自分をまるごと生かすということ
今年出逢ったなかで一番面白い、
これまで出逢ったなかで一番長い(最低三日はかかる分厚いハードカバーが16巻!)小説・「エイラ 地上の旅」。
三万年前の地球を舞台に、ネアンデルタール人に育てられたクロマニョン人の少女の生涯を描いた物語で、そのなかにマンモスを狩るシーンが何度か出てくる。
部族総出で、綿密に計画を練り、1シーズンを費やすビックプロジェクトであるマンモス狩り。
狩られたあとのマンモスは、すべて使われる。肉は食用に、脂は照明や軟膏に、皮はテントやマットに、骨は住居の資材や道具作りに、胃袋や腸は収納袋などにされ、内臓も腐らせて皮をなめすために使われたりする。
マンモスを構成している丸ごとが、部族数十人の生きることを構成するすべてになる。
そういう描写がすごく好きで、深い安堵感のようなものを感じるのは、
「まるごと生かしきる」
ということを本能的に求めているからなんだろうな、と思う。
2022年、小説を書くことが仕事になった。
小説家になって何よりも幸せなのは、「自分をまるごと生かしきる」という実感があることだ。
見栄えのいい美味しい部分、魚でいうと刺身にするような部分しか仕事には使えないものだと、ずっと思っていた。
社会性とか、効率よく動けるとか、アイデアを実現できるとか、コミュニケーションや気遣いができるとか、マルチタスクとか。
だけど小説を書いている時は、これまでなら捨てなきゃいけないと思い込んでいた皮や骨や内臓までもぜんぶ使い切っている実感がある。
これまでやってきた仕事でも、その実感がふと訪れる瞬間はたしかに、あった。
お客さんと深く話している時や、料理に集中している時。
自分のなかのすべてが統合して、何の齟齬もない感覚。
空間も重力も消えて、自分が誰なのかもどうでもよくなっている感覚、まさしく無我夢中の「無我」と呼べるようなもの。
それは、ほんの時々訪れるプレゼントのようなものだと思っていた。
だけど小説を書いている時は、ほぼすべての時間をその感覚で過ごせるのだ。これが天職というものなのかと、しみじみ思う。
本当は今までだって、捨てたくなかったのだ。
骨も皮も内臓もぜんぶ、捨てられたくないと叫んでいたのに、スルーしなきゃいけないと思っていた。
野菜の切れ端や、にんじんを剥いた皮、出汁をとったあとの昆布なんかが捨てられているのを見るとものすごく苦しくなる。
本当の栄養はそこにあるのに。
自分だって同じだ。
そういうところを切り離して、刺身の部分だけで動いていたり、刺身と刺身でしか人と接していないと、なんだか吐きたいのに吐けない時のような苦しさがつきまとう。
そのことに対する感度の差は人それぞれだけど、きっと誰もが、自分を丸ごと生かしたいと望んでいるような気がする。
ちなみに私は、出汁をとったあとの昆布は冷凍して貯めておき、ある程度貯まったら佃煮にしているし、野菜の切れ端なんかはまとめてスープやかき揚げにして使い切る。
そのときの、
ぜんぶ使い切った!昆布さんの栄養がひとつのこらず生かされて、こうしてまるごとわたしの身体を作ってくれてる…!
という嬉しさは、ほとんど生きることの本質に接続しているような感覚だし、そのことのすがすがしさは、人との関係性や仕事にも確実につうじていると思う。
まるごと生かし切るすがすがしさが、今の私の生きることを支えてくれている。
「書くことは私にとっての祈りの手段であり、みんながそれぞれの祈りになるようなことをやっていれば世界はきっと、もっといいところになる。
ナイーブかもしれないけれど、そう信じている」。
デビュー作になる作品が受賞した時、受賞の言葉に書いたこと。
みんなが、血の一滴も爪の一片も無駄にせず自分をまるごと使えるようになればいいと思うし、そういう仕事の集合体が世界になればいい。
そういう祈りが、私の小説のなかには溶け込んでいる。
それが、読んでくれた人の身体を構成するものの一部になったとき、きっとその人の生きることに働きかけてくれるものだと思う。
昆布が体内で栄養になるようにとてもささやかに、はっきりとはわからないものとして、でも確実に。
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