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畑の中

 刈入れの済んだキビ畑に、座っていたのである。
 刈入れが済んでいるのだから早くて五月の頭ごろではあろうが、ハッキリと季節のほどは分からない。お尻の下や身のまわりに収穫後の残骸としてあの細長い葉っぱが折れ曲がったり絡まったりして散り敷いている。葉は全体に茶色っぽくカサカサに枯れている。
 陽は照っていてもさほど暑さを感じない。土から昇る温気はある。これがそこいらの空気へ曖昧に緩慢に、浮遊しているのだが、何んだかぼやぼやしているのがキビ畑のほうであるのかわたしの頭であるのか、分からないので、うっかり動くことも出来ずやっぱりただ座っていた。動くのが億劫であったということもある。となるとやはりぼやぼやしているのはわたしの頭のほうであったかも知れない。
 アカバナの垣根の外にピカップが来て停まった。降り出たのは「俳優」である。テレテレと艶めくような派手な色のシャツを着て、「ほぅい」と呼びかける。彼は二年前の夏に死んだのだった。わたしのほうにはあんまり近寄らないで、半端な場所に腰をおろすとなかなか上手いギターで『Moon River』をやり出した。歌の方は甚だまずい。一曲終えるとつと立って帰って行った。寸詰まりの体格も、上から金盥を落とされたような顔つきも、以前のまんまであった。ピカップのドアがバタンと閉まってエンジンが噴かされて車が走り去った時、死んだ者が帰って行ったとはどういうことかと考えていた。
 ガサリとお尻のそばの枯れ葉が動いて鳴って、見るとヤドカリになったおじいである。最近お供えの食べ物が野菜カボチャの煮たのばかりでウンザリだとか何んとか、うるさいことを言っている。また果物が傷んでいるとかどうとか。
 わたしは何か言おうとしたが、どうしたことか口が何処にあるのか分からないようになってしまっていて仕方がないので黙っていた。いったいわたしは今までは鏡もないのに口が何処にあるか分かって喋っていたのであろうか――やり方を忘れてしまったわたしにはそれは不思議な魔法ごとのように思われた。
 黙ってうつむいていれば自然、口やかましいヤドカリを見詰めていることになる。そんなにして見詰められると却っていつになく決まり悪くなるのか、言葉に合わせてわしゃわしゃうごめかしていた手足をとつぜん背負った貝の下にクルリと丸め込んだかと思う間に、ガサゴソ葉っぱの下にもぐってしまった。
 これは良いやり方を見つけたものである。今度からもううるさいことを言いだすようならばわたしはこうして黙ってじっと見ていれば良いのであった。わたしはもう口が何処にあるのか分からないのだけれども分かっていればそれはほくそ笑んでいるのかもしれなかった。
 さて犬である。
「タロ。」
 在り処の知れないのは口ばかりでは無かった、わたしは詰まりそうになった胸の在り処さえ捉え得ないことになっているのを驚きながらもこのことをひどく助けに思った。犬の生きていた時わたしは犬に愛情をかけてやらなかった。愛情をかけてやらなかったわたしが死んだ犬をみて胸を詰まらせるのは決して犬のためではないはずである。悪く思うのも軽薄である。犬は畑の中を少しウロついただけで帰えって行った。生きて、まだ元気に走り回っていた時と同じに半端に長い縮れ毛がまだら模様のお尻をおぶおぶさして護謨鞠のはずむように行ってしまった。
 取り残されて、わたしはひとりしくしく泣いた。眼の在り処は分からずとも、涙の落ちるのは感ずるのらしかった。
 その感ずるものの覚えで、わたしは動かれないわたしのお尻の下に根っこが生えているのを知っていた。はていつからであったろう? ――しかし道理で動かれない筈ではあった。わたしは刈入れの済んだ畑の半端なところに残っている一本の、キビであった。
 しかしわたしは心は何処にあるかも知らないで、どうしてもの思うことが出来たのであろうか。わたしには分からない。それでもわたしは此処へつぎ来るかも知れない人のことを思って、その怯えを夢のごと、生ぬるい風の中に撒き散らしている一本のキビであった。

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