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地べた音楽祭

地べた音楽祭が狛江駅前の広場で開催された。
主催したのはイジャクノ絨毯で、昨年狛江の彼らの住むアトリエの押し入れを使った配信ライブが行われ、それにも参加し今回参加することになった。

タイトルにあるように音楽祭は緑の芝生の上でミュージシャンが選んだ場所がライブ場所となり、他の人がそこに集まって演奏を聞いたりする。
その周りに出店は並び、パフォーマーとして集められたダンサーや、ミュージシャン、アーティストなどが緑の芝生の上を自由に動き、それぞれのワークをしていくことで参加を呼びかけたりする。このパフォーマーも今回のこの音楽祭のキーになっていった。
考えてみるならば、オーディエンスとミュージシャンの間にもう一枚噛ませるようなその中間にあたるような役割だったのかも。
オーディエンスはミュージシャンにまではいかないがパフォーマー的にはなれる。パフォーマーはオーディエンスにも近いし、ミュージシャンにもなる可能性が含まれている。あるいはミュージシャンはパフォーマーにもなれる。というような構造だろうか。
これによりオーディエンスの中でもパフォーマーのように活躍し始める人や、子供もこれに加わり様々な導線や揺れがミュージシャンの起こすライブ以外での動機で起きたり、あるいはライブでの動機がまた別のアクションを起こしやすい状態が準備されていった。

これだけでなく様々なミュージシャン、DJ、パフォーマーがそれぞれの活躍を見せてとにかく楽しいひと時を過ごすことが出来た。
僕も自身のダンスだけでなく、打楽器奏者がいることでポテンシャルが二重に発揮されるよに感じれられた。それはドラムの位置がドラムセットの拠点にしばられず様々なところで叩かれること、つまり様々なところから音が聞こえてくる体験も作っていること。また叩く際にドラムセットだけを頼りにしない分、人の身体のパーツ、頭とか背中とか靴とか、あるいは芝生やコンクリート、そして屋台の木の骨組み。そうすると人もお店も地面もアクションしているという気分が起きないかとも思った。
個人的にはブレイクダンスをする瞬間も出来たのが良かった。でも難しいのはブレイクダンス的ばサークルを作ってそれで疲れたあとのそのルールの解き方だったりする。
今日はほんのり別のタイプの踊りでずらしてしきつつ、そしたら観客の女性が一緒に踊ろうと入ってきてくれてそっちに移行出来たのがよかった。

各瞬間や時間がすばらしくて今、少しずつそれらを思い浮かべてなぞっていくのが気持ちいい。本当はそれをなぞるくらいで1日の残りを過ごすのでたぶん十分なんだ。(でもこれを書いている。)

狛江の人たちが顔をニコニコさせて喜んでいたこと、変な部分を含め面白がっているという光景もあった。これをやるために事前にたくさん動いたんだと思うけど、運営チームはすごいと思う。これだけの人たちが協力していて、別に音楽にみんな詳しいとかライブを普段から運営しているわけでもないと思う。
僕はなんかもうちょっと出来ることを増やさないといけないなぁとも強く感じた。
もちろん終わったあとに良かったよ、とかなんかしようとか言ってくれる方はいてそれは嬉しかった。でも一方でもう少し僕自身が運営などを出来るようにしたいと思ったし、考えはあるんだから実行をもっとしていかないとさみしいなぁと思った。

素晴らしい出会いの瞬間があり過ぎて文字にするのは遅すぎる。瞬間的な出会いがたくさん起きた経験が今日の思い出として残るってよりもそれ以上にまたそういったことをこの身体たちは起こせる、って信頼しているならそれで素晴らしいかと。

また振り返ったりしそう、そして次のことを自分も考えよう。


また家に帰って気づいたことがあって、さっきの熱狂?というかあの場にいたことと帰ってきた場の関係のことなのか、以前であればそういう面白い熱狂やクリエーションが出来たと感じられた場をあとにするとその熱は残ってというか、その場をどうしたら継続し、それ自体を社会にするようなことは出来ないかと考えれた気がする。それは人が集まれるという信頼に頼ったものであった。けど、その頼りはコロナによってなくなってしまったのか?
とかそんなことをぼんやり。
でもそれになんというか言葉に近い形で再び構造を想像出来たので、もしかしたらまたそこに向かって復活させていけばいいのかもしれない、人と連絡を取り合うなりして。
というのは思ったこと。

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