9年前のこと、今のこと

 先日、職場で若い子たちが
「震災の日、何してました?」
という話をしていた。
 彼らの多くは中高生で、関東に住み、地震発生時は授業を受けている最中だったそうだ。
 そんな彼らの中にひとり、震災の日、宮城県にいた子がいた。専門学校の卒業式が終わり、謝恩会までの時間をつぶすため、友人たちとファーストフードで食事をしていたという。彼は、幸いにも自宅や家族に被害はなかったそうだが「そのまま家族とも連絡がとれず、一週間家に帰れなかった」と話した。
 彼の後輩にあたる子が
「ラインとか通じなかったんですか?」
と聞いていて、そうだ、ラインは震災を契機にできたコミュニケーションアプリだったと思った。

 9年前、私は西日本にある大学に在学し、寮生活を送っていた。地震があったその時刻は、実習の課題が終わらない! と同期数名と実習室に閉じこもって作業を行っていた。
 何も知らずに5時ごろに寮へもどると、皆、テレビにかじりついていて、その画面には、どこかの津波の映像が流れていた。私は
「これ、どこ? 日本?」
と聞いたと思う。まるで「世界衝撃映像!」みたいな番組で放送されるような映像だったのだ。「これは日本だ」「東北で地震があったのだ」「音が聞こえねぇからちょっと黙っとけ」ということを同期に言われ、私もじっとテレビ画面を見つめた。津波の映像、震度の情報、津波警報・注意報の発令状況が繰り返し繰り返し流れていたと思う。津波注意報は西日本にも、瀬戸内海でも、発令され、画面の右下に表示された日本列島全体が赤や黄色で縁取りをされたようだった。
 そのうち、東北・関東に家族がいる学生は、家族の安否確認をするように、という指示があった。私は関東出身なので、私も携帯から親に電話をした。もちろん出ない。関東も被害があった場所があるという。親には連絡がつかない。私は西日本にいる。親は、弟は、関東にいる友人たちは無事だろうかと、かなり不安だった。在学生の中には、東北出身のひともいたので、そんな子たちに比べれば、私の不安なんで杞憂だったのかもしれないが、それでも、あのとき、私はとても不安だったのだ。
 それでも、西日本は平穏で、私は何もできず、何も変わらない日常を過ごした。
 2011年は、「ほぼ日手帳」を使い始めた年で、11日以降、特に、12日、13日は土日だったこともあり、たくさんの言葉があふれている。
「津波の映像見た。海が黒く、押し寄せてきた。今まで見た海は、あんなにもきれいで、深くて、青くて、果てしなかったのに、無情にも何もかものみこんだ。町が消えている場所もある。まだ序の口な気がする」
「日本中が、この地震に注目してる。のに、何やってんだろ。何かできないかな」
「助かっている人もいる。行方不明=死者じゃない。まだ」
「日本中の人が『何かできないか』と感じてる」
「『何かできないか』に一番応えられるのは、次の万が一に対応することだと思う。『今』は何もできないけど、将来、今と同じ思いを抱きたくないから、今は、今、自分ができることを少しだけでもやる」
「ぐちぐちいうな。忍耐だっているし、少なくとも、被災した人達以上の忍耐はいらないのだから」
 この頃は、卒業後の進路に迷っていたこともあり、自分のあり方や今後について言及する言葉が多い。少なからず、この時の思いも影響して、私は今の職に就いている。
 当時のメモや報道を思い起こすと、地震直後は地震や津波被害の状況が徐々に判明してきて、それから福島の原発の話題が多くなってきたように思う。
 16日のページには
「状況は常に変わる。管さんも枝野さんも警察も消防も海保も自衛隊も、東北の人も、東電も、みんな寝てないんだろう。今、私がここで寝ているときも、不眠不休でがんばっているひとがいる」
というコメントとともに、次年度の「学生祭中止」、関東の母に「荷物送る」とのメモもある。
 3月下旬に実家へ帰省したが、関東では計画停電が行われ、夜の停電時、真っ暗な中懐中電灯で過ごしたり、信号が消えた交差点でお巡りさんが手信号をしていたり、と西日本にはなかった風景があった。

 この年、私は自動二輪の免許をとるために教習所に通っていて、その教習所の先生と雑談をしていて
「震災のボランティアには行かないのか」
「うまく言えないが、なかなかない経験だから行ったほうがいい」
ということを言われた。その時は「そうですね」と言葉を濁したけれど、結果から言えば、私は「大学の実習が忙しいから」「資格の試験が近いから」と理由をつけて、ボランティアには行かなかった。あれだけ「自分には何ができるのか」を考え続けていたのに、実際の現場を見るのは怖かったのだ。
 行かなかったことを後悔はしていないけれど、情けなかったなとは思う。震災ボランティアは、確かにあのときの私にも「できたこと」だった。

 昨年12月、知り合いに会いに車で宮城県へ行った。関東の知り合いと現地集合して3人で、岩手県の平泉を散策し、夜は塩竃でホヤ祭りをし(初ホヤ!)、翌朝、塩竃の魚市場でマイ海鮮丼を食し、昼頃解散した。
 このときに「常磐道も東北道もトラックや工事関係車両が多い」という話を知り合いにしたら
「東北はまだ復興の途中なんだよ」
と言われた。衝撃、という言葉が正しいかは分からないが、私は自分の「他人事感」が恥ずかしくなった。
 一昨年の冬頃にも仕事で仙台周辺には来たことがあり、そのときに見た地域は見える範囲では「普通」の生活を送っているように思え「あぁもう復興したんだな」と思ったのだ。この時に私が見たのはほんの一部であるし、どのような被害があった場所かも確かではない。第三者が元通りになったかのように思っても、失われたものは戻らないし、完全には元通りにはならないだろう。
 私はもう1泊して、仙台うみの杜水族館に行き、夜は「SENDAI光のページェント」を見に行った。水族館周辺も津波被害があった場所だ。近くには石碑やモニュメントが設置され、道路には「津波浸水エリア」という表示があった。
 今のこの日常は、日々の積み重ねの上にあると思う。失った日常を取り戻す、戻そうとするのも、日々の積み重ねだろう。

 仕事をし始めてから数年が経つ。自分の希望や実力とは別に、どんどん年次が上がり、新人から中堅になり、部下もつくようになった。
 この間、熊本地震や北海道胆振地震東部地震、西日本豪雨災害を始めとした各豪雨災害、台風による被害があったが、幸か不幸か、私の勤務地が「被災地」になったことはない。(現在、茨城県在住で台風被害はあったが、そのとき私は長期出張で不在だった。無念)
 なければいいとは思うけれど、備えておいて悪いことはない。いつか来るかもしれない日に向けて(仕事はいやになることばかりだけれど!)、日々を積み重ね、自分を磨いて行きたい。
(一方で「この仕事以外にも、万が一のときに『何かできる』仕事はあるぞ」と自分にいうこともある)

 2011年の私のほぼ日手帳の最終ページには、当時、ほぼ日サイトから引いてきた言葉が書いてある。

「なんでもない日、おめでとう」という言葉を、かつて人々は、冗談として聞いたものだ。しかし、王様も大金持ちも、鼠も孔雀も、恋人たちも、いちばん欲しいのは、そんな日々じゃないのかね。
                 『セフティ・マッチ氏の焚火話』より


 前述のとおり、私は今、茨城県在住ですが、茨城県でも東日本大震災により、24名の方が亡くなり、震災関連死者、行方不明者も発生したほか、建築物への被害もあり、沿岸部では津波被害があったそうです。
※茨城県「東日本大震災の記録誌」より
 東日本大震災で亡くなられた方のご冥福と、被害に遭われた方々の生活が少しでも平穏であることをお祈り申し上げます。
 そして、9年目の春、3月14日、常磐線が全線開通します。この日に、茨城県に住んいてよかったなと思います。仙台行きの特急ひたちを見に行こう!

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