パンドラの箱に残ったのは希望だった──MUCCが放つ「負のエンタメ」、『惡』というパンドラの箱

まるで音に包まれているみたいと思った。
MUCCの新譜『惡』。全16曲も収録されているアルバムの、そのオープニングを飾るのは逹瑯作詞、ミヤ作曲の「惡-JUSTICE-」。逹瑯の息づかいが間近に聴こえてきそうな音作りに感激した。
正義と悪は相反する言葉のようでいて表裏一体。例えばSNSでよかれと思って発言した言葉が相手にとってはそれは言葉の暴力かもしれない。

───「その正義は果たして正義なのか、ってみんなもやもやすればいいんですよ」(『音楽と人』2020年6月号)

逹瑯のこの言葉にあるように、この曲がそのことを考えるきっかけになってくれたらと思った。

イントロからして例えるならまるで憎悪の大嵐のようなミヤ作詞作曲の「CRACK」。これを聴くとミヤが「惡-JUSTICE-」の歌詞を逹瑯に託したその理由が何となく理解できたような気がした。きっとミヤは「惡-JUSTICE-」と「CRACK」、その後に控える「アメリア」を憎悪の大嵐の連発にはしたくなかったんだと推測した。ミヤがこのところよく使う言葉がある。それは「負のエンタメ」。彼がやりたいのはあくまで負のエンタメであり大嵐のような憎悪を楽曲にぶつけることだけではない。だからミヤは「惡-JUSTICE-」の歌詞を逹瑯に託したんだろう。
昨年ライブ会場限定シングルとして発売され、その後デジタル配信もされたミヤ作詞作曲の「アメリア」は7分の大作。「CRACK」で剥き出しだった憎悪の大嵐をそのまま引き継いだような始まりから、曲が中盤の転調あたりから終盤に進むにつれそれが少し穏やかになっていったように見せかけ、ラストはまた激しく憎悪を叩きつける。

たたみかけるような攻勢のオープニング3曲でこれでもか、これでもかと憎悪を叩きつけてから、しかし次の「神風 Over Drive」でそんな様相が少し変わり、続く「海月」で、それまで憎悪の大嵐だったこのアルバムの様相は少しずつ穏やかな印象に変わっていった。
この「海月」をラジオで初めて聴いた時は「これ誰が歌ってるんだ!!?」という驚きで正直逹瑯が歌っているとは思えずに戸惑った。冷静に考えれば逹瑯以外にMUCCの曲を歌で表現できる人なんていないんだけれども。そのくらい逹瑯がこれまでと違う新しい歌い方に挑戦している印象を持った。
この曲は期間限定メンバーだった吉田トオルさんとミヤの共作で、MUCCが楽曲提供を受けたのはバンド23年の歴史で初めてのこと。
トオルさんの存在はMUCCに確実に変化をもたらしたし、MUCCにとって新たな血肉となった。
「Friday the 13th」は前作『壊れたピアノとリビングデッド』収録曲の「Living Dead」の流れを汲む曲と思った。「Living Dead」が消えゆく命をある意味突き放した曲なら、こちらは〈信じる者は救われない〉〈信じるだけじゃ救われない〉と完全に突き放している。まるでロカビリーのような明るい曲調だけど、歌われているのは絶望的な内容。
「COBALT」はデモバージョンとはイントロやアウトロのアレンジが変更され、メロディーや歌い方もデモバージョンとは大きく変わっている。鈍色の空から灰色の雪が降り注ぐ光景をイメージしたデモバージョンとは違い、コバルト色の空から灰色の雪が降り積もる光景をイメージできた。逹瑯の歌声もさらに優しくなっている。アウトロで何か逹瑯の語りが入っているみたいだけどギターの音に隠れていてヘッドホンをしてもよく聴き取れなかった。
アナログテレビの砂嵐のようなオープニングから始まる「SANDMAN」。ノイジーなサウンドが何かが背後から迫りくるホラー作品のような印象を受けた。曲が進むにつれ狂気が増していく。
「目眩 feat. 葉月 (lynch.)」はMUCCの曲を聴いていることは大前提として、それは大前提として、それでも聴いているとMUCCの曲を聴いているのかlynch.の曲を聴いているのか脳が混乱する。逹瑯と葉月。声に特徴のある2人の歌声が良い化学反応を起こしてうまく交ざりあっている。私事だけど、大好きなこの2バンドの共演はうれしい。

逹瑯作詞作曲の「スーパーヒーロー」は、逹瑯が亡くなった自身の父親のことを思って書いた曲だと音楽誌のインタビューで話していたのを読んだ。非常に明るい曲調。なのに切ない。

〈会いたくなったらいつ来てもいいんだぜ?〉

この歌詞で思ったことがある。完全に私事だけど、私自身も数年前に父親を亡くした。だけどそれ以来、家族も含め大きな怪我や大病をしなくなった。そして、それ以来誰かに守られているような感覚がずっとしている。それはきっと父親が守ってくれているからなんじゃないかと、私はそう思っている。
もっとも私の父親はお世辞にも決して“スーパーヒーロー”だなんて褒められた人ではなかった。けれど、それでも私にとっては父親だった。そんなことを葬式のときに思ったのを思い出した。
それから姿は見えないけど、きっと近くにいる。けれど姿を見せることや声をかけることは叶わない。それが生者と死者の境界線で、もしかしたら死者の世界は、生者の世界と隣合せにあるのかもしれない。そんなことをここ数年ずっと考えている。

〈空が生まれる場所へ 行くのかい? スーパーヒーロー
夜明けさえ待たないで 強がったままで〉
ここで胸にぐっと迫るものがあった。

〈ひとりきり みんなひとりきりだ〉
逹瑯の搾り出すような声。
ラストの語り、きっとこれは逹瑯が父親に向けたメッセージだろう。これがまた胸に迫る。

始まり方がどこかジャズチックな印象を受け、シャッフルのリズムが特徴的な「DEAD or ALIVE」を挟み、すでにライブではおなじみの「自己嫌惡」には新たな歌詞が追加されていた。

〈明日には世界が爆弾で粉々に吹き飛んでしまうかもしれないから〉

この歌詞で思い出したことがある。またしても私事になってしまうけど、2001年。9.11、同時多発テロが起こったあの直後のことを。あのとき私は日本でも同じことが起こるんじゃないか、戦争が始まるんじゃないかと思い、怖くて、不安で毎日震えていた。それを当時仲の良かった人に言ったら「いや、大丈夫でしょ~」と苦笑されたことを今でも覚えている。
大袈裟に思われるかもしれないけど、周りに戦争体験者が多かった環境で育ったからか、私にとっては幼い頃から学校よりも戦争の方が身近だった。
しかしそんな不安に震えていたその何日か後。当時の私の不安を吹き飛ばしてくれたのは、あるバンドの横浜アリーナのライブ、アンコールのときのMCだった。そのときの力強い言葉にどれだけ救われたことか。
あれから19年近い月日がたった。あのときは人に苦笑されたことが今はシャレにならない、少しずつ現実味を帯びてきていると感じている。

「自己嫌惡」の歌詞でもうひとつ。
〈くまさんには出会えず 道に道に道に未知に迷った〉
ここの部分の、くまをさん付けしているところが幼い頃から慣れ親しんだ童謡の「森のくまさん」みたいで好き。

ミヤ作詞、YUKKE作曲の「アルファ」。〈はじまりの アルファ〉という歌詞にもある通り“アルファ”とははじまりという意味を持つ。この曲の「アルファ」というタイトルにひかれたと、ある音楽誌でミヤが話していた。すべての生き物にはじまりがあればおわりもある。不平等なこの社会で、そこは誰しもが平等だ。
少し話はそれるけど、死をテーマにした映画作品や漫画作品などに死を仰々しく扱ったものが多いことに以前から疑問を持っている。死なんて誰にでも訪れることなのに。
続くSATOちとミヤ共作の「My WORLD」は〈狂った素晴らしい世界で〉という歌詞が好き。この「狂った素晴らしい世界」とはMUCCのライブ空間のことを指していると解釈した。明るい曲調なのにどこか翳りを感じる曲。
そしてミヤ作詞作曲の「生と死と君」。この曲は、2年前にシングル『時限爆弾』の収録曲として発表されたときは正直ピンとこなかった。
だけど〈当たり前が 壊れることは いともたやすくてさ〉という歌詞が今のこの時世とリンクして、改めて聴くとこの曲が2年前に発表されたことに驚いた。

〈どこにいるの どこにいるの〉

〈感覚が受け入れられない 君のいない世界じゃ
どうして彼を選んだの 神さま
亡骸は簡単に燃えて消えた
白い煙になって空に飛んだ〉

これらの歌詞が胸に迫って切ない。
そして歌詞カードにはないミヤの語り部分

〈そして人が生き死んでゆく様の中 期限付きの爆弾抱えたまま
"生きることに嘆いてんじゃねえ"って君はどこかで笑ってる〉

ここに救われるような思いがした。

ラストを飾るミヤ作詞作曲の「スピカ」。
イントロを聴いてまるでプラネタリウムのような満天の星空をイメージした。
そして、先述のあるバンドの2001年9月23日、横浜アリーナのライブで私の不安をかき消してくれたMCを思い出した。
「例え瓦礫の山になってもこのバンドはずっと続いていきます」
───結局、結果的にその約束は果たされなかったから、思い出に封をして、心の奥底に沈めたまま、この曲を聴くまで忘れてしまったことさえ忘れてしまっていた。
何でそのことを思い出したかというと、この「スピカ」という曲はMUCCを続けていくことへの決意表明のようだと思ったから。

〈いいよ 今は涙枯れるまで ずっと
泣いても いいよ おかえり
君のいたこの場所はずっと変わらないよ〉

ここで歌われている〈この場所はずっと変わらないよ〉という歌詞。
「この場所」とはMUCCのライブのことを指していると解釈したし、「おかえり」は何らかの事情でMUCCから離れてしまった人たちを、またいつ、どんなときでも迎え入れるよという優しい言葉。
そして「ずっと変わらないよ」はMUCCを続けていくという決意表明だと解釈した。
最後の〈世界に 輝く星の雨が降り注ぎますように〉という歌詞が逹瑯の優しい歌声も込みで好き。

聴く前は16曲入り(+ボーナストラック)ということで、曲数が多いアルバムは個人的に苦手なので正直身構えていた。しかしそのボリュームを全く感じさせない。ただしさらっと聴けるという意味ではない。その逆で聴いていて引き込まれる。自分と向き合う覚悟が必要になる。だからなのか。聴いたあと無自覚にしんどいのは。
そして初回プレス限定に付くエムカードで、これらのアルバム収録曲に加え、さらに収録時間の都合上惜しくも『惡』には収録されなかった「taboo」と「例えば僕が居なかったら」の2曲を加えた計18曲のCD音源とハイレゾ音源のデータがダウンロードできる大盤振る舞い。
せっかくだからその2曲とボーナストラックについてもふれたい。

逹瑯作詞作曲の「taboo」はもう大人な内容のラブソングで逹瑯の息づかいに聴くたびにギャーッ!!と赤面し転げ回りそうになる。だけど曲が終わりが近づいていくにつれ切ない。初回プレス限定のエムカードでダウンロードできるデータのみの収録なのがもったいなく感じた。
YUKKE作詞作曲の「例えば僕が居なかったら」。なんて重いタイトルが付いた曲と思った。だけど曲調は明るくて、イントロなんて90年代のJ-POPを彷彿とさせる。そんな終始明るい曲調なのに、しかしサビの歌詞は〈例えば僕が居なくなった世界で〉と、自分が居なくなったあとの世界を想像している少し切ない内容。しかしあくまでも明るく歌われている。みんな一度は自分が居なくなった世界を想像したことがあるんじゃないだろうか。私は何度もある。

ボーナストラック「Terrace」は2年前の6月9日(ファンの間では"ムックの日"としておなじみの日)に、ニコ生で配信もされた小樽でのライブで、SATOちへの「もしライブで知らない曲が始まったら」というドッキリの企画のためにYUKKEが作った曲。はじめはドッキリのためだけに作られた曲のはずだったのが、そのときのSATOちの見事な名アドリブ演奏で人気曲となった。その後翌年にはライブ中にトオルさんにやはりこの曲で同じようにドッキリをしかけたり、ライブ会場限定で8cmシングルとして発売されたり、ついにはシークレットトラックとしてアルバムに収録されるまでになった。出世魚ならぬ大出世曲。

MUCCの音源は、前作『壊れたピアノとリビングデッド』からミヤがエンジニアも手がけるようになってから、音が自由になった印象を持っている。新曲をレコーディングしてからライブで披露するやり方よりも、ツアーごとに新曲のデモテープ(そう、今この時代になんとデモテープ!)やCDをライブ会場限定で販売したりと、新曲をライブでファンと一緒に曲を育てていくという今のやり方の方が、音の自由さが増した気がして、今のMUCCに合っているような印象を受けている。

音楽誌などのメディアのインタビュー記事を読んでいると、ミヤは前作『壊れたピアノとリビングデッド』がリリースされる少し前あたりから「負のエンタメをやりたい」と話していることが多くなった。
MUCCは負の感情を持つことを否定しない。そこが好きだし気持ちが楽になれる。
世の中への不満や死への思い。そうした負の感情を曲にしたりエンターテインメントとして昇華することで、ミヤの言葉を借りると浄化させているんだと思った。

ギリシャ神話に登場するパンドラの箱に最後に残ったのは希望だった。
絶望を知らない人間に希望は見れない。春はただ待つのではなく、自らで創るもの。表現者にはそうであってほしい。
そしてその「希望」は無観客配信ライブの発表という形で私たちの目の前に現れた。
かくして『惡』というパンドラの箱は開かれた。そこから飛び出した楽曲たちが、そしてMUCCが今後どんな姿を見せてくれるのかが楽しみでしかたない。

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