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君ほど僕を

 後悔のないように、後悔のないように。

 どの選択を選んだとしても、後悔はしない。間違ってなどいない。

 決めた道を、ただただ進んでいけば良いのだ。

 そう思っていたはずなのに、なぜか後ろ髪を引かれる思いがする。自分が下した選択が間違っていて、引き返せと誰かが叫んでいる気がする。
 そんなことはない、間違ってなんかいない。僕はいつだって正しい。いつだってきれいに舗装された道を進み、迷わず、そして他人にも迷惑をかけない最善の道を進んできた。

 それなのに。どうして。


 君と会わなくなって、同じ職場でなくなって2ヶ月が経つ。

 それまでも別部署でお互いほぼ会話をしてこなかったが、無邪気に笑い、いつも楽しげにいろんな人と話している君が眩しくて、そしてうらやましかった。
 1年くらい、一緒に仕事をしていた。いろいろな企画を一緒に考えて、君は良い相談相手になっていた。僕よりも年は5つ下でに子供っぽくもあった君だけど、僕が真剣に悩んでいると君も真剣になって話を聞いてくれた。

 喧嘩もした。お互い変なところは大人で面と向かっての喧嘩はしなかったけど、少なくとも僕はそのとき君の存在が疎ましかった。「ねえねえ!」としっぽを振って喜んで寄ってくるような君が、どうもうっとうしく思うことがあった。それは職場だったとしても、LINEなどでも同じような感じだから、なおさら。
 僕は思う。君は、きっと僕のことが好きだったんだろう。君はわかりやすかった。うまく隠してるつもりだったとは思うけど、鈍感と言われる僕でもわかりやすいくらいに顔が赤くなっていたし、会うときは少しメイクが濃かったように思う。別に僕のことを格段に褒めちぎっていたわけではないし、話し方も至って普通なように見えていたが、自分の感情が抑え切れていないようだった。

(すごいな。なんかこれで僕のこと好きじゃないって言われたらどうしよう)

 そう思うくらいだった。周りの職員が君のことをよく茶化していた。「隣にいるから顔が赤いよ!」と。君はそのたびに「違う!」と必死に否定していた。その態度から余計に気づいてしまっていて、君の顔が見れなかった。君も僕の顔を見なかったように思うけど。

 でも、そうやって「好き」という気持ちを隠さない(隠せない)君がすごく眩しくて、胸が痛くなった。僕はこんな風に自分の感情をさらけ出すことができない。君よりも少しは長く生きているはずなのに、そのやり方がわからないのだ。どうしてここまで君は僕に対しての気持ちをまっすぐ向けるのだろう。わからない。熱狂過ぎるファンを見たアーティストも、こんな気持ちになるのだろうか。僕はアイドルやバンドを特別追いかけているわけではないけど、どこかで彼らの気持ちがわかる気がした。室内から窓の外を、激しく雨が降る光景を眺めるような。よく降っているなあ、というように。雨の中には飛び込めない。そう、雨のような君の気持ちに飛び込むなんて、僕にはできない。

 仕事をするには、彼女は良い仲間だった。でも、それ以上にはどうも見えなくて、考えられなかった。

 君と仕事をするようになってから2度目の春が訪れようとしたとき、僕は異動が決まった。昇進もするようで、上司たちからはかなり期待されているようだった。異動が決まった職場は比較的新しくできた建物であり、とてもきれいだった。昇進もするから自動的に給料も上がる。ありがたい話だ。自分のためを考えれば、その話を呑まないわけがない。部長から話が合ったとき、僕は行きます、とだけ答えた。そして話はトントン拍子で進み、3月頭に出た来年度の組織図に僕の名前はなくて、別施設の副主任になっていた。

 みんな驚き、寂しがっていたけれどそれでも明るく送り出してくれた。そのみんなの中には、君も入っていた。

「きっと、先輩なら大丈夫ですよ」

 僕の方を見ずに言った君。僕は冗談交じりに

「いや、結構不安だよ」

 と言った。

 そう、本当は不安で仕方がなかった。そもそも僕は全く違う業界から今の仕事に就いて、来年でやっと4年目だ。まだまだイレギュラーがあるとあたふたしてしまうし、ましてやっと慣れてきたところにまた新しい職場へ異動なんて、人間関係的にも大丈夫なのか不安になる。「お前なら大丈夫だろ」と部署のみんなは言ってくれたし、あんまりみんなにマイナスな面を見せたくなかった。

 すると、君は「うーん」と言いながらも、

「でも大丈夫ですって。真面目ですし、どこ行っても輝けると思いますよ」

 どこからそうやって君が思ったのかわからないけど、なんだかその言葉がじんわりと染みた。 それから、あんまり異動に対してネガティブにならなくなった。

 本当は3月31日まで勤務は入っていたが、30日、31日は土日で、君の部署──事務は休みになってしまうからその前の29日に挨拶へ行った。
 本当は事務長さんや部長に挨拶をしたかったが、何か別の話をしていたようでしばらく君の席の前で待っていることにした。

「あ!先輩!もしかして今日までですか?」

「ううん、31日早番だけどここ休みだからさ」

「あ、そっか。じゃあ私とここで会うのも最後になっちゃうんですね」

 しんみりとした顔で君が言う。こんな風にすぐに別れが来るなんて思ってもみなかったのだろう。事実、君は組織図が貼られたその日からずっと表情にどこか翳りがあった。

 そんな君を見て、僕はずっと君に言いたかったことを口にした。

「本当に、ありがとう」

「え?」

「君がいたから、1年ここまでやってこれたよ。事務仕事ばかりやらせちゃったけど、本当に助かった」

 君は照れなのか、それとも涙なのか。何かを隠すように顔を背けて

「いえ。私だって、先輩とだからなんとかやってこれたんだと思います。ありがとうございました」

 そう言ってふうと息を吐き、君はまた僕の方を見ずに、

「寂しくなりますね」

 とつぶやくように言った。聞こえてきたけど、僕はあえて言った。

「ん?」

「いえ、そんなこと言ってはいけませんね」

 そうして、彼女は長い髪を横に流しながら、

「一緒に仕事できて、幸せでした」

 憂い、寂しさ、それら全てを覆い隠すように。周りの事務員の目から逃れるように。君は悲しく笑っていた。

 ちょうど1年前は、君の髪はまだ肩につくくらいだった。それが今、髪は胸のあたりまで長くなって、そして花の良い香りがした。何の花なのかとかはわからないけど、一緒にいてとても心地の良い香りだった。そして、その髪と香りは、僕の心をぎゅっと締め付けた。

 あの日から、もう君とは会っていない。僕が異動する前日に「明日からお互い頑張りましょうね!」というLINEは来て、「うん。また会うときもあると思うからよろしくね」とだけ答えたものの、もうそこからはLINEも電話も一切していない。まるで、3月までが夢だったかのようで、本当にあったことなのかと疑いたくなるものだった。異動した職場は、人の出入りがあまりにも激しく、そしてその職員の穴を埋めるように仕事をしなければならないので、非常に忙しかったからだ。予想以上の忙しさに、一緒に異動してきた主任は早々に胃腸炎になっていた。そして僕も今までとは比べ物にならないレベルの残業をほぼ毎日こなすようになった。家に帰れば本当に眠ってしまうだけの毎日。休みなんてほぼベッドにいる気がする。それくらい仕事に忙殺される日々だった。

 そんな毎日を繰り返しているうちに、僕は自然と君を思い出していた。こんなに忙しく僕が働いているのをよそに、君は軽快に笑いながら楽しそうに仕事をしていることだろう。振り返ってみると、君はいつも笑っていた。感情豊かな人だったけど、だいたいいつも笑っていて、一緒にいてつい僕も笑ってしまうことが多かった。

 もしも君がここにいたら。事務室の扉を開けば君が真剣に作業をしていて、名前を呼べば「はーい!」と笑ってこちらを向いてくれる君が。たまに冗談も言いながらも、僕にしっかりと向き合ってくれる君が。どんなに忙しくても、やるせなくても、君がそこにいてくれるだけで気の持ちようが変わったかもしれない。

 やがて僕は気がついた。君のことをどうしようもないほどに愛してしまっていることに。自分ではそう思っていなかったとしても、無意識の中で君を求めていた。前の職場にいた時にはなかった、この満たされない感じが証拠だ。喉がかわいて、何度水を飲んでも喉の渇きは癒せない。確かに僕は呼吸をしているはずなのに、酸素を吸っている気がしない。それまでの自分とは何も変わっていないはずなのに、ただ環境が変わり君と会わなくなっただけで、今の体が借り物のようになってしまったようだ。

 君に会いたい。そう君に叫びたかった。適当な理由をつけてご飯でもどう?とか誘えばいいのに、僕はそれができなかった。数ヶ月前、君も僕を同じようにご飯に誘ってくれたことがあった。でも、僕はそれをことごとく無視した。行ってしまえば、君が僕に好意を寄せてることが確信に変わる気がしたし、そしてそれで今の「仕事で切磋琢磨する仲間」ではなくなってしまいそうで、それが嫌だった。職場恋愛は当初考えられなかったのだ。「お前は私からの誘いを無視したくせに、私のことを食事に誘うのか!」と思われそうでとてもそんなこと言えなかった。「元気?」「何してる?」「今そっちはどう?」いくらでも声をかけようと思えばかけられるのに、何もできない。君と離れて初めて、君がいなければちゃんと息も吸えないことに気がついて、情けなかった。今更自分の気持ちに気がついたところで、何になると言うのだろう。

 自分の気持ちをこれでもかとぶつけてくる君を恋しく思うと同時に羨ましくなる。それが出来れば、今こうして今までの自分の行動を悔いることなどなかっただろう。若さゆえなのか、そういう育ちなのか。なぜ君がああも素直で純粋なのか僕には検討もつかないけれど、君みたいな素直さがとても欲しい。

 もし、また君に会ってゆっくり話すことができるのなら伝えたい。

 僕は君がいないと息もろくに吸えないし、毎日が不安で仕方ない。

 君は僕にとっても最高の仲間だったし、最愛の人だと。


《了》




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