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〈社会〉の向こう側に佇む

僕は15歳の青年かあるいは少年という部類に属する人間。家族がいて、教育の義務を保持し、名前があり、友達がいる。そういう人間。

この喧騒で雑踏とした社会に生きているうちに僕はどうも正体のよく分からない焦燥感に襲われ、苦しい動機を抱える。

最近こうして書いていてふと感じるのは僕から殻が剥がれていくという感覚だ。

その殻は可能性とか才能とか時間とかそういった部類のもので形をなしていていてその殻が何層も重なった内側に僕という空洞化した存在がいる。そして〈社会〉という母体から生まれ落ちたこの小鳥は飛ぶことすらできず、母鳥の与える餌を食べ、巣の中で1日をを過ごす。

そうやって過ごしているから家から、巣から出ていけと言われても生きていけるはずがない。そんな絶望感が僕の前に佇んでいる。


先日、ある本がゴミ回収センターに落ちていた。それは酷く痛んでいたが凛としてそこに座っていた。左側の3分の1は削れて読めなくなっていたがそれでも継ぎ接ぎの文章で内容は理解できた。よく考えれば理性的な考えを踏まず端的に意思のみで動いて本を開いた。「牛に惹かれて善光寺参り」という言葉を僕はその時から信じている。本のタイトルは「1-歳からの--学」

「-」と記したところは文字が読めなくなっていた。著者名もかすれていて「司」という文字だけがなんとか読むことができた。見るからに昔の本。最初の数篇には写真も載っていたがそれも最初の面影は残っていない。

篇を重ねて読み進めていくと、僕はそこに確かに月明かり見た。それは自分から剥がれ落ちていく殻を惜しまず剥がし、空洞化した自分を受け入れるもう一人の自分を確率する方法が記されていた。