母親になって後悔してる、といえたなら
20年前の私に伝えたくて
2022年に受けたインタビューが書籍化された。登場した7人の母親の言葉、ひとつひとつが、全て私自身の物語かと思うほどに、響いた。
子どもとの距離感、おままごと遊びの苦痛、医師や保健師など専門家からかけられた言葉への違和感や反発の経験。驚くほど共通点があった。私の中ではスタンダードな感覚だったので、本当はみな母親を演じているんだろう、と思っていた。比喩だとしても、目に入れても痛くないとか絶対に嘘だよね?と信じられなかった。
赤ちゃんを見ると「ミルクの匂い嗅がせてー」と次々に抱っこするママ友を見て、これが母性なら私には欠如していると感じた。いかにも母親らしい優しい口調で話しかけることができず、母親失格の劣等感に苛まれていた。
だれも共感してくれなくてもいい。20年前の私に伝えたくてインタビューに応えたが、本を読み、同志の存在に救われる思いがした。
母が後悔を語るまでの道すじには、子どもと親それぞれの特性、環境、様々な要因がある。著者のお二人がインタビュー対象に寄り添い、真摯にこの問題に向き合ってくださったことが伝わり、私にとって宝物になった。
たくさんの方が共感し、また反発もあるといいなと感じる。母親だけでなく、家族、一個人の生き方を改めて考える機会になるといいなと思う。
後悔と折り合いをつける
私は娘から妻になり母になり、「私」の存在はなかった。違和感と怒りと後悔と諦めの中で、それなりに努力もした。もう一度、同じ人生をやり直したらうまくいくのだろうか。社会が変わらない限り、私の努力で変えられることは多くはないと思う。
本のなかで、私は折り合いをつけた存在として扱われていた。本としては良いバランスだった。
でも50代で、専業主婦が長くて、働き手としては、もはや取り返しがつかない。また子どもたちはすでに成長し落ち着いている。折り合いがついた、苦しみから抜けたと、著者や編集の方が判断したのは、私の年齢や環境のバイアスかなとも感じた。
実際には、全然折り合いなどついておらず、少なくとも1日1回は母親になったことへの後悔、そもそも女に生まれたことへの恨みのようなものが頭を支配する時間がある。呪いにかかっているのだ。
私は一見、よい母に見えるかもしれない。でも子どもたちが育つほど、自分には何も残っていないと枯渇を感じる。寄生され逃れることも、共倒れすることもできないので、宿主として栄養分を送り続けるために無言で生きるしかない感じ。私の折り合いとは、そういう殺されも生かされもしない苦しい時間を受け入れたということにすぎない。
子どもたちには、自分の道を進み、思い切り泣いたり笑ったりできる人生を生きて欲しい。
私が社会を変えたいと言ったところで、変える力はない。でも、この本を手に取るたくさんの方の思いが社会を動かし、次世代に生きやすい未来を繋げると信じたい。