2021年のまとめ(書籍編)2021年12月28日の日記

 2021年に読んで特に印象的だった書籍を振り返るやつです。今年刊行された書籍ではなく、青島が今年読んだものです。「まだ読んでなかったの……?」と思われるであろう名作がいっぱいあるので、例年に比べて非常に緊張している。

 SFを語るのであれば最低千冊読むべし、みたいな恐ろしいことを聞いたことがあるけれど、青島は間違いなくそんなには読めていない。せいぜいが百冊~二百冊くらい。曲がりなりにもSFの書き手を自称しているので、いつか「それ、〇〇(大作家)がやってたよね」と言われないか不安で仕方がない。来年はきちんと共通言語として扱われるような名作くらいは読んでいきたいなと思っている。イーガンとか。ミステリでもクリスティなんかは全然読めていないので、オリエント急行やらABCやらの話になると露骨に目が泳ぐ。来年こそはドヤ顔で「そして誰もいなくなった、というわけですね」と言いたい。

 今年は小説に限らず色々な方向に興味を伸ばせたように思う。そのため、取り上げる方針としては、作品の良し悪しというよりは、青島が受けた影響みたいなものを基準にした。良かった作品を無差別に選んでいたら本当に終わらないので、昨年同様十五冊だけに絞って選びました。


上田岳弘『ニムロッド』

 仮想通貨のマイニングを扱った小説。第160回芥川賞受賞作。形のないものを皆で「価値がある」と認識しましょう、というのが仮想通貨なのだと思うが、そこにブロックチェーンが導入されることでその信憑性の核は複雑に奥の方へと押し込まれていく。現実世界においては技術の発展によって真贋の区別がつかないレプリカが生まれている状況で、反対にNFTなど「複製不可能性」が技術的に保障されたものが仮想空間上には現れ始めている。

『ニムロッド』ではそのような「かたちのないもの」に価値を見出すとはどういうことなのかを、感情のやり取り、「駄目な飛行機コレクション」などを通して浮かび上がらせようとしているように見える。特に、終盤の田久保とニムロッドがスクリーンやiPhone越しに対面を果たすシーンではそれが象徴的に描かれていたように感じる。物理的な実体を持たないものをやりとりするという行為は、物理的実体と価値が一対一対応を失った時代において自明になされるものではなくなった。ニムロッド王の建設したバベルの塔を、現代における物理的実体と価値の対応の崩壊になぞらえているように感じた。

 People In the Boxの同名の楽曲からタイトルが取られているというのも、バンドのファンとしては非常に嬉しかった。今年読んで「なんだかわからないけれど凄いものを読んだ」と思わされた度としてはぶっちぎりだった。今は上に書いたように少しくらいは「なにが凄いのか」の一端を掴めたように思うけど。


水沢なお『美しいからだよ』

 第25回中原中也賞受賞作である第一詩集。「美しいから、だよ」とも「美しい、からだ、よ」とも読める題は、収録されている表題作をどちらか一方に解釈を固定するわけではなく、むしろその間を揺れ動くという多層性こそが目指されたものなのだと思う。

 青島は肉体的なものが非常に苦手である。普段は精神それそのものだけを「私」として見做しているように見せておきながら、肉体はどうしても意識の外部から精神に影響を及ぼしてくる。「私」に不可避的に影響を与えながらも、構造上の制約によってどうしても「私」の周辺的な存在となってしまう肉体。常に仕組みとして不整合である肉体は、対象として扱った時点でその手から逃れていく。気味の悪いものである。

『美しいからだよ』は、そのような精神と肉体が互いに影響を及ぼしあう様子を描いた現代詩として読めるのだと思う。そしてそれは、会話文という限りなく「事実」に近い形式や、対照的に解釈が一意に定まらない比喩によって、常に視点が揺れ動くことで成立している。精神と肉体、どちらかに肩入れして書かれるわけでなく、そのポリフォニーとして書かれることは、題のダブルミーニングに象徴的に表れているように思う。

 装丁も非常に良い。題の書かれている頁の手前にはトレーシングペーパーに似た半透明の遊び紙が入っており、物理的な触れ方や光の加減による「見え方」の違いが出ていたように感じた。切り取られる角度によってその意味を勾配として重ねる題としての『美しいからだよ』に非常に上手く沿っていた。

 何度も書くようだが青島は肉体的なものが非常に苦手である。しかし、その苦手であること(違和感)を形式も含めた全体でアプローチし、表現してみせたものとして『美しいからだよ』を読んだ。読んで心地よくなるものだけを素晴らしいものを認めたくはないし、その狙いが非常に高度なやり方で成立しているのは評価されるべきものなのだと思う。心地よさや共感と、作品の良し悪しは分けるべきだ。ということを『美しいからだよ』を読んで強く感じた。収録作では「イヴ」が好き。


宮内悠介『彼女がエスパーだったころ』

 疑似科学にまつわるモキュメンタリー形式の六つの短編が収録された短編集。SFやミステリといった合理性を重んじる小説において、疑似科学は目の敵にされやすいというか、一種の「他者」として描かれることが多いように思う。もちろん、酉島伝法『るん(笑)』など、強度のある別の現実を生み出すための黄泉比良坂のようにして機能している作品もあるけれど。

『彼女がエスパーだったころ』の特徴的な部分は、現実と地続きの世界でありながら、疑似科学が疑似科学だというそれだけの理由で棄却されないことであるように感じる。視点の取り方が非常に上手いのだ。モキュメンタリーという形式をとりながらも、その中で聞き手となる視点人物は透明化されるのではなく、内に抱えた個人的な問題が疑似科学の現象や発生経緯と共鳴し、一つの思想の目撃者として機能する。極めて理知的に、疑似科学を必要とする理由を持つ場合もあるという祈りのようなものがその構造を通して描かれているのだ。それは合理的である必要すら持たず、内的、外的を問わない不整合の上に生まれうる、むしろそうでなければ成立しないものであり、人間はそれを持ちうる存在であるということが、この小説の中では再三再四語られる。

 変化し続ける科学の「常識」に上手く適応することができなかった場合、人間はそこに不和を起こすことがある。疑似科学への傾倒やデマの拡散といった現象は、ちょうど2021年という現代においてリアルタイムの問題として感じられるものでもある。「それを必要とするということ」がどのような現象であるのかを極めて中立的な形式を通して描いて見せた作品として、非常に面白かった。いつ読んでも強い価値を持つ作品であることは間違いないのだけど、特に今年読んで良かった作品だと思う。収録作の中では特に「百匹目の火神」「薄ければ薄いほど」が好みだった。


麻耶雄嵩『メルカトルかく語りき』

 今年読んだアンチ・ミステリ/メタ・ミステリの中でも特に印象に残っている。麻耶雄嵩はミステリというジャンルが持つ構造的な特権性に焦点を当てた作品を多く作るミステリ作家であり、『神様ゲーム』『さよなら神様』『翼ある闇 メルカトル鮎最後の事件』など、形式を表面化させるような批評的なミステリの傑作を多く生んでいる。

 本作が扱うミステリの「お約束(形式)」は、ミステリにおける最終的な《結論》の特権性――つまり《後期クイーン問題》の第二の問題についてである。決して誤ることがないと設定された探偵が最終的にたどり着いた結論は、どのようなものであったとしても「不可謬」を前提としているために作品として受け入れられなければならないという不条理を扱った短編集として、本作『メルカトルかく語りき』は読まれる。銘探偵不可謬説である。

 収録されている短編「収束」「答えのない絵本」には度肝を抜かれた。間違いなくミステリ初心者に薦める作品ではないが、ある程度しっかりとミステリを読み、その構造による分類や批評性なんかに手を出し始めた人が読むと泡を吹いて倒れるほどの傑作だと思う。私は泡を吹いて倒れた。先日青島も寄稿させていただいた『関西弁団地妻SFアンソロジー 繊翳』に収録されている大滝瓶太「受胎告知の殺人」において、一種因果関係の転倒した形で定義づけられる探偵の役割というのもこの文脈に位置づけられるもので、非常に面白く読んだ。これは宣伝ですが、Kindleで読めるのでご興味があればぜひ。面白いです。


スタニスワフ・レム『完全な真空』

 お前こんな大傑作を今年になるまで読んでこなかったのかヤバすぎ枠。「架空の本についてあたかも存在しているかのように論じる書評集」という一風変わった作品。これに関しては衝撃的すぎて三日ほどかけて日記で延々と語っているので、どのように読んだかについて詳しくはその辺りを上手いこと読んでいただければと思うのだけど、びっくりするほど面白かった。

 ありがたいことに青島も『異常論文』という空想を交えた論文形式の作品のアンソロジーに掲載いただいたのだけど、日記の日付を見れば分かるように、掲載作は偉大なる先行作品である『完全な真空』を未読の状態で書いている。SFを読み始めてまだ一年と少しだからということもあるのだけど、流石にどうなんだと思う。今後は出来る限りそのようなことのないように、共通言語として使われているのをよく見かける作品くらいはちゃんと読んでおこうと思う。ニール・スティーヴンスン『スノウ・クラッシュ』の復刊、めちゃくちゃ楽しみ。

 もっと早く読んでおきたかったという後悔込みで非常に印象に残っている一冊なのだが、言うまでもなく内容も極めて面白い。それぞれの短編の仕組みとしては「架空の小説の特殊性を論じ、その構造が構造を選ばせた目的において成功しているか否かを判断する」というものになっている。序盤の作品こそ(物理的な制約によって)存在できない文学作品を存在するものとして批評するという、それなりに現実の批評と近いものになっているが、終盤に至っては認識論にまつわる架空の学説を語り、その架空の学説においてどこに脆弱性があるかを指摘するという、眩暈のするような作品になっている。「一人でとんでもないものを作って一人で壊している……」と恐ろしくなってしまった。

 それぞれの短編でいえば「ギガメシュ」の過剰性や「我は僕ならずや」の脱人間中心主義的な思想が面白かった。特に後者については同作者の『ソラリス』と呼応するものがあり、「意識 - 認識 - 世界」の結びつきについてのアイデアとして非常に興味深く読んだ。


ケネス・ファルコナー著/服部久美子訳『フラクタル』

 岩波科学ライブラリー。講談社のブルーバックスも立ち位置としては近いのだけど、岩波科学ライブラリーは各分野についての入門~基礎を、わかりやすく質の高い解説で手ほどきしてくれるのでとても良い。今年は実生活といいSFといい、ブルーバックスと岩波科学ライブラリーに相当助けられた。15冊の中には挙げられなかったけれど藤崎慎吾『我々は生命を創れるのか 合成生物学が生みだしつつあるもの』(ブルーバックス)なんかはあまりのテンションの昂ぶりに拳を天に突きあげながら読んだ。

 このようなサイエンスを扱う本に関しては、一つは必要な知識や思索について辞書的な使い方をするというのがあると思う。『フラクタル』についても自然科学・社会科学の中でどのような形でフラクタルが見え隠れするのかといった具体例を拾いたいなと思って辞書的なものとして手に取ったのだけど、気まぐれに冒頭を読んでいるうちにその議論の面白さに引っ張られて、ついつい読み物として頭から最後までしっかり読まされてしまった。

 また、全体を通して読むうちに、数学的な議論の奥にその扱われている対象についての著者の個人的な思いが見えてくるのも面白い。フラクタルは見た目にも派手な図形であるため、美しさという表面的な効果で立ち止まられがちだが、それがいかにして起こりうる図形なのかというメカニズムまで踏み込むとより面白い。本書の中でいえば拡散律速凝集周りの話は非常に面白かった。金属樹の形成にどのような仕組みが働いているのかが上手く言語化されている。

 今年は思索の範囲を広げたかったりでさまざまな分野の入門書を手広く手に取ったけれど、その中でだんだんと読み方が分かってきたのは大きかったように思う。レベッカ・スクルート著/中里京子訳『ヒーラ細胞の数奇な運命 医学の革命と忘れ去られた黒人女性』なんかも非常に良かった。


二階堂奥歯『八本脚の蝶』

 今年一月の青島の日記を見ると「人間が書物になったような不思議な手触りのある一冊。思考や文体が引っ張られているのを感じる。(中略)読んでいると焦燥感に駆られる。私は文章がなくとも生きていける人間らしく、その証拠に大学生になるまで本を手に取ることなく生きていた。きっと今から本を取り上げられても他の物で生きていける。だけど、今は文章がやりたいんですよね。その強度の低さを自覚しながら『八本脚の蝶』を読むことは、罪悪感があまりに強い。」と記録している。

『八本脚の蝶』は、二十五歳の時に自ら命を絶った編集者による日記を書籍にまとめた一冊である。どのページを開いても本の話が登場するほどの愛書家であり、その趣味についても切実なまでに一貫している。しかしながら、特に序盤については書籍の内容に絡めたりそこから完全に外れたりしながら、自らの生についても熱量たっぷりに言葉を尽くしている。本を読むことと自らを世界と繋がることが同じ意味であったのだろう。それだけに、終盤の日記がほぼ書籍からの引用だけになることが苦しい。前半を「書籍と生きている」とするのであれば、後半は「書籍で生きている」という状態だったのかもしれない。

 青島も二階堂奥歯が命を絶ったその年齢にだんだんと近づいてきているけれど、読むこと/書くことにそれだけの切実さがあるわけではない。むしろ、切実さが唯一の評価軸になることへの忌避感すら感じている。「出力物における試みの正否」と「それにかける著者の想い」は近い位置にあって関連するものだが、無批判に同一視されるべきものではない。切実さという重力から意図的に逃れることができるのであれば、それを作家としての一つの特徴としてもよいのではないかとすら考えている。

 しかし『八本脚の蝶』を読むと、そのような理屈を超えたところで「切実であること」の重みを感じてしまう。あまり適切でない言い方になることは承知の上で、青島にとっては罪悪感のような一冊であった。切実さ、当事者性、私性。それらをテクストの外部に位置づけることには、極めて強い客観性と責任を要する。倫理的/構造的根拠から頑なにそれを用意することは、実のところ二階堂奥歯がそうしたような切実さの単なる裏返しであるのかもしれない。

 切実さに拠らない文芸を、という切実さ。これは言葉遊びに過ぎないのだけど、『八本脚の蝶』を読んで感じた罪悪感の一端を表す言葉としては適しているように思う。


斉藤斎藤『人の道、死ぬと町』

 当事者性という意味ではこちらも強く印象に残っている。引用やコラージュといった手法を通して、不可避的に失敗する私性・当事者性へのアクセスが浮き彫りとなる斉藤斎藤の第二歌集。2004年から2015年までの作品が収録されている。

 東日本大震災や人体の不思議展、附属池田小事件、原子爆弾、歌人・笹井宏之の葬儀。本作で題材となっているこれらには、執筆された2004年から2015年の間の出来事もあれば、それ以前の出来事もある。しかし、それらの全てに共通しているのは、なんらかの形での当事者による述懐が記録として残っているということだ。本書ではそれらの「わたし」でない人間の手による記述をそのままの形で引用・コラージュすることによって、連作において様々な当事者性を獲得しようとする試みがなされ、そしてそれらは常に失敗しながら、斉藤斎藤の手による編集という性質が付与されていく。

 他者の体験は他者の体験でしかないため、私には語りえない。それを短歌では私性と呼ぶのだが、その上で、斉藤斎藤は引用という形式に裏打ちされるような形で「わたし」以外の当事者性を詠もうとする。しかし、それも他ならぬ「わたし」が詠むという文脈によって必ず失敗に終わり、そうして生まれたどうしても埋まることのない当事者性との隔たりこそが、作品の中に立ち現れる。

 ここ一年ほどはずっと、フィクションを作る上でどうしても当事者性の簒奪という側面が現れることを考えている。フィクションを成立させる要件である「想像」に対して、他でもないこの私は、どのような形で責任を持つことができるのか。短歌というフォーマットに落とし込む段階で損なわれるなにかについての、失敗という実践。そのようにして作られた『人の道、死ぬと町』は、フィクションの当事者性を考えるうえで非常に重要な現象についての一冊であった。


波木銅『万事快調〈オール・グリーンズ〉』

 第28回松本清張賞受賞作。旧態依然とした閉塞感に満ちた田舎から離れるために、ふとしたことから手に入れたマリファナを栽培して資金を稼ぐ三人の女子高生の物語。文章のドライブ感が凄く、あらすじも一見露悪的に思えてしまうが、ページをめくるとすぐに『侍女の物語』が目に飛び込んでくる。本作は、抑圧に対する抵抗の在り方を扱った作品なのだ。

 読み進めるうちに、すぐに大量の固有名詞の存在が意識される。同時代的なものからオールドスクールなものまで幅広く登場するのだが、それらカルチャーへの触れ方のところに登場人物はアイデンティティを見出している。その危うさを具体的なエピソードをもって描きながらも、一方でそのようなカルチャーを食べて肥えることでしか生きていけない人間にとっての救いも描いている。エンターテインメントが抑圧に対する武器にもなり、鎧にもなるという主張は、本作そのものが拠って立つところでもあるのだろう。

 また、登場人物の生い立ちのような部分がドライに描かれていたのも非常に効果的だった。理不尽はただ理不尽であるというただそれだけの理由で排除を望んでよいという祈りのようなものが通奏低音として存在しているように感じられた。やはりこの作品は、抵抗の肯定を描いたものだったのだと思う。

 倫理的であることとエンターテインメントであること。これらをトレードオフの関係であるとみなしてしまう場面は、最近だとポリティカル・コネクトネスの文脈なんかで多く見かけるように思う。倫理的な主張を持ちつつも面白い読み物であることは、なんら矛盾しないことであるはずだ。青島はそう考えているし、そのような文章を書きたいと思っている。

『万事快調』はまさにエンターテインメントであることが抑圧への抵抗になるという作品であったため、その点において非常に嬉しかったのを覚えている。波木さんとは今年六月に配信の始まった『アジアSFアンソロジー 万象』でご一緒させていただいたのだけど、そちらに寄稿されていた「ショーは続けなければならない」も非常に良かった。フィクション(信じること/解釈すること)によって抑圧の外側を希求することを扱っているという点においては、『万事快調』と共通している点もあったように感じる。

 近い問題意識から出発して、これだけ広く世に問えている作品が出たという事実も含めて、今年読めてよかったと感じた一冊だった。


ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』

 一見するとあまり褒められたものでない指南書であるように見えるが、その実、読書について「読む」という動詞の人称的・時間的・密度的なグラデーションの面から再考を図り、「読んでいない本について堂々と語る」という行為に肯定的な意味を与える思索についての大真面目な実践の書である。「読んでいない」という言葉から連想されるような賞極性に反して、むしろ「読んでいない」から出発して「読む」という行為がいかにして為されるのかを網羅的に考えることのできる良書であった。

 これは近いテーマを扱った座談会記録『『罪と罰』を読まない』に収録されている三浦しをんの寄稿の受け売りなのだけど、「読む」という動詞には二つの意味がある。一つは物理的に目で文字を追うという意味、もう一つは内容を理解するという意味である。そして後者の意味において「読む」は伝え聞いただけの情報からその本の内容について考えを巡らせることも含みうる概念であり、そう考えると「読まずに読む」という撞着語法が成立しうる。極端な話、その本の存在を知った時から「読む」は自動的に始まってしまうのだ。

『読んでいない本について堂々と語る方法』ではこの自動性を問題視する。すなわち、無意識のうちに解釈を固定していくことによって、テクストが本来持っているはずのポリフォニーを損ねる可能性が指摘されるのだ。各々の内奥に生まれる「本」に制限をかけない、最大限に開放された「読む」を行うためには、意識的に「読まない」領域を必要とする。

 この一年はおそらく以前までと比べて多く書籍を読むようになったのだけど、それだけにかなり「この本はこういうことが書かれていて、こういう主張なんだよね」と理解した「つもり」になることが多かったようにも思う。『読んでいない本について堂々と語る方法』はそこから一歩立ち止まって、「読む」という行為に自覚的になることを説いている。メタクリティークな読みを心掛けるきっかけになった一冊だったように思う。


宮木あや子『雨の塔』

 様々な事情から閉鎖的な全寮制の女子大で暮らすことになった四人の少女の物語。資産家の娘だけが入学できるため物質的にはどこまでも煌びやかな世界ではあるのだけど、それでは満たされることがない人間が、欠落を埋めるためになにかを求めて関係を築いては壊してしまう様が描かれる。

 柚木麻子なんかもそうだけど、宮木あや子は女性同士の関係を描くのが非常に上手い。特に、家庭の都合やエゴ、事件など、外部からの力によって当人たちではどうにもできないような形での関係性の変質と、それから身を守るための殻としての繋がりという外圧と内圧の鬩ぎあいを描くことが多い。その少女同士が形成する内圧としての殻のことは、ジャンルとしては少女小説やシスターフッド、エスなどと呼ばれることになるのだと思う。

 それぞれの登場人物における「外部」からの遮断は、自力での脱出をするだけの力を持っていない人間に対する構造的な暴力であると読むことは可能なのだと思う。しかし、この小説においてこの理不尽(暴力)は一種の舞台装置のように扱われているようにも見える。もちろん、こういった社会的な不均衡を悲劇的に描くことによってそれに疑問を呈するという意味合いもあるのだとは思うけれど、少女小説をその面のみによって読むのは少し不足しているようにも感ぜられる。

 小説における倫理というものは、その小説の中身によって規定される一面が多分にあり、例えばミステリでは究極的な暴力があくまで舞台装置の一つとしてドライに処理されていることが多くあり、それを倫理的読解のテクストとして処理することはあまり意味をなさない。少女小説についてはその装置となっている構造的な暴力に対する疑問のようなものを読者の中で育むための栄養として機能しているというのもまた一方の事実だと思うのだけど、小説の中で扱われている反倫理というのは、そのままの形で即座に倫理的読解に繋がるとはいえないのではないかと考えた。それは、耽美で美しい物語として楽しむことも求めている。

 というようなことを日記に書いたところ、ありがたいことにフォロイー氏から菅聡子『〈少女小説〉ワンダーランド』をおすすめいただいた。関連して数冊読ませていただいたのだけど、これは特に上手く「少女小説の存在がなにを守ってきたのか」をカルチャーとしての事実から紐解いていたように感じた。

『万事快調』の覚書でも似たようなことを書いたが、エンターテインメントと抵抗はコンテクストによって接続されることで、上手く連動するようになる。テクストの外側に出ることになったとしても、それが実存にとってなにかしらの意義を持つのであれば小説の存在としては一つの価値となるのではないかと感じるようになった。


江永泉、木澤佐登志、ひでシス、役所暁『闇の自己啓発』

 今年の読書傾向のかなりの割合はこれに引っ張られた。発売当初、リアル書店に行くたびに「どこの棚に置かれてるかな~」と見るのが面白くて仕方がなかったのを覚えている。青島はおそらく現代思想寄りの人文書なんじゃないかと思っているけれど、書店によってはエッセイのところだったり、スピリチュアル、創作論、あとはタイトルに書いてあるから言われてみれば当然なのだけど、自己啓発の棚にも刺さっていて笑ってしまった。

 そうなってしまうのも無理はないなとも思う。『闇の自己啓発』はnoteで連載されていた読書会のログに、膨大な注釈やコラムを加えて書籍化したものであり、その扱われるトピックについても非常に多岐にわたっているのだ。課題図書で取り上げられている話題に対して、様々な角度から再考を行う引き出しの多さ、現代思想をもってインターネットカルチャーを解体していく手捌きの鮮やかさ、それら概念の接続の柔軟性にも驚かされる。年明け早々にとんでもないものを読んだと愕然としてしまった。

 書かれていた内容については未だに半分も理解できていないような気がするけれど、既存の枠組みへの効率的な迎合としての〈自己啓発〉からのイグジットとして『闇の自己啓発』は読めた。オルタナティブな価値の提唱というか、価値によって駆動するシステムの外に逃れることというか。来年以降もブックガイドとして、その読み方の一例として読み返すことになるのだろうなと思っている。関連して読んだ海猫沢めろん『明日、機械がヒトになる』木澤佐登志『ニック・ランドと新反動主義』稲葉振一郎『銀河帝国は必要か?』も非常に面白かった。


笹井宏之『ひとさらい』

 26歳という若さで「夭逝」した歌人である笹井宏之の第一歌集。青島は笹井の場合において夭逝という言い方はあまり適さないのではないかと考えているのだけど、その病と死、短歌の結びつきはどうしても笹井の短歌を語る時には語られてしまうものとなる。

 ことし一年は「誰が書いたのか」という要素が、文章表現においてどのようにして扱われるべきなのかということについて考える機会の多い年であった。『八本脚の蝶』もそうだし、『闇の自己啓発』『人の道、死ぬと町』もそうだ。繰り返しにはなるが、青島はテクストは作者の意図に関係なく評価されるべきだと思うし、その意味において広義の「誤読」はむしろ読みのポリフォニーとして肯定的に解釈されるものであるようにも思っている。

 短歌において重要な概念の一つであるとされる「私性」は、テクスト論における「作者の死」という態度と、当事者でないわたくしが当事者を騙ることはできないという表現の倫理が重なるところに立ち現れる一つの不確定な領域であると言える。読みと表現の間に横たわるテクストへアプローチする際に、両岸ともにそこへのアクセスを阻んでいるのは倫理的態度だ。究極的には読みは積極的な誤読によって、表現は自覚された暴力によってしかそこへ辿り着くことはできず、そうまでしてテクストに辿り着かなければならないのかという迷いが、また私たちをそこから遠ざけていく。

 笹井の短歌は、非現実的な暗喩/モチーフの重ね方の奥から色濃く立ち上がってくる私性によって一つの作品となっている。それを鑑賞するという行為は、いかにして成立するのか。暗喩にまみれた短歌から抽象的な手触りとなって立ち現れる笹井の私性こそが、『ひとさらい』に表現されているものだと感じた。「笹井宏之の短歌をいかにして読むか」という態度の決め方は、かなり究極的な形での読解の倫理なのではないかと感じた。

 今年は第二歌集『てんとろり』の方も読んだのだが、そちらも定型詩として読むことによって意味の重ね合わせが起こる仕組みになっているものを見られたりと、非常に良い歌集であった。


石黒達昌著/伴名練編『日本SFの臨界点 石黒達昌 冬至草/雪女』

 今年読んだ本の中で一番読み物として面白かったのはこれかもしれない。20年ほど前に書かれた作品群が『日本SFの臨界点』というパッケージで再び紙の形で読めるようになったことは非常にありがたいことだし、希望のあることであるように思う。昨年の二冊に加えて、今年は中井紀夫新城カズマ、それから石黒達昌の三冊が刊行され、シリーズとしては一応の完結となったらしい。個人的にはまだまだ読みたいのだけど、次々と刊行されては後ろの方に追いやられていくよりは、この五冊をじっくりと読んでほしいというのも強く理解できる。

 本書の特徴として、架空生物を扱った論文・レポート形式の作品が多く見られることが挙げられる。研究とその解釈・態度が主となって進行するのが非常に印象的であり、それそのものを表現の対象としたり(合理性の寓話や、研究システムの脆弱性)、それらを介して生命や同一性について思弁を広げていく。一貫して怜悧な文章であるのだが、その奥にはなにか強い感情が見て取れるのがとても良い。

 普段は短編集を読むと「この短編が好みだった」と書くことが多いのだけど、本書についてはそれぞれの短編が全体の態度の「切り口」となっており、その総体として立ち現れるシステムから翻って読むことによってそれぞれの作品に更なる意味が見出されるものである。それを掲載順含めコンセプチュアルに纏めてみせた編者の伴名練の手腕には驚かされる。

 詳しい感想については日記の方に書いているのでそちらを参照してもらえればと思うのだけど、普段から青島が散文表現におけるテーマとしているものと共通する部分が多く、なんだか感じ入ってしまったのを強く記憶している。個体とはなにか、同一性とはなにか。それらを定義づけようとすると必ず立ち現れる「その境界線上に存在する事象」を様々な角度から扱った短編集を読めたのは、今年一番の僥倖であったように感じる。来年は、これに影響されながらも新しい価値を提示できるような作品を書こうと思っていますので、機会があれば読んでいただけると嬉しいです。あまりに良すぎて所信表明をしてしまった。


おわりに

 この手のまとめをやると、語り忘れているものがあるのではないかと気にかかってしまう。上では取り上げられなかったが、雑誌でいえばユリイカ『特集:偽書の世界』などが強く印象に残っていて、記録すること/記録を扱うことの倫理について慎重になるべきなのではないかということを強く感じている。

 例えば、最初は今回取り上げた一五冊の中に『異常論文』を含めようかとも考えたのだが、そこで商業作家としてデビューした青島から見たそれは、どう考えてもごりごりにバイアスのかかったものとなっている。大森望編『ベストSF2021』収録「クランツマンの秘仏」の扉裏によると「二〇二一年の日本SF界隈を席巻したのは"異常論文"だった」らしく、何にも代えがたく本当にありがたいのだけど、それを語るだけの客観性を現在のところ青島が持ち合わせていないというのも一方の事実ではあると思う。

 このまとめについてもそうで、特にこれといった理由もなく十五冊に絞ったことでなにかを損ねてしまった可能性は常に意識されるべきだろう。他でもなくこの十五冊を挙げたことによって、思考は固定され、新しい文脈が付与される。『読んでいない本について堂々と語る方法』で指摘されていたような読書という行為の不可能性は、ここでも立ち現われてくる。

 今年は読んだり書いたりする環境に大きな変化があったためか、「読む」という行為についてさまざまに考えることが多かったように思う。それは来年以降もおそらくは向き合わなければならないトピックであり、実際の活動に要請される面からも、そこから外れた個人としての営みとしても、常に考えることになるのだろうなという予感を抱いた。

 それはそうと、今年は面白い本に沢山触れられた一年であったなとも感じます。Twitterをふくむコミュニティで(社交性皆無なりに)それなりに関わっていただいたこともあって、興味深い本へ手が届いたのではないかと思います。とてもありがたい。来年もなにか知らない世界に触れられるような文章をたくさん読めたら嬉しいし、青島自身もそのような文章を生産できたらいいなと思っている。引き続き、よろしくお願いいたします。


 書籍以外の2021年まとめは以下で読めます。随時追加予定。


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