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こぼれ出た夏

 おじいが現れたのは、おじいが死んで一年ほど経った、つまりおじいの一周忌の時だった。親戚やら、知り合いやらの訪問の波もどうやらひき、気持ちにぽかっと穴が空いたようになったお昼の三時過ぎ、線香においのする台所で座った椅子に足をあげ、膝を抱えてボンヤリしていると何かゴロッと転がるような音がして、見れば、玄関の板の間の上を一匹のヤドカリが這っているのだった。
「おじい……」
 気付けば自分の口がそんなことを言っている。……おじい? びっくりしたけれど、ワックスでツルツルした床の上を思うように進めず、やれやれフローリングは歩きにくくてならん、とぶつぶつひとりごちたあと、「おー」と片手を(正確にはハサミを)振り上げたヤドカリもまた、当たり前のように私の名を呼んだのだからそれで良かったのだろう。ヤドカリは間違いなく、正真正銘おじいであったのだ。母は少し前に買い物に出かけていたし、父はおばあを老人ホームへ送りに行っていた。おばあはおじいが死んで程なく呆け初め、じき半寝たきりになったのである。家に居るのは私だけだった。居間の仏壇の前には香炉がわりのアルミのボウルが置いてあり、灰の中に突き立てた線香の束が時折てっぺんの赤みをカッと増し、ほろりと呆気なく崩れ落ちてはまた灰を高くして積もった――そのボウルは神ニガイの時にも使っているもので、こうやってほろりほろりと幾度となく崩れ落ちる線香の灰が、長い年月を経て大きなアルミボウルいっぱいになっているのだった。……するとおじいは神様になったのだろうか? そんなことをボンヤリと、取り留めもなしに考えていたのである。私は不意を突かれた形だった。ボウルの周りにも、台所のテーブルの上にも、お供え用の昆布や揚げ魚や豚の煮付け、それに餅や揚げた菓子までたんとあるにも関わらず、客がひいてやれやれと腰をおろしたばかりの母が、「アー疲れた」と肉付きのいい肩をドンドン叩き、すぐにまた、お腹がすいたから何か食べ物を買ってくると立ち上がってそそくさと出て行ったのだ。少しばかりいぶかしく思わないでもなかったが、普段から自分の作ったものより店屋物のほうを好む母のことである。私は自分の分もアイスクリームをリクエストして送り出したのだが、もしかすると母は何か感じ取ったのかもしれない。母は昔から俗に言うところの「霊感が強い」たちで、お墓とか御嶽とか、そういうところに行くと決まって頭を痛くするのが常だった。また、変な夢を見たとか気持ちのわるい形の雲を見たとか、そういうことを言っていた矢先、知り合いや、何かつながりのある人の家で葬式がでたりということが多々あった。母は前々から自分のこのたちには「もういい加減うんざり」していて、おじいの一周忌といってそのたちがいつ働き始めるとも知れないここ二、三日の間は寧ろ何かを待っているかのように、ソワソワと落ち着きをなくしていたのである。幸いと言うのか、私はそういうたちではない。原因不明の頭痛に見舞われたこともなければ雲を見て気持ち悪いと思ったことも今まで一度もなかったのだが、それが油断になったのだろうか。ともかく不意を、突かれてしまったのである。私は立って行ってヤドカリの貝殻をひょいと摘み上げた。不意を突かれて入り込まれたからには受け入れるよりほか仕方がないのだし、不意を突かれたほうが、受け入れやすいこともあったりするものなのだ。おじいは身をよじるようにして固い皮膚に覆われた脚をもしゃもしゃと動かし、抗議の声を発した。
「ああそんなに乱暴にやったらダメさぁ」
 白い、円錐形の巻貝は、表面は割かし滑らかなのだが、さらっというよりもう少し粉っぽい、ざらっとした濁点の感じがあって、内側には薄いオレンジ色が透けて見える。皮膚を伝って感じられるたしかな感触が、気持ちのどこかにしっくり落ち着くようだった。
「いったいどんなして来たわけ?」
とげとげの脚で空を掻き、黒く、にょっきり突き出た二つの目玉でこちらをにらむようにしていたおじいはその目線を玄関のほうへぞんざいに投げ、
「あたりまえ、玄関から入って来たに決まっているさ」
 と、鼻を鳴らし、的外れな返答をしてよこす。
「いやそういうことじゃなくて、」
「して、しまちゃんは?」
 かまわず母の所在をたずねてくるのである。買い物に出ているのだと答えると、目玉をくるりとさせて「ニヤリ」と笑った。いったいどうしてヤドカリに「ニヤリ」と笑うことなど出来るというのだろう。けれどたしかにおじいのヤドカリは「ニヤリ」と――生前おじいがいつもしたように、人をくったような、少々いじのわるい笑みを、浮かべたのである。
「逃げたなあ」
 そうしてまた急に思い出したように、
「だから乱暴に扱うなと言ったら。ちゃんと手のひらに乗せんかあ」
 などと言って、背中の貝殻をつままれたままハサミをぶんぶん振り回し、残りの脚をジタバタさせるのだった。そうだそうだと、私はだんだんに思い出し、確信を強めていく。言葉口は柔らかだが、どこか人をくったような態度。マイペースというのか、話題がコロコロ変わること、またそのタイミングがやはり人を食っているというのか話の流れなどお構いなしで突飛なことこのうえない――たしかにそんな、掴みどころないようなところがあったのだ、おじいという人は。するとヤドカリはやはりおじいに違いないのだが、いくらおじいといえど正直なところその身体は少々薄気味がわるく、「手のひらに乗せろ」と言われても、私は躊躇してしまうのだった。すると「バチ当たり」などと言って、死んだ人に言われるとこれはほとんど脅し文句なのである。私はしぶしぶ、おそるおそる、おじいを手のひらにそっと乗せた。尖った脚の先が肉をおしてチクチクすると、反射的に腕にぞわりと鳥肌が立った。しかし私の手の中でしっくり来る位置と体勢を探ってしばらくもぞもぞ動いているのを我慢して見ているうちに、その様子が意外にも可愛らしく思えてき、私は思わず笑いそうになり――それを、すんでのところでこらえた。バカにしているな。そう言ってにらまれるのは目に見えているからだ。やがて落ち着く場所を見つけたと見え、不意にぴたりと動きを止めると、いかにもやれやれというふうにため息をついた。
「ふぅ。あっちにうまそうなものがある。どれ、食べてみよう」
ハサミをふりあげ指し示すのは仏壇の間である。見るとその辺りがにわかに白っぽくなっているのだった。私はなんだか、頭がぼんやりし始めていた。
「……」
「はいー、何をぼおっとしているか」
「……食べる、わけ?」
「して」
「だってあれは、」
ヤドカリのおじいは多少苛立った様子でふぅんと鼻を鳴らした。
「おじい、神様になったわけ?」
 言った途端、おじいの身体が心持ち膨れ上がりおじいが何か言ったような気がしたが、それを聞き終わらないうちに左のほっぺたにヒヤリとした冷たさが伝い、驚いて目を開ければ横に小太りの母が立っているのだった。手に袋入りのアイスクリームを持って、心持ち片口をあげ、ニヤッと笑って。
「おじいが夢に出てきたよ……」
「はぁーもぉ大変さあ」
「おかあさん。おじい、神様になったのかね?」
「どんなかねぇ。死んだ人はみんな神様になるというけどね」
「だからさ、おじいも?」
 母は質問には答えず、アイスクリームを突き出して来る。棒つきの、チョコレートが分厚くコーティングされたバニラアイスである。私は顔をしかめてみせた。
「さっぱりしたのがいいと言ったのに」
「はぁ? そうだったっけ?」
 丸顔に浮かぶきょとんとした表情が、やはり人の話を聞く余裕もないほど慌てて出かけて行ったのだなと、私に確信させる。
「いらないならちょうだい。おかあさん食べるから」
 すううと差し出された、短い指が並ぶ小さな手に一瞥くれて、袋をやぶり、まあるく弧を描いたてっぺんの、その中央より少し右寄りの部分をかじる。と、
――パリン。
小気味の良い音がしてチョコレートが割れると、中から程よく溶けたバニラアイスがトロリとして流れ出た。それが思いのほかおいしく思えてしまったものだから、私はそのことを母に気取られぬよう、うたた寝のあとまだ少し頭がボンヤリしたふうを、装わねばならなくなる。ちょっとの間黙るついでに、さっきおじいは何と言ったのだろう。そんなことを考えてみることにした。母はちょっと大げさに口を曲げて肩をすくめるポーズをとっただけで、パックの中から稲荷寿司を取り出し、大きな、俵型のそれに乗ったけばけばしい色の紅ショウガをはずしてカリカリと齧り、それから本体にかぶりつき始めている。庭や、庭を取り巻くサトウキビ畑の中でセミたちがやかましく鳴き交わしているのを聞くともなしに聞いていると、ああおじいは死んだのだな、と、おじいの言葉は思い出せないままに、私の中にそんな今更ながらの実感が、不意に湧き上がってくるのだった。――若いころから素潜りの漁師をしてきたおじいは、あの齢になるまで(死んだ時、八二歳だった)海がよほど荒れたときでなければ毎日のように漁に出ていた。多い時には一回の漁で七〇キロも蛸を獲って来たこともあった。死ぬ三日前まで海に潜り、その日、なんか変だと言って首を傾げながら帰って来たと思ったら、夜になって高熱を出し、そのまま肺炎にかかってその三日後に死んだのだ。
「おじい死んだんだねぇ」
 不意を突かれた実感をたっぷり込めて呟くと、
「んん、死んだ」
ごくり。大きなかたまりを飲み下す音に続いて、そんな相槌が返ってくる。お稲荷さんは、二つ目に差し掛かったところだ。私はテーブルの下で指の腹をこすり合わせ、さっきおじいの貝殻をつまんだ時の、たしかな感触を思い出している。蝉の声。サトウキビの葉擦れの音。台所中に満ちた夏のひかり。裏庭へ向いて開いたガラス戸の桟の隙間にどうやら入り込んだらしい羽虫が、じじじじッと烈しい羽音をたてている。気付けばそこらいっぱい溢れる夏に、おじいの気配はしっかりと染み込んでいるのだった。夏に――
そうか。おじいは夏になったのか。
そう思った途端、思わず笑い出しそうになった。最初に聞こえた、玄関の板の間に転がり出たような、ゴロッという音。どうやって来たのかと尋ねた時の、少しバツの悪そうな、不機嫌な態度。きっと間違ってこぼれ出したに違いないのだ。そうだそうだと、私はまただんだんに思い出している。少々慌て者なところもあったのだ、おじいという人は。胸の奥からくつくつとこみ上げてくるものを堪えながら、けれど私は素知らぬ顔してアイスクリームを舐めていなければならない――ばかにしているな。もし笑ったりすれば、そう言ってにらまれるのは目に見えているからだ。
「なにあんた、にやにやして。気持ちわるいねぇ」
 ごまかし切れない口元のニヤつきを目ざとく見つけ、母はまた大きく一口頬張った。私は何を言うつもりもなく口を開きかけたが、ちょうどその時、目の端に何か動くものの気配を感じたのである。そちらにさっと顔を向けた。――アルミボウルの中の線香が、ほろりと崩れ落ちるところだった。なんだか随分ちびている。色褪せたカーテンの後ろでひと際高く羽音が唸り、絶頂の間際ピタリと止んだ。

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