冬至草/雪女 2021年11月10日の日記

伴名練が編んだ石黒達昌の短編集『日本SFの臨界点 石黒達昌 冬至草/雪女』(ハヤカワ文庫)を読んだ。良すぎる。私が散文でやりたいことの一側面どころか二側面くらいは石黒達昌が全部やっている可能性がある。

本書の特徴として、架空生物を扱った論文・レポート形式の作品が多く見られることが挙げられる。研究とその解釈・態度が主となって進行するのが非常に印象的であり、それそのものを表現の対象としたり(合理性の寓話や、研究システムの脆弱性)、それらを介して生命や同一性について思弁を広げていく。一貫して怜悧な文章であるのだが、その奥にはなにか強い感情が見て取れるのがとても良い。普段は短編集を読むと「この短編が好みだったな~」と書くことが多いのだけど、本書についてはそれぞれの短編が全体の態度の「切り口」となっており、その総体として立ち現れるシステムから翻って読むことによってそれぞれの作品に更なる意味が見出されるものであるので、今回ばかりは「全部めちゃくちゃ良かった……」と書かせてほしい。すごすぎ。

もはや感想でもなんでもなく自分語りになってしまうのだが、驚くほど私のこれまで書いてきた小説とモチーフが重なるのだ。物語自体が多くの研究とその成果によって駆動する仕組みになっているために必然的にモチーフ自体も多く存在するからというのもあるのかとは思うのだが、自分が興味を持って用いたことのある対象が端正な言葉の中で息づいているのを見るとどうしても驚かざるを得ない。凍結された細胞の不死化を目指した培養、ブローカ野/ウェルニッケ野、セイタカアワダチソウのアレロパシー、プログラムされた細胞死、などなど。決して多くない私の書いた文章と、500ページに満たない一冊の短編集でこれだけのモチーフが重なるのは、偶然と呼ぶにはあまりに出来過ぎているような気がする。(捕捉になるが、モチーフの取り回しは本書の方が明らかに優れている。勉強になった)

これはおそらく、私が生物学を触っていることだけでなく、散文表現の中でやりたいと思っているテーマが非常に近い位置にあるから起こっていることなのだろう。個体とはなにか、同一性とはなにか。それらを定義づけようとすると必ず立ち現れる「その境界線上に存在する事象」を扱った短編が、本書においては多く見られる。『アブサルティに関する評伝』『平成3年5月2日,後天性免疫不全症候群にて急逝された明寺伸彦博士,並びに,』では共通して純系マウスにおける遺伝的な同一性を挙げて(とくに後者では集団としての不死性を踏まえて)いるし、『雪女』では近交によるクローン化や長寿による記憶のリセットなどが取り上げられている。『ALICE』における人格の移入や分裂、同一性なども遺伝子に拠らないミームの伝搬を一つの軸に据えた物語であるとも言えるだろう。

癌という、個体の制御を外れて無尽蔵な増殖を行う不死化細胞対象に研究を行っていたという著者にとって、それらはごく身近な問題として存在しているのかもしれない。そのような関連性を見出していくと、本書において短編『希望ホヤ』が巻頭に置かれている理由の一つもわかるような気がする。『希望ホヤ』は、個体としての人間の生と死、種としての人間の生と死、個体としてのホヤの生と死、種としてのホヤの生と死の八つが関連して語られる、一種網羅的な作品として解釈することができる……などと書くと、さらに人間とホヤそれぞれの細胞レベルでの生と死が描かれているという事実が欠落しているために不正確ではあるのだが、そのような「命」の多義性を非常に明確にテーマとして押し出している作品である。架空の生物を対象とした研究とその解釈を軸に進行する物語として、それを物語として成立させているのは間違いなく「命」という対象をどのように解釈し、扱うかという態度そのものが持つ思弁性である。

行為という事実と、それを裏付ける態度の表明は、それ自体高度に物語的であるのではないかと考えている。「物語的」がどのような状態を指すのかについてはまだ青島には上手く言語化できていないのだが、おおむね「作品を契機に自発的な感情のシミュレートが行われる」ようなものを考えていただきたい。つまり、この意味での「物語的」であるためには、明示された心理描写や経時性は必ずしも要求されるものではなく、端正な記述から「見出す」ことが可能となる。どう考えても類似点が多くあるので触れるのだが、『異常論文』において「エモい」とされる作品はおそらくこの方向性から攻めていると解釈されるのだろう。物語において広く必須であると信じられている描写は、物語そのものではなくただの一つのアプローチに過ぎない。上の意味における「物語性」は論文形式・レポート形式の作品からも行為と態度によって説明される。『平成3年5月2日,後天性免疫不全症候群にて急逝された明寺伸彦博士,並びに,』などが芥川賞候補になったのは、形式の珍しさもあるだろうが、むしろそのようなやり方が物語の定義を押し広げるような性質を持っていたからというのもあるのではないだろうか。

本書に収録された短編はどれも20年ほど前に書かれたものだ。一種「予言」的な作品も多くあり、間違いなく現在でも通用する科学的態度の反映された作品であることには疑いの余地がない。しかし、当時このような視点を持てていた著者が今であればどのような作品を書くのかということにも強い興味がある。伴名練の解説の中で「新作短篇を執筆中」と触れられていたので、それを心待ちにしながら過去の短編集も読んでいければと思う。本当に面白かったし、こう在りたいなと思わされるような一冊であった。良すぎる。石黒達昌とそれを素晴らしい形で編集した伴名練に心から感謝……。これがサイエンスフィクションだ……。

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