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タイピング日記、丸山健二著/千日の瑠璃編

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そして、いつか3年ほどかけて一本の長い小説を書くという計画に必要な生活費を少しずつ蓄え始めた。すると、資金的にまだ充分ではなかったが、思いのほか早く、書き下ろしという申し分のない…
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記事一覧

私は怒りだ。千日の瑠璃(丸山健二)上・P17 / 0015

私は怒りだ。 縁側の日だまりに寝そべって午睡を貪る男の胸のうちに、突如として沸き起こった怒りだ。私は意気衝天の勢いで夢の殻を打ち砕き、存分に荒れ狂い、悪態の矢となって男の口から燃える秋のなかへ飛び出して行く。しかし、芳(かんば)しい落ち葉をぎっしりと敷き詰めた山々は、終始凛とした態度を保ち、越冬のために更に深い池へと移されたばかりの錦鯉は、どれも面憎いまでに落着き払っている。 それでも私のむしゃくしゃした気分はおさまらず、急速に膨れあがり、次第に矛先を定めてゆく。男が計十

私は神木だ。千日の瑠璃(丸山健二)上・P16 / 0014

私は神木だ。 誰もが知っているのに正式な名称をあまり知られていない神社、そこに亭々として立つ神木だ。神の尊厳を汚し、神の高慢の鼻を挫く不吉な風が吹いてきたと思ったら、案の定、私が最も恐れている人間、正邪の区別を知らない少年、得手勝手に過ぎる世一が、またもや闇の底から現われた。彼は、狛犬や鳥居や大刈り込みや石灯籠に遠慮会釈なく病める肉体をぶつけながら、立ちこめる瑞気のなかを泳ぐようにして近づいてきた。そしていつも通り、私に何か宿っているかを人々に示すための太いしめ縄を力任せにぐ

私は落ち葉だ。千日の瑠璃(丸山健二)上・P15 / 0013

私は落ち葉だ。 さほど赤くもなく、さほど黄色くもない、不滅とか永遠の色に染まった、一枚の落ち葉だ。私は卑しい声で笑うつむじ風に吹き飛ばされ、うつせみ山からうたかた湖へと急降下し、あやまち川に沿って舞い、かえらず橋の下をくぐり抜け、冷酷な上昇気流に もう一度押し上げられて丘のてっぺんに辿り着き、そして、ぼろ家の二階の窓へと飛びこむ。 図らずも闖入者となった私は、籠の鳥を驚かせてしまう。そいつはたぶん、私のことをモズか、あるいは、あの世からの使いだと思ったのだろう。オオルリ

私は靴だ。千日の瑠璃(丸山健二)上・P14 / 0012

私は靴だ。 踵が磨滅し、とうとうつま先の部分がぱっくりと割れた、如何にも勤め人向きの靴だ。小春日和の午後、私は私より数倍くたびれて風采のあがらない男といっしょにバスを降りた。そして丘の上の家へ帰るために、いつも投げ遣りな一歩を踏み出した。そのとき彼は、私の寿命が尽きかけていることに気づいて立ちどまり、もう長いあいだ財布にこもったままの一万円札を思い出した。 通りを挟んで目と鼻の先に、靴屋があった。しかも女主人が表に出て、漁色家たちに評判のいい愛嬌を振りまいていた。彼女は丘

私は噂だ。千日の瑠璃(丸山健二)上・P13 / 0011

私は噂だ。 花屋のどら息子が仕入れてきて床屋のおやじが撒き散らした、それなりに信憑性の高い噂だ。私は機敏に立ち回り、たった半日でまほろ町の隅々を駆け巡った。人々は皆、「こんな町にそんな連中がやってくるなんて」と言い、一様に顔を曇らせはしたものの、自分たちの眼が少年世一を見るときよりも異様に輝いていることは少しも気づかなかった。 そして、とりわけ物見高くて暇を持て余している者たちは、居ても立っても居られなくなり、真偽のほどを確かめようと、ネオンサインが全部で三つしかない町一

私は口笛だ。千日の瑠璃(丸山健二)上・P12 / 0010

私は口笛だ。 少年世一が日の出の力を借りて吹き鳴らす、下手くそのひと言では片づけられない口笛だ。私は、決してきのうの延長ではない未知なるきょうに向かって吹かれ、控え目だが確実に狂ってゆくこの世に向かって吹かれ、そして、それまでの経歴が定かでない籠の鳥のために吹かれる。だがオオルリは応えてくれない。誰のおかげで命拾いをしたのか承知しており、さえずるための完璧な器官と必要な力は充分備わっているのに、人前では頑(かたく)なに沈黙を守っている。鳴いてもせいぜい短い地鳴きくらいだ。し

タイピング日記 / 千日の瑠璃0008

私は雨だ。 ときにはしめやかに、ときには濛々(もうもう)と降り注いで、まほろ町の夜を一段と玄妙なものにする秋の雨だ。私はうたかた湖の面をかき乱し、片手間に丘を奇襲し、生活に疲れていることに気づいていない母親の眼を醒ます。彼女はまず、屋根を激しく叩きながら「生きたって無駄だぞ! 」などとわめく私に気づき、ついで、何とも不思議な声に気づいてそっと床を離れる。そして、天国へと通じるかもしれないような、急な階段を登って行く。 二階の奥の小部屋の襖をほんの少し開けた彼女は、灯りをつ

タイピング日記 / 千日の瑠璃0007

私は九官鳥だ。 ダックスフントと間抜けな声しか真似られず、そのせいでいつまでも買い手がつかない九官鳥だ。ところが私はきょう、このペットショップに幽霊の如く現れた珍客の言葉を一度で覚えてしまった。我ながらこれには驚いた。それもひとつの単語ではなかったのだから。そのうえ私は仕事の手伝いまでした。「これ何て鳥?」を私が反復してやらなかったら、おそらく店主は客の言わんとすることを永久に理解できなかっただろう。 休むことを知らない体を持つ少年の手から立派な籠を受け取った店主は、なか

タイピング日記 / 千日の瑠璃0006

私はため息だ。 まほろ町立の図書館を、たったひとりでもう十数年間も維持管理している女が、日に何百回となく洩らすため息だ。これまでの私の累計はおそらく、館内に収められている本の頁数と肩を並べられるまでになっているだろう。あるいは、それ以上かもしれなかった。 彼女は私と共に待った。くる日もくる日も待った。待ちつづけることで生きつづけ、とうとう三十歳になってしまった。しかしいくら待っても、彼女の眼鏡に適った、哀歓を分かち合えそうな男は現れなかった。ほとんど読まれない本の山と、顔

タイピング日記 / 千日の瑠璃0005

私はボールペンだ。 書くために生きるのか、生きるために書きつづけるのか、そのへんのことが未だにわかっていない小説家、そんな男に愛用されている水性のボールペンだ。彼は私を手に入れたとき、片時も傍を離れてはならない、と私に言った。自分には見えなくてはならないものがたくさんあり、そのなかには書きとめておかなくてはならないことがいっぱいあるのだ、と言った。本当だろうか。 以来、私はずっと彼に付き添ってきた。執筆の際は言うに及ばず、彼が仔熊にそっくりなむく犬をハンドルにつかまらせて

タイピング日記 / 千日の瑠璃0004

私は鳥籠だ。 もうだいぶ長いこと物置の片隅で埃をかぶっていて、突然出番が訪れた、骨董品に近い鳥籠だ。私は丹念に水洗いされたあと小一時間日に干され、午後には生きた鳥と生きた昆虫と生きた水を入れられて、二階の窓辺に置かれた。そこからは、輝くことしか知らない湖全体と、どうでもいい町の北側半分と、在るとも無いともいえる 現(うつ)し世(よ)の三分の一ほどが鮮やかに見て取れた。そして私は、伝統ある工芸品としての、今ではもうほとんど造られていない漆塗りの和籠としての誇りを、瞬時にして取り

タイピング日記 / 千日の瑠璃0003

私は棺だ。 並のサイズで並の値段の、幸福な生涯を全うした者にふさわしい、白木の棺だ。私としては淡水と小鳥の匂いに満ちたその屍を熟誠をこめて歓迎したのだが、しかし、小高い片丘のてっぺんにある一軒家に集まった人々は、さほどではなかった。かれらは硬貨の小石を使って私の蓋を無造作に打ちつけるとさっさと階下に降りて行き、三六○度の展望に満足しながら飲み食いし、麓で待つ霊柩車のところへ死者を運ぶ体力を蓄え始めた。 ひとり仏間に残された少年は、出血をとめようとして、指先をべろべろ舐めていた

タイピング日記 / 千日の瑠璃0002

私は闇だ。 山と湖、そして静寂と倦怠の田舎町、まほろ町(ちょう)を、一喜一憂と共にすっぽりと覆う、いつもながらの闇だ。私は天体の取るに足りない輝きや倦きもせずに岸辺を洗うさぎ波と力を合せて、釣り用の華奢な椅子に腰をおろしたままジャックナイフのようにふたつ折りになっている骸(むくろ)を、優しく包みこむ。呪わしい夜明けがすぐそこまで迫ったとき、麻痺している脳のせいで勝手に踊ってしまう肉体を持ち、その半ば哀しく半ばふざけた動作で以て昼は光を、夜は私を撹拌し、地上のいたるところに楕円

タイピング日記 / 千日の瑠璃0001

私は風だ。 うたかた湖の無限の湧水から生まれ、穏健な思想と恒常心を持った、名もない風だ。私はきょうもまた日がな一日、さながらこの世のようにさほどの意味もなく、岸に沿ってひたすらぐるぐると回るつもりだった。ところが、太陽がぐっと傾いた頃、人間をひとり、長く生きても世情に通達しているとは言い難い男を、いとも簡単に殺してしまった。重ね着をし、毛糸の銅巻には懐炉(かいろ)まで忍ばせていたのだが、その釣り人の使い古された心臓は、私の易々たるひと吹きでぴたりと停止した。老人は声もあげず