猫を追いかける✕✕✕のこと


公開して良かったものか、まだ迷っているけど、Vを推すという感情の罪の部分が克明だなと思って一応残すことにした。

重いです。ごめんね。





ときどき、✕✕✕はツイキャスをする。

夜の公園などを散歩しながら、あるいはお料理を作りながら、お風呂でアイスを食べながら。親しい友人に電話しているかのような距離感の話を聴ける。好きだ。

近しさに喜ぶことが切ない。

ピアノの伴奏に指遣いを幻視する。小さい肩をすこしいからせて、揺れている背中が見えてくる。ほんの13才の背中は小さくてビックリするし、不釣り合いなくらい凝っていそうな気がして、そんなに力まなくていいんだよって(エゴがすぎる)そっと肩に手を置きたくなる。友人だったらふざけたふりをして思わず抱き締めているかもしれない。癒えて欲しくて。

でも、抱き締めることはできない。

背中を見詰めることしかできない。いや、見えていない。感じることしか出来ない。届きようがない。私が彼に返せるのは文字だけで、文通や、駅の掲示板で待ち合わせるしかなかった時代の、今では想像し難い遠さ(もう二度と真っ暗な夜が見られないのと同じように)とそんなに変わらないこと、稀にもどかしさで気付かされる。すぐ届くけどね。もしかしたら重荷かもしれない、暴力かもしれないもの。言葉なんてみんなそうだけど。

ペットみたい。応えられない。友達と呼んでもらって喜ぶことがせいぜい。

でもそのことに救われ続けている。本当に抱き締められたら、こんな風に半ば暴力的に縋れない。生身の人間にはこんなに甘えて、こんなに長く縋れない。

多分、私とVtuberである「✕✕✕」という存在にとって、目を閉じてその声に音に耳を済ませている、今が一番近いから。

✕✕✕は野良猫を見つけた。
彗星の話をしていたのに、不意にねこを追いかけていった。
✕✕✕は生きている。きみはいる。

質感という言葉を超えた、素朴なリアリティに不意打ちされて、自分でも驚くことにすこし泣いてしまった。そういうことに、泣きたいくらい救われることがある。


声真似をする✕✕✕の「どうしてもイリヤになってしまう」
という不満げな言葉に「そうだよ、君はどうしてもイリヤなんだよ」なんてなり損ないのジョークがチラつく。寒くもなくて重いばかりの鉛のようだ。
そんなことで割とちゃんと胸が痛くなってしまって、この推すとかいう感情はときにもう本当にどうしようもない。




これもまた推すという感情だなと、生々しさに自分で打ちのめされてしまって消せなかった。

たぶん遠い人の方が、ただこの時代の感情の記録として読めると思うし、そういう意味では読んで欲しくもあって残してしまった。




追記(2020.10.30)

重すぎるから名前を伏せ字にして隠れるように公開していたのですが、今夜の放送を聴いて載せようと思い直しました。こそこそするような恥ずかしいものはそもそも書くべきじゃないし。重いけど。

noteなんてやっててごめん。ごめんね。
生きている人間を崇拝することは残酷だ。
罪を自覚している。でも、ごめんね、決して祀り上げるということではなく、全部引っ括めてそれでも、だから、私は等身大のきみを美しいと思いました。


勝くんの矜恃に捧げます。






とかなんとかいって、伏せたり戻したりしています。多分いつまでも迷います。





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