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蜻蛉

風が吹いて、胸の内に何か疼きのようなものを起こさせると、私はその正体を捉えようとしてちょっとばかり身を強張らせた。が、途端に風はまた何処へともなく吹き去ってしまい、私の中に一瞬閃きかけたものはまたしても置いてきぼりをくったのだった。私は再び目の前の景色に焦点を合わせることで置き去りにされた気持ちを落ち着けようとしたが、白状すれば、そうしていればその内また風も吹こうという、諦めの悪い期待を隠し持っていたのである。……
 そこは見知らぬ町だった。私はある人と二人、この町の何処かにあるハズの古書店を探し歩き回っていた。十月の、季節外れに暑い日で、駅前の通りから一本入り、幾度か角を曲がって、カフェや和装店や傘屋や履物屋、入り口に狸の立っている土産物店なんかが軒を連ねる、ありふれてはいるがごく洒落た佇まいのある商店街を抜けるともう、足に僅かな疲労を感じ始めていた。商店街を出て少し行ったところに小川に臨んだ小さな橋があり、その袂に取り付けられた簡素な柵を跨いで石造りの階段へ降りられるのを見ると、私たちはそこに暫しの休憩をとることにしたのであった。
 こぽこぽと橋桁に水の泡がたっていた。日差しに艶めく水面に目を細めて見れば、流れは緩やかな曲線を描いて家並みの向こうへ消えていく。水はそう深くない。底に沈んだ砂利に生えた柔らかな藻が、その先端のぼやぼやしたところまで水を透かしてよく見えるようである。両岸には軒の低い家々が隙間なく連なって、その窓辺にこまごました鉢植えが苔生し、そうして降り注ぐ日差しのひと粒ひと粒を律儀に反射させている様子が、私に傲慢な気怠さを起こさせた。が、それとは別に私はまた、この同じ景色に対して幾らか憂鬱めいた気持ちをも持たずにはいられなかった―そのどちらかだけを持ち得る程、私の精神は強くなかった。
 ところどころ、堤に積んだ石の隙間から細い灌木が水の上へ枝を差し延べている。葉はあらかた落ちてしまっていた。橋桁の泡の周りに溜まっている落ち葉は、まだその色や形をとどめているのもあったが、黒ずんで腐れかけたのが随分あった。そういうのは微生物による分解の過程で他との境界を曖昧にし、互いにべちゃべちゃとくっつきあったまま、そうやって朽ちていくであろうことが容易に想像できた。「生成」と「腐敗」と「融合」。私はその様子を何の気なしに眺めていたのだが、じきあることに気が付いて「おや」と首を傾げた。堤に生えた木が葉を落としたとすれば、水の流れによるとそこへ溜まるのはおかしいのである。
―いったい何処から。
 私は新たに葉の流れて来るのを待った。すぐに一、二枚、くるくるとやって来た。それらは橋の真下を通って来るのだった。
「さっきのとこから繋がっているんやな」
 と、これも葉の流れを遡っていたらしい連れが言った。
 そこはさっき商店街を抜ける時、奇妙な形に幹をくねらせた木に私たちが面白く足を止めた場所だった。言われてみれば水を覗いたように思う……。
 その木の横にはうなぎの寝床式に間口の狭い、食パンばかり並べた薄暗いパン屋があって、そこから(或いは向こう隣りの天然石を売る店からだったかもしれないが)ピアノ曲が切れ目なく流れていた。その辺りは日陰になっていて、流れ出す音楽はいかにも涼しげに、くるくると木の枝に絡みつき、あるところまで来ると凝縮した気体が滴となるように、滑らかな木肌を伝ってその細長い葉をしっとりと濡らすのだった。モーツァルトだ、と連れが言った。
 私はその方に気を取られて水の流れは記憶に薄かった。
「用水路なんやね」
 と、説明づけてくれる。
商店街を廻る形で引いた支流が斜めに渡って来て、今私たちがその傍に座っている流れと橋の下で交わっているのである―と、すると、その形状からしても橋桁の元に溜まっているのはさっきのモーツァルトの葉に違いない。水の流れが繋がっているのだからそれはまったく当然のことなのだろうが……、私は何か不思議な感じを催していた。―葉は、さっきまでとはまったく別なもののように思えた。それまで何とも分からずただその姿形を眺めていたものが、今はまるごとのみこめたような感じ……まるで風景はそのままに、画面がそっくり切り替わったような―それはあの夜空に光っている星の光が、実際は何億年も前に光ったものだという話を初めて聞いた時の気持ちに似ていた。私はさっき自分たちが居た場所と、この水の流れの傍との間に途方もない隔たりを感じた。それからさっきまでの自分たちと、今石段の上に座っている自分たちとの間に。そしてそれが故に何かいちばん広い意味での一体、という感じがそこにはあった。それは眩暈を覚えるような感覚だった。私はこの感覚を傍にいる人と共有したいと切に願ったが、どうすればよいのかその手だてが浮かばず、そのことは私の喜びに影を差した。
 ついとまた一枚流され出たのを、それでも私はまだ穏やかな心持ちで眺めることができた。しかしよくよく見ると、それは葉ではなく、葉に似た形をしているが、しかしうっすら肉感のある、生き物……小魚なのであった。身体の紡錘形の延長のままに不思議に丸っこい尾をした姿はちょっと見ただけでは葉と間違えてしまう。しかし確実に葉と違うところは水に流されながらもやはり、幾らか自分の意思でもって泳いでいるのが分かる、僅かにピクつくような反発を時折見せるのだった。その錆びたような透明色。薄く光る銀色の筋……。いじらしさに誘われて、私は思わず手を伸ばした。
 上半身を軽く傾けるだけで冷たさはもう指先を濡らしてさらさらと流れて行った―私はしかしそこに思いがけず悲しみを見出さずにはいられなかった―なんという幻想だろう……。水の冷たさが心地よく皮膚の上を滑り行く程に、小魚との距離は遠かった。その感触が私に自らの行為の意味を自覚させると、私はゾッとして水につけた手を引いた。指先から滴り落ちるしずく。
小魚はじき見えなくなった。私はその姿の消えたあたり、水草の群れの傍に沈んでいるコカ・コーラの缶を眺めるともなく眺めた。橋の上を自転車が通り過ぎた。何処かで汽笛のような音がした。葉は橋桁の周りに蟠って腐れかけている。
「なかなか良いトコロやな」
 それは無意味だが情のこもった言葉だった。言葉―この時ほど言葉を哀しく思ったことは私はなかった。しかし私はその言葉を発した人のナイーヴさを尊重するために、そして自分への慰めのために、危ういバランスの上に出来るだけ注意深く相槌を打った。
 少しの間日が陰る。その間も水は絶え間なく流れ続けた。水の音は決して重ならない。滑らかに連なって一本の線になり、滔々と流れ来て流れ去る。とどまるものだけがそこに残された……。
 古本屋は何処にあるだろうと、私は求める答えもなくただそう口にした。向こうからも返事らしい返事はなかった。
 気が付くと、醜い身体にうっすら透明の羽をつけた蜻蛉が辺りを飛び始めている。私はこの図々しい昆虫が昔から嫌いだった。―夏の暑さがようやく和らぎ、肌に微かな涼しさを感じ始める頃、夕暮れ近くに道を歩いているとわざわざ人の近くへ寄って来て行く手を阻んだりするのだが、勢いよく直線的に飛んでいたとものが思わぬところで急停止をしたり、暫くそうやってひとところに留まっていたと思えばいきなりまた髪の毛をかすめる程近くを飛び去ったり……、その不規則な動きのうちに何かしら意図的なものが感じられて神経を波立たせずにはいられないのだ。
ところで今こうしていると、私はこのちっぽけな虫に対していつも以上に何か不愉快な落ち着かなさを感じているのであった。すぐに思い当たった。それは幾日か前の寝苦しい晩に見たある夢のためであったのだ。ひどく生々しく、かつ気味の悪い夢であったにもかかわらず今まですっかり忘れてしまっていたのだが、一度思い出すとその生々しさはもはや拭いようなく私の中にべったり張り付いてしまっていた。それはこんな夢だった―
小柄な人間の大人程もある蜻蛉の化け物が、瞳のない多面的な目をビカビカさせて音もなく近づいてくるのである。そいつは近付く程に巨大なふたつの目を益々ビカビカさせて無言のまま私を圧迫するのだが、その目の表面に金属めいた光沢と規則正しく並んだ無数の穴が開いていて、人工的な作り物のもつ不可解さと動物的な本能と悪意とを同時に宿らせているのが言いようなく気味が悪い。私はなぜか高い所に張り出したベランダの手すりの外側にぶら下がっていて(蜻蛉のほうは安全なベランダの中にいる)、片方の手で何かスプレーの中の液体を必死に吹きつけているのだが、容器の口から漏れた液体に手がぬるぬるするばかりで相手は暫くは泡を顔面に張り付けて苦しんでいるように見えるが(「ヴィッ……ヴィッ……」という唸り声)泡が滑り落ちるにつれいつかまたズズズ……とその不気味な顔を近づけ始めるのである。目を覚ました時、私と蜻蛉との距離はほとんど触れそうな程近かった。……
 思い出すにつけ、どうしてか私はその夢の感じを、自虐的な興奮のもとに脳裏に克明に蘇らせずにはいられなかった。……はっきりと早くなる鼓動を感じながら、暫くの間は例の諦めの悪さを発揮して身じろぎもせずじっと蹲っていたのだが、段々と大胆になる現実の蜻蛉は徐々にこちらとの距離を縮めにかかっていた。私はとうとう連れを促し腰を上げた。目の前の景色からはいつの間にか穏やかさも気怠い光も失われていた。その景色に背を向け、早足で石段を駆け上がり、柵を跨ごうとした時、橋の上から枝垂れた木の枝が私の額を軽くかすめた。私は驚いてその方を見上げ、そこにあった光景に寧ろ呆然として立ち尽くしていた―
この継ぎ接ぎだらけ現実の裏に調和の気配を感じられないとすれば、その不安はどう処理されるべきだろう?
「どうしたん?」
 連れが後ろから怪訝そうに声をかけたが、言葉はとうに効力を失っていた。私は肩の上に何か真っ黒い、重たいものが突然落ちてきたように、もはや脱力の気味でそれを眺めた。何処へも行けず、何にも頼ることの出来ない身体の重さ。それは何に対する責任だったのだろう? そこには蜘蛛の巣が―…形のないものが一瞬見せた柔らかな閃き、その閃きのさなかに咲いた花のように、そして今は硬質な硝子のようにピンと張りつめて、壊される時を待つように―…と、その時の私の目には見えたのである―不穏な暗示を投げかけていた。

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