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誰そ彼

今日は静かに革命が起きた日かもしれないし、そうでもないのかもしれない。

ずっと抱えていたこの暗い気持ちを抜け出そうと、はじめて思った。
この後ろ向きな、いつも死に追い詰められているような若さゆえの恐ろしいほど大きなエネルギーを、そんなものがあるならばそれを生に使おうじゃないかと、初めて思えたような気がする。

「しまなみ誰そ彼」という漫画を読んだ。ゲイの高校生が教室で「ホモなの?」とからかわれる場面から始まる。”誰でもない”「誰かさん」との出会い、様々な事情を抱えた人たちとの温かな、時に危うい関わりを通して、自分の気持ちと向き合い、関わり合う人たちと向き合い、深く傷つき、ふいに誰かを傷つけながら成長していく主人公が描かれている。誰かを想うけれど自分に嘘をつくときの、歪なシャボン玉が今にも割れてしまいそうな繊細でヒリヒリとした痛み、相手に触れたいと思うと同時に襲ってくる、脳内の他人の白々しい目と自己嫌悪の黒くドロドロと粘り付く気持ち悪さ、自分が何者かを求めるあまりに自己否定に続く暗い道に迷い込んでしまう思春期の危うい感受性、生々しい感情がリアルに伝わってくる。

互いをわかり合えなくても、わかり合えないまま生きていける世の中がいい。

善意を振りかざして相手を傷つけてしまうことに気付かない傲慢さ、理解しようとしても理解できない部分が生まれてしまうどうしようもなさと後味の悪さ、それでも強がりでも何でも前を向いて生きていこうとする脆さと強さの同居。人間の痛くてどうしようもなくて、でも自分として生まれてきたからにはもう戻れなくて、戻りたくなくて、もがいてとにかく明日に向かって生きていこうとする美しさが描かれていると感じる。

はじめて全4巻を読んだときは、心臓のあたりがズキズキと痛くてどうしようもなかった。抱えているもの、思春期に抱えてきた心の奥の方に静かにしまってあるものが、急に目の前に引っ張り出されて、それらが見たくも聞きたくもないと思っていたのに眩しい光を放ちながら話しかけてくるような感覚だった。主人公が誰かを想うとき、心臓が痛かった。それぞれがそれぞれの大切な人を想うとき、心臓が痛かった。誰かに打ち明けようと大きなリスクを抱えて、90%の強がりと少しの勇気を持って飛び出すとき、心臓が痛かった。主人公が想い人から思いもよらず友情に愛情をちょっと上乗せされた思わせぶりな気持ちを受け取るとき、心臓がズキズキ痛かった。
ずっとこの作品が続けばいいのに、そうしたら私の人生も、痛みもずっと載せてもらえるのに、と思ったけれど、やはり漫画は漫画で、読み切ったら終わった。物語は物語であり、人生は短いと言えども私の人生はまだ続いたままだった。

これまでずっと、消えてしまいたいと思って生きてきた。今でもちょっとでも油断したら消えてしまいたいと思う。目を閉じて、自分の魂が空に漂ってずっとずっと上の方まで浮かんでいって、静かに呼吸は消えていって、体も心もなくなってぼんやりしてきて、そのまま消えてしまいたい。何もなくなってしまいたい。誰かに探られるのも、自分に嘘をつくのも、自分で自分を認められないのも、自分で自分を見つけられたいのも、全部終わりにしてしまいたい。若いからこそ、この持て余した感受性と一緒に、消えてしまいたい。

それから、もう一つ気付いたことがある。私は自分ではない誰かに何とかしてもらえることをどこかで期待してきたのだった。誰かに頼って、全部洗いざらい話して、甘えて依存して、「どうすればいいですか」って聞いて、「私って本当はこんな悲しい気持ちでいるんだよ」「どうしてくれるんですか、可哀そうでしょう」「助けてください、私を引っ張り上げてください」と言いたい、という気持ちがあった。
無意識か意識してか、ずっとそんな独りよがりでどうしようもない気持ちを引きずってきた。今まで気づかなかったの、それとも気付かないふりをしていたの、私。

この漫画のレビューを見ていたら、「これほどの死にたいというエネルギーを前に進むためのものに変えてやろう、と…」のような書き込みがあった。決して主人公や登場人物を責めるようなものではなくて、作中で前向きに変化していった主人公に感動した、といった内容だったと思う。それを見て、私の中で腑に落ちるものがあった。そっか、私はずっと自分の足で自分の人生を歩くことを逃げてきた。ある面では逃げていなかっただろうし、表向き取り繕っていただろうし、逃げるしか術がなかったとも言える。でも、たしかに逃げ続けてきたんだ、という新しい考えが唐突に、けれどとても自然に下りてきた。

だから、私は新しい考え方をすることにした。もう、私が私として生まれてきた以上、知らないうちに始まってしまったゲームを自分のために続けるしかないんだ。逃げたり言い訳したり、誰かに自分の人生の方向を決めるサイコロを振ってもらうのを待つのはやめよう。これからどうなるかわからない。今の自分による自分の定義が突然変わる日が来るかもしれないし、将来はびっくりするほど若いうちにあっさりとできちゃった婚しているかもしれないし、大金持ちで超有名人になって今の自分なんて笑い飛ばしているかもしれない。それとも、貧乏になってひどい生活をしているかもしれないし、大きな戦争に巻き込まれて若いうちに死んでいるかもしれないし、突然病気になって文章なんて読み書きできない状態になっているかもしれない。わからないけれど、とにかく今は自分の人生の方向を決めるサイコロは自分で振ってみよう。誰かに何か言われようなんて、そのとき考えればいいんじゃない。分かり合えなくても、少し離れて生きていければ、それでいいんじゃない。遠い未来はどうせわからないし、いつだって私は自分勝手で自分のことしか考えられないんだし、自分で自分の歩き方を決められるうちはそうしないと周りの人の生き方も認められないんじゃない。
いつだって世界は不穏で、困っている人と困らせている人がいて、私は笑いながら誰かのことを踏みつけている。生き物がたくさん死んで、新たに生き物がたくさん生まれる。漫画の連載が終わっても、どこかの家が火事になっても、戦火を逃れて子どもたちが走り回っても、宇宙は拡がり続ける。
だから、もう受け止めきれないほどのものを背負いたいと祈りながら、自分の人生の方向を自分で決めようよ。そろそろ、その時が来てるんだ。そう思えるようになった。

9割の強がりとちょっぴりの勇気と、もっとちょっぴりで消えてしまいそうな芽生え始めた「自分」をなんとか持って、生きていくしかないよな。
明日からは、今日までよりも美しい世界にできるように。そして明後日は、もっと美しい世界にできるように、生きていこうと思った。忘れたくない日になった。


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