MUCCが配信ライブの観念を覆した日──それでも彼らはステージに上がり続ける

このところ思うことがある。観念を壊したい。そう思うこと自体が実は観念に縛られているんじゃないかと。
そう考えるようになったきっかけはMUCCの無観客有料配信ライブだ。
考えるとこのコロナ騒動の間もMUCCは発信することを止めなかった。
緊急事態宣言が出されたあとの5月4日。MUCCはYouTubeにリモートライブの映像をアップした。その前後の毎週水曜日にも過去のライブ映像をYouTubeでプレミア公開し、時にはそれにメンバーが出演することもあった。
それが毎週水曜日にMUCCやファンの人たちと待ち合わせてるみたいで、いつしか水曜日が楽しみになった。
残念ながらそれはもう終わってしまったけれど、その最終日だった6月10日。アルバム『惡』のリリース日でもあったこの日は、夜の9時から始まってなんと5時間半の超大盤振る舞いの長丁場だった。
話は前後してしまうけれど、6月9日。ファンの間では「ムックの日」としてお馴染みのこの日。過去には"ムック"にちなんで690分なんて長時間のニコ生をやったことがあった。そのときは正直、正気の沙汰じゃないと思った。そこまでする理由って何だろうと、正直怖くも感じた。そしたらその翌年のムックの日はなんと960分ニコ生だった。
そんな今年のムックの日恒例ニコ生は4時間だった。今年は短い放送時間でよかったなんて安堵したけど、よくよく考えたら4時間も結構長い。

毎週水曜日のプレミア公開やニコ生を見てきた中で思ったことがある。
そう、いつだってMUCCはファンを楽しませることに余念がない。

そしてそのニコ生の中で発表されたのは、6月21日に無観客有料配信ライブを行うということだった。
6月21日は本来だったらMUCCは新会場のぴあアリーナMMのステージに立っているはずの日だった。
それが公演見合わせとなってしまい(※後に中止が正式発表された)、その短期間で配信ライブの準備に取りかかるなんて、一体短期間でどれだけの時間を準備に注いだんだろう。
リモートライブが公開された5月4日の時点では、近い将来には生演奏の配信ライブの実現も夢ではないかもしれない。そう思っていた。けれどその「近い将来」がまさかこんなに早く実現するとは思ってもいなかった。


6月21日 19:00
ライブはほぼ定刻通りに始まった。夕飯のメロンパンでも食べながら見よう、などとのんびり構えていた私が悪かった。赤い照明一色のステージにメンバーが出てきた瞬間からやだもうかっこいい! 一口かじっただけのメロンパンを置いておいて私はライブに夢中になった。(※メロンパンはその後おいしくいただきました。)
アクリル板で4つに仕切られたパーテーションの中でメンバーが演奏している。ステージ中央には2017年の武道館のステージセットにも使用されていたという蓮の花。メンバーもSATOち以外はみんな裸足だ。ミヤがライブがやりたかったんだ!と言わんばかりに喜びを爆発させているのが伝わってきた。心配していた音の面もすごく良い。
これ、メンバーが今どこかで生演奏しているんだよね。だけど現実感がない。それをPCの画面越しに見ているのは不思議な感覚だった。
「惡-JUSTICE-」で始まったライブは「CRACK」と続き、アルバム『惡』の曲順通りに演奏されるのかと思いきや、ここで前作『壊れたピアノとリビングデッド』から「サイコ」を挟む。
ゆらゆらと緑色の映像が浮かび上がっては消えを繰り返すサポートキーボードの吉田トオルさんは衣装がボロボロなこともあってさながら亡霊のよう。
なんだか「ザ・ベストテン」みたいな80年代の歌番組を見ているような気分だった。最新鋭のテクノロジーを駆使して生配信しているはずなのに、映像の質感はどこかアナログ。
(※『ザ・ベストテン』…1978年~1989年まで放送されていた黒柳徹子さんなどが司会をしていた歌番組)
一旦ステージが暗転し、ここでソファに腰かけた逹瑯がこの日初のMCを挟み披露されたのは「taboo」。歌い終えると逹瑯がランタンの蝋燭に火を灯し、始まったのは「積想」。この曲は音源でもライブでもミヤがピアノを弾いている。ピアノを弾くミヤの背中越しにソファに腰かけながら歌う逹瑯という絵がたまらない。配信ライブならではの演出。歌い終えると逹瑯はランタンの灯をそっと吹き消した。
逹瑯が亡くなった自身の父親のことを曲にした「スーパーヒーロー」。SATOちも演奏しながら口ずさんでいた。このライブ当日が父の日だったことにはあとから気づいた。
MCで「メンバーがいるのに孤独だよ。早くみんなの顔見たいよ」とポロリと漏らした逹瑯。「お前らも孤独かい? 孤独じゃねえか、一緒に楽しもうか?」そう言って始まったのは「自己嫌惡」。
〈指紋だらけの液晶愛撫できるくらいの覚悟が必要だ〉でアクリル板越しにYUKKEの顔を撫で回す逹瑯。自分から寄っていくYUKKE(笑)。
ミヤの「ア●●●●●、●●●●出していいっすかね」(※ダ メ で す)
これには顎が痛くなるほど笑った。
間奏でギターヘッドで他のメンバーを攻撃し、自分の腹にも突き刺すミヤ。いつもはミヤの攻撃に耐えるあの逹瑯がミヤの攻撃に一発で崩れ落ちた! SATOちにまで攻撃した!
「アルファ」ではミラーボールの光が舞い散る桜吹雪に見えてすごく綺麗と思った。「はじまり」という意味を持つこの曲タイトルのように、MUCCはただ春を待つのではなく春を創りにきたんだと思いうれしくなった。
続く「ニルヴァーナ」の歌詞がふと耳に留まった。

〈壊れた世界の隅っこで 僕らは空を見上げてる
君のぬくもりを探しに ゆくよ〉

歌い出しからギターソロ後の転調までは繰り返しこう歌われている歌詞が最後にはこう変化する。

〈悲しみは沈み ほら 夜が明ける
君とぬくもりを探しに
ゆこう 未だ見ぬ世界へと〉

ここで「自己嫌惡」前の逹瑯のMCを思い出した。
きっと、ぬくもりを探している「君」とはここではファンのことを指していて、「君」を見つけたあとは未だ見ぬライブの景色を見に行こう、そんな風に解釈した。
その流れを汲むかのように始まった「My WORLD」では、抽選で選ばれたZOOMで参加しているファンの人たちの姿がメンバーの背後にあるスクリーンに映し出された。SATOちも振り返ってファンの人たちの姿を見ていた。曲終わりに「ありがとう」と声をかけた逹瑯。この「My WORLD」を音源で聴いたときは明るい曲調なのにどこか翳りを感じたけど、ライブで聴くと印象が違う。あるのは翳りではなく光。
本編ラストを飾ったのは「生と死と君」。歌詞に合わせてか、スクリーンに白い煙が映し出されていた。

再びステージが暗転し少しの間のあとぬるっとステージに再登場した逹瑯。逹瑯の髪がずいぶんと伸びたなあと思った。
そこでトオルさんの断髪式が行われた。トオルさん断髪式の最中の「デュールクォーツ」! 例えがいちいち懐かしい!(笑)
そののち、年末に武道館でライブが行われることが発表された。
たとえどれだけ制約があっても、それでも彼らはステージに上がり続けることを選んだ。
これは個人的な思いだけど、武道館のステージを客席がぐるっと一周して囲むあの光景が大好きなんだけど、もうそれも見れないのだろうか。
武道館が無事に行われますように。成功を祈ることしかできない。

ミヤ「あとは『蘭鋳』一発やって終わろう」言い方(笑)。その言い方何か嫌だ(笑)。

アンコール、この日の最後の最後に披露されたのは「蘭鋳」。
「一日でも早くあなたたちに会えますようにー!」
逹瑯のこの言葉を合図に、ガスマスクとゴム手袋を装着したメンバーがパーテーションを飛び出し水を得た魚のように自由に動き回る。
法を破るのがロックじゃない。法を守りつつもその中でどう立ち回るかがロックだ。
何度も「ありがとう」を繰り返す逹瑯。
全ての演奏が終わってからメンバーは少し放心しているように見えた。
ガスマスクとゴム手袋をしての「蘭鋳」も、そのまま4人が円陣組んで並んで手をつないでカーテンコールで終わったのも、最初に見たときはこのご時世に対するシニカルに感じられて思わず高笑いした。だってあなた方普段のライブでそんなことしないじゃないですか。そういうことする柄のバンドじゃないだろうと戸惑いもしてうまく形容する感情も言葉も見つからなかった。
だけどその日のうちにアップされたミヤのInstagramの投稿や翌日のTwitterの投稿で、この無観客配信ライブはチケット代に対してオーバースペックだったこと、あの円陣もカーテンコールも自然発生でそうなったことを知った。
そのことを知ってから改めて見たら何だかじーんと感動するものがあって何度も繰り返しその場面を見た。

ふと、昔の音楽誌の記事でMUCCが「大舞台に弱い」みたいなことを書かれていたのを思い出した。確か彼らの初武道館のライブレポート。その頃のMUCCのことを私はよく知らない。だからその記事を初めて読んだ時も「へーそうなんだ」くらいに流していた。
それから15年近くがたった。MUCCはここ一番の大舞台を大成功させた。これは配信ライブの観念を覆した成功と言っても過言じゃないと思う。もうMUCCは大舞台に弱いバンドなんかじゃない。
こうした配信ライブをやる予定がまたあるみたいなので、少しでもMUCCが気になった方は見てみてほしいと思います。引き込まれること間違いなしだから。


配信ライブには様々な意見があると思います。でも私の場合は元々予定されていたライブが配信ライブになったことで、会場に足を運ぶことが困難な私のような人間もライブに参加できたことに感謝しています。だから表現者やライブ会場という表現する場を提供する側の人たちの「配信ライブはライブとは言えない」といった意見を目にするたび悲しくなります。表現者が表現の幅の可能性を狭めないでください。

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