、
「親の顔色を見ながら、いい子であろうと頑張ってきた」人で、決して満たされない「箱」みたいなものを満たそうと必死に愛を乞うてきた。
親からすれば「こっちだって、一生懸命やってる」ということかもしれないが、それは私の求めていたもの、とは違った。全然。

というわけで、「手に入らないもののため(とは気が付かず)全身全霊、死ぬ気で努力する、頑張る。」という文化、癖が染みついた。
色んな治療やカウンセリングを受けても、ここがなかなか強固でね。

多くのカウンセラーさんと知り合ってきてお世話になってきたけれど、だいたい言われるのが、

「もっと、適当に生きてる人たくさんいる。」

ということ。
人は見たいものしか見ない、といいますよね。
それ、最近本当に思うんですけど、「自分のように、目に見える努力(それこそ流血しながら)している人しか見ていなかった」のだと思います。
なぜなら、「努力?それなあに?食べ物?」みたいな生き方で楽しんでいる人を見てしまったら、認めてしまったら…自分のアイデンティティというか、価値観が総崩れになって、頼るものがなくなる…みたいな不安だったのかもしれません。

だからこそ、昨日つぶやいたように、「いかに楽して生きるか」みたいなことを考えている人のことは、眼中になかったし、存在すら無視してきたような。「そんなの、あるわけない」と。

だから、最近、もっといろんな人見てみよう、いろんな価値観の人見てみよう、って思って。

一日中何もせず、ネトフリ見て過ごす
行く当てもないけれど、一人旅でフラフラ
晩御飯は、カップラーメン
仕事しない時期

なんてこれまでの自分の中に絶対にない選択肢で。
ああ、なんか苦しいね、私。書いてて痛々しいなー。

そもそも、自分が「ちゃんとやってる」なんてのも、エゴでしかないからね。

もっと適当に、もっと自由に

違うベクトルの欲を探してみようかな。


もう、私の箱は幼少期に戻って満たされないけれど、それでも私がずっと大切に一緒に生きてきた箱だから。中身が少なくても愛おしい。
これをサバイバーと呼ぶのだろう。


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