見出し画像

グランマモーゼス展や母と

あたりが暗くなってきた。ここはたくさんの道路が行き交う交差点近くにあるスターバックスでここからは真っ暗な景色に浮かび上がる白い電球で出来たニトリの文字版。
今日は昼過ぎに母親が家に遊びにきた。お茶を出し、いただいたお団子を食べる。近況を伺い、体の様子を尋ねる。作ってくれた薄い座布団が家具に加わる。こうして様々な制作が生活に入っていく。
少し体をマッサージ勝手にしていく、そして机を退けてエンヤを流して体を動かすワークを少ししてみる。強弱のトレースがうまいと思う、つまり質感を出すのがうまい、これなら全然ダンスとして成立さえしそう。

夕方前に母親を見送り(父は今日は陶芸ということだ)世田谷美術館へ。
見たかったグランマモーゼス展。彼女はおばあさんになってから絵を描き始めた。少し前まで、僕は若いとか、処女作みたいなことに興味が強くあったはずだ。今も変わらないのだけど、改めて最近のいかにシニア層や子供層とミドル世代が交わるかという興味へグランマモーゼスがもう少し文体、文脈を強くしてくれるような今日の鑑賞体験が作用する感じがあった。
"Life"と"moment"、グランマモーゼスの中に一生についてのこういう考察がある、自分にとっての人生とはよく働いた1日の終わりみたいに感じる、というようなこと。すごくわかる。すやすやと寝ちゃうやつね、たくさん動いた日は。また旦那さんとの関係を、チームを組んだ、みたいに結んでいるところ。
あと、畑の毎日というのは代わり映えのない毎日だが、その中での日の移り変わりというのを強く感じるということ。それはこないだ僕が考えようとしていた"らへん"の話だ。夕陽の移り変わり、世田谷美術館を出るとすっかり真っ暗になっていた。広い公園の中にある世田谷美術館から道路に出るまで真っ暗な中を歩く。真っ暗の世界というのは子供の頃の記憶と繋がる。小さい頃、強く暗闇を感じてそこから明かりのある世界に戻る暖かさが好きだった。くらいところから明るいところへ、明るかったのに暗くなっていくところ。そういえば、記憶について。
記憶、小さい頃の記憶があるから今も生きていれると僕はどこか思っていて何かを作る際に小さい頃のことを思い出す。作るヒント自体に記憶が助けていると思っているんだけど、もっとそうじゃなく、なぜ小さい頃というのが大事かというのが、なんか展覧会の中でか言葉でか示されていたか、感じ取っていたんだけどなんだっけ?
記憶をどのように取り出して大人は生きることが出来るか、あるいはなぜあんなにも強く記憶を焼き付けることが子供は出来るのか、というようなことがどのように行き来させられるのか。
たぶん、そのヒントが子供と老人にある気がする。両者ともっと生きたいかもな。

たくさん、僕も作んなきゃと思いました。またはたくさん人と会ってやりとりをしてみんなで生きようとしたいな、とも思いました。うまくやるぞ!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?