ネタ書いてる/書いてないトークの影響について
ここ数年、バラエティ番組の中でよく耳にするトークテーマがあります。
それは「コンビのネタはどっちが書いているのか」について。
M-1グランプリやキングオブコントなど、お笑いのコアファンからライト層まで幅広く話題を集める賞レースがいくつもある中で、普段あまり聞くことのできないこのトークテーマは確かにとても興味深いものです。
ところが僕は(あくまでも僕個人は)、この「ネタどっちが書いてるか」のトークによって芸人さんのネタに違和感を覚えるようになってしまいました。
今回は2006年〜2012年までサンミュージックという事務所にお世話になっていた僕が、元芸人の目線で「ネタ書いてる・書いてないトーク」のリスクを分析したいと思います。
「ネタ書いてる・書いてない」はなぜ盛り上がるのか?
そもそも何故、ここ最近この手のトークをよく聞くようになったのでしょうか?
その答えを簡単に言ってしまえば「裏側を知ることへの興味と喜び」に尽きるのではないかと思います。
お笑い芸人がどうやってネタを作っているのか、そして誰がネタを書いているのか。一昔前まで、そこについてあまり語られることはありませんでしたし、それを公の場で言うこと自体なんとなくNGな雰囲気がありました。
努力してるとか、頑張ってるとか、そういう裏側をお客さんに見せないことの美学…みたいな風潮があったわけです。
ところが、ここ数年はお笑い芸人やいわゆる業界人しか使っていなかったような専門用語をテレビでよく耳にするようになりました。
例えばお笑い用語の「天丼」とか「かぶせ」とか。もっと一般的なものだと「振り」とか「くだり」などなど。
これらは本来なら裏側で使われる用語であって、お客さんに伝える必要のない専門用語です。
ところがトーク番組などの流れの中で、そういった専門用語はどうしても出てくるし、そういうコアな部分のトークは盛り上がる。
そうして少しずつ裏側を見せることが当たり前になり、結果として「コンビでどっちがネタ書いてるの?」という話題に広がっていったんじゃないかなと思うのです。
「うちのコンビは僕がネタ書いてるんです」
「相方なにもしないんですよ!」
「僕がネタ書いてるのにギャラは折半なんですよ!」
ネタ作りに限らず、プロの裏話というのはとても興味深いものです。だから「情熱大陸」や「プロフェッショナル 仕事の流儀」は人気がある。
プロ目線の真面目な熱いトークは需要があるし、相方への不満に繋げて盛り上げることもできる。
そう考えると「ネタどっちが書いてるか」はどう転んでも盛り上がる、最強のトークテーマなのかもしれません。
コントにおける「ネタ書いてる」について
コントは基本的にお芝居です。
脚本、衣装、小道具、セットがあって、事前に稽古した「作品」を見せるもので、これは演劇やドラマ、映画に近いニュアンスを含んでいると思います。
もちろん芸人さんはコントの中で「役を演じている」ので、舞台を降りたらコントのキャラクターのままの人格でないことは誰もが認識しています。
このコントでは銀行強盗の「役」をしていて、他のコントでは学校の先生の「役」をしている…といった感じで、作品によって「演じる役」は変わるし、性格やキャラクターが違うのも当然です。
つまりコントにおける「誰がネタを書いているか」や「稽古をしている」といった部分は裏側でもなんでもなく、ごく一般的に「そりゃそうだよね、だってお芝居なんだから」と理解されているのです。
だからコント師の「ネタは僕が書いてます」トークはマイナス要素が発生しないわけです。
なんなら「この設定すごい!」とか「芝居が上手い!」など、裏側を見せることによるメリットすらあるのではないかと思います。
「素の人間性を出している」という前提で成り立つのが漫才
一方で漫才はどうでしょうか?
漫才はコントと違って「役を演じている」のではなく、あくまでも「普段からこういう人間です」という、ありのままを見せる(ありのままのように見せる)ことがほとんどです。
例えばアンタッチャブルの山崎さんは普段から明るいだろうし、スピードワゴンの小沢さんは普段からナルシストな気がします。
ここでは実際どうなのかは問題ではなく、あたかも「普段から漫才のキャラクターのままです」と見せることが大切です。
そこに嘘が見えると笑えなくなってしまうし、そもそもキャラクターにも無理が出てしまう。
漫才では「自分は普段からこういう人間なんです」ということを短時間で見せながら、その人間性で笑わせる必要があるのです。
(大抵の若手芸人は、ここをクリアできずに苦戦するものです。僕らもそうでした…)
もちろん分かりやすいキャラクターを排除して、シンプルに大喜利力やネタの強さだけで勝負している漫才師もいるのですが、それはごく一部だし、それこそめちゃくちゃハードルの高いことだと思います。
つまり基本的なスタンスとして「素の人間性を出している」という前提の上で成り立っているのが漫才なのです。
ちなみに、キングオブコントやR-1グランプリと比べて、M-1グランプリの優勝者の方がバラエティ番組でよく見かけやすい理由の一つがコレです。
コントの場合「ネタ(作品)は面白いけどトーク番組やロケ番組のとき、どんなキャラクターなの?」という部分が見えにくい。だってコントは演じたキャラクターだから。
ところが漫才の場合は「このキャラクターのままバラエティにも出てもらえそうだな」というイメージが湧きやすいため、自然と番組に呼ばれやすいという流れがあるのです。
漫才における「ネタ書いてる」について
そんな「素の人間性を見せる」漫才において「コンビのネタをどっちが書いているのかトーク」はとてもリスキーなことだと思います。
特にツッコミ側がネタを書いている場合「あぁ、ボケの人は普段こんなキャラクターじゃないのか…これは台本で言わされているだけなのか」という印象が付いてしまう。
もっと言えば、漫才はアドリブで立ち話をしているかのように喋ることが基本です。そこに脚本があって、裏で稽古をしていることは誰もが何となく察してはいるものの、お客さんはそこを暗黙の了解として「あくまでもアドリブで喋っているかのような話芸」を楽しんでいます。
それなのに「ネタは僕が書いていて、相方は何もしてない」とか「ネタの練習をサボってる」といったトークは、それらの前提を引っくり返すことになってしまい、ネタを見る上でのノイズになるわけです。
漫才は、そこに嘘が見えたら負けなのです。
あくまでもアドリブで、台本は存在せず、普段からそのまんまのキャラクターであるように見せなければいけません。
少なくとも僕は(ここでも強調しておきますがあくまでも僕個人は)、こういった最近の「ネタはどっちが書いてるか」トークによって、ネタ番組での漫才を素直に見ることができなくなってしまいました。
(※それでも尚、笑ってしまう漫才師さんもたくさんいます!そういう芸人さんは本当に実力があって凄いなと尊敬するばかりです)
結論
お笑いというジャンルは幅が広く、漫才やコントに限らず、トーク番組やロケ番組にも活躍の場が用意されています。
そういった様々なシーンに対応する中で、敢えて芸人の裏側を見せることも必要だろうし、それがまた面白いことは百も承知しています。実際、僕もお笑いの熱いトークは大好物ではあるのです。
ただ裏側を見せることのリスクも間違いなくあって、そこのバランスを上手く取りながら自己プロデュースする能力が求められるという、とても難しい職業でもあるのが芸人です。
なんだかちょっと否定的な内容になってしまっていたら申し訳ないけれど、もう芸人を引退したイチお笑いファンとして、ふと思うところがあった次第です。
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