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「銀の心」に「金の心」

 星野道夫さんの書籍を初めて手に取ったのは今から20年程前。『オーロラの彼方へ』という未公開の写真と、星野さんの様々な著書の引用文からなる90ページほどの単行本でした。


 皆が強く思いながらも、それをいざ言葉にしようとすると難しい心の形。それを星野さんは簡素でわかりやすい文章の中に、多くの人が「そうそう、それそれ」と共感できる表現を用いて綴っていました。

 写真以上に星野さんの書く文章に感動し、僕は「一度星野さんに会ったみたい」と連絡先を探しました。そして、同書の最後のページで、すでに急逝されていたことを知り、大きなショックを受けたのでした。

同じ時代を生きながら、その人々と決して出会えない悲しさ

 たとえば、星野さんのこんな文章に心を揺さぶられました。

 昔、電車から夕暮れの町をぼんやり眺めているとき、開けはなたれた家の窓から、タ食の時間なのか、ふっと家族の団欒が目に入ることがあった。そんなとき、窓の明かりが過ぎ去ってゆくまで見つめたものだった。そして胸が締めつけられるような思いがこみ上げてくるのである。あれはいったい何だったのだろう。見知らぬ人々が、ぼくの知らない人生を送っている不思議さだったのかもしれない。同じ時代を生きながら、その人々と決して出会えない悲しさだったのかもしれない。(星野道夫著『旅をする木』アラスカとの出会い、より)


ポーランドの車窓から

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 僕はかつてポーランドに駐在していました。ワルシャワから約300キロ離れたポズナンという街に向かう片道3時間の列車の旅の途中、僕はこれと同じ感情に包まれたことがあります。

 列車の窓から見える荒涼と広がるポーランドの風景。厳しい寒さをただひたすらじっと耐え忍んでいるような北国の木々の間に、時々ポツン、ポツンと人が暮らす家がある。そんな民家を見つける度に、僕は強烈な悲しみに襲われました。

 「ああ、ここで列車を降りて、あの家を訪ね、そこで暮らす人々に会って話がしてみたい」

 そんな感情が次から次へとこみ上げ、でも、車窓の景色が飛び去るたびに、それは叶わぬ夢であることを思い知らされるのでした。

 星野さんが綴った言葉の通り「同じ時代を生きながら、その人々と決して出会えない悲しさ」だったのかもしれません。

 言葉にならない心を言葉にする。目には見えないはずのものを色でたとえる。形の無いものを有形(ありがたち)にする。そして、それを手のひらで包み込むようにして、そっと見せられたら、人の心は感動に打ち震えるのかもしれません。

結城幸司さんの「アレスカムイ ヘペレの物語」

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 映画『天鹿(ししかみ)・渡鴉(わたりがらす)巡礼 - 森に還ったワタリガラス』の中で、版画家でもある結城幸司さんが「アレスカムイ ヘペレの物語」というユカㇻを語っています。

 人間に育てられた小熊のヘペレ。彼が大きなけがをして、天に召されようとするとき、こんな歌を歌います。

 「金の心はコタンにおいて 銀の心もコタンにおいて」

 肉体は天にお返ししなければなりませんが、魂はコタンにおいてゆきます。

 「銀の心」に「金の心」。やっぱり、魂とはそんな素敵な色をしていて、きっときらきらと、きらきらと、輝いているのですね。

 感動のユカㇻは、ぜひ映画で!


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