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西瓜

あわあわと発生し、あやふやに結んではまろび、立ち昇ってゆくそのぼけた赤色が断面として現れたとき、その実直げな生り物が死を含んでいることが確定された。
この内と外との相容れないありさまはどうだ。それでいて内から外、はたまた外から内へか、つらなる、あざやかなまでにスムースな諧調、凝結した時の色は。
ひとたび齧れば(その時の音は「しゃくり」というのでなければならない。「じゃくり」ではあんまり手荒らに過ぎるし「しゃく」のようにぐずぐずしていてもいけない。儚い繋がりの、それは決定的な断絶の音なのだ)鼻孔へ彷徨い出るのは青くさい水の香、いじけた幼児の、身体の匂いだ。強い癖を有し哀しげでありながら捕えようとすれば掻き消える、諦めの溜め息の内には再び宿る―とりとめもないそれは、やはり切ない、死の匂いである。
甘さはだから、じゅうぶん曖昧でなければならない――

しゃくり。
西瓜を、齧る。

何故この世に生まれ出でたのかも知らず、同じ死を含むもの同士がこうして交り合うとき、私達はいのちを与えたものがまた容赦なくいのちを奪ってゆくことをよく知っている。
日差しに熱く火照った身体は、その零れるほどに潤った赤い果実が唇に、舌先へと触れた瞬間、寸分の隙なくそのいのちを吸収し、薄あまい汁を貪る音は卑猥な響きさえたてる。
――いのちは、いつでも同質のものの慰めを必要としている。

しゃくり。しゃくり。
西瓜を、齧る。

終わりに向かい限りなく収束していく蝉の声を聞きながら、生が、まるでだらだらと怠惰に、引き延ばされてゆく―
しゃくり。
しゃくり。
しかし今日の西瓜はいくらか甘過ぎた。
べとついた赤あまい汁は私の咽喉を滑り、胃に落ち、飽満してゆく腹はいよいよ苦しいばかりで、それでかんじんの、死はといえば―…
まるで愛想もなくぼたぼたと、のっぺらぼうの顔をして、指の間から、滴り落ちゆくばかりなのである。

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