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海色の花束を君に 下


 彼と出会って、彼と過ごして、毎日が光のように過ぎていった。

 母の日という大きな繁忙期を越えて、私は疲れやすくなっていた。いつもは一晩寝ればとれた疲れが、慢性的にだるいのだ。それでも学生の時よりかはだいぶ年を取っているわけだし、疲れやすくもなって当然だろう。特に気にもとめないようにして私は過ごしていた。

 ある雨の夜、彼はドライブに連れて行ってくれた。

 私たちは、未来の話をしていた。

「ねえ」

 彼は顔を前に向けながら

「ん?」

「もし、これからずっと一緒にいられるとしても。いつかはいなくなるときが来てしまう。そうしたら、あなたはひとりぼっちになっちゃうよ」

 彼といるのはとても幸せで、楽しくて。だからこそ、心のどこかでこの関係に終わりが来ることが怖かった。人間、生きているなら必ず死ぬ。一緒に人生を終えられるなんて保証などどこにもないし、必ずどちらかが取り残される。もし私が逆に彼を見送ることになったとしたら、耐えられないだろう。反対に彼はどうなのか、少しだけ気になったのだ。

 すると、彼は

「さあ。それはあまりにも先の話だから、考えたこともなかったな」

 と、優しく微笑んだ。月の光のような、優しい笑み。さっきまでの不安がどこかに行ってしまうようだ。

「もうすぐ梅雨だね。今度二人で海を見に行こうか」

 彼は話題を変えるように、そう言った。

 話を変えたいんだな、とは思ったが、彼と海に行けるという事実は本当に嬉しかった。少なくとも、彼がそれを提案してくれたことが。

「本当に!?」

 私が思わずそう聞くと、「ああ」と彼は頷いた。

「でも本当にいいの?どうせ雨が降って空も海も曇っているよ」

 彼が太陽が苦手なのはもうわかっていた。そこで今更失望なんかしない。

  でも、私には夢があった。

「いつか、黒くも灰色でもない海を、あなたに見せてあげたいな」

 心の底から笑顔があふれてくる。こんなに嬉しかったこと、今まであっただろうか。彼と出会ってから、本当に自分の中で知らなかった感情と向き合っている。その事実が本当に愛おしい。

 彼は笑っていた。

「どうしたの?」

 私がそう言うと、

「いや、何でもない。魚に似てるなって思って」

「魚?」

「ははっ。何でもないって」

 それがどういう意味かはわからないけど、彼の表情から察するに悪い意味ではなさそうだった。

 しばらくドライブをして、彼は私の家の前で車を止めた。

「ありがとう。今日も、楽しかった」

「僕も」

 私はふと思い出して、鞄を探った。

「これ、あげる」

 昨日私が勤めている花屋に、クマのキーホルダーが入荷していた。クマがバラの花束を持っているというかわいいデザイン。店長が一目惚れして思わず買ったと言っていた。彼とおそろいにしよう、そう決めて私はクマのキーーホルダーを2つ買ったのだ。

「これを、僕に?」

「うん。子供っぽいとは思ったけど、でもかわいかったから・・・」

 すると、彼はそれを受け取って、

「ありがとう。大切にするよ」

 と、さっきみたいな優しい笑顔を浮かべた。私もつられて笑い、

「うん。おやすみ」

「おやすみ」

 私たちは別れた。それからしばらくして、彼の車のエンジン音が雨音と共に聞こえてきた。


 彼と海に行く日が、本当に楽しみだった。雨が降っていようが関係ない。私はそれまで頑張らなきゃ、とより仕事に精を出した。

 梅雨に入った。今日は特別だるかった。ここ最近は花が売れにくい時期で、そこまで忙しいわけでもなかった。軽く風邪を引いたのかもと、薬を飲んでいた。

 掃除をしていると、

「精が出るね」

 と、店長が言った。

「はい。今度、いろいろ楽しみなことがあるんです」

「彼と会うの?」

 店長は私が彼と会っていることを知っていた。最初は夜のうちしか会えないっておかしくないか、と言っていたが、最近はそれも気にしなくなっていた。

「はい。初めて夜以外に一緒に出かけるんです」

「へえ。どこに行くの?」

「海です。私が海が好きだって言ったら、連れて行ってあげるって」

 ふうん、と店長は言い、

「ところで、あなたたちってはまだ付き合ってないの?」

「えっ?」

「どっちか告白した?」

 思えばずっと私たちは一緒にいるのに、好きとかそういったことはお互い言ったことがない。

「・・・・・・してないです」

「ええ!もうどこかで言っちゃいなよ!それか言ってもらいな?このままだとどっちつかずの関係で終わっちゃうよ?男なんて都合が良い生き物だからね」

 彼はそんなんじゃない。彼は誠実だ。私がそう言おうとしたときだった。視界が急に回り出した。それと同時に身体から一気に血の気が引く感覚がして、私は思わず倒れ込んだ。

「どうしたの!」

 店長が駆け寄ってくる。立とうにも、自分の体ではないと思えるくらい、力が入らなかった。薄れていく意識の中で、彼の顔が思い浮かんだ。

 ああ、私は好きだよ。大好き。本当に愛しているの。あなたといると気が狂ってしまいそうなくらいに。でも、店長が言う通り、それで終わってしまったら。今の関係が永遠でなかったとして、彼がやがて私の前から姿を消したとしたのなら――


 目を覚ますと、私は病院にいた。訳も分からずにいると、医師が入ってきて、私が勤務中に大きな貧血を起こして倒れた、と言われた。大きな貧血?と聞くと、医師は私に言った。

「今までに、何か体調の悪さを感じたりしませんでしたか?」

「え、ええ・・・・・・まあ、強いて疲れやすい、っていう感じですかね…。寝ても疲れが取れない、みたいな」

すると、先生はため息をついた。

「出来ればそれを感じた時に来て欲しかった。もう、あなたの体は手を施せないくらいに蝕まれています」

 私は全てを理解した。もう、私に残された時間は数少ないことを。心のどこかでわかっていた部分はあった。でも、こうしてその事実と向き合ってみると、思いの外それを受け入れられない自分がいた。

 彼を残して、私が行くの?

 私が彼を残していくなんて、あり得ないと思っていた。

 それが、こうして現実になってしまうの?

 そんなの・・・・・・・・・。

「とにかく今日から入院してください」

 先生の言葉に、私は顔を上げた。

「嫌です」

「えっ?」

「私は、入院したくありません」

 医師は目を丸くしていた。それもそうだ。このまま何も治療しないままだと下手したら今日本当に死ぬぞ、という意味だろう。

 でも私は、私の命よりも彼がずっと大切で気がかりだった。彼の顔を歪ませてしまうようなことを、私は絶対にしたくなかった。おそらく彼は私が入院したと聞けば確実に絶望するし、何より面会時間も日中に限られる。もう彼と会えないまま死ぬのも嫌だった。

「ごめんなさい。訳あって本当に入院したくないんです。」

 しばらく医師と喧嘩にも近い状態になっていたが、折れたのは先生の方だった。

「わかりました。その変わり、何かあればすぐこちらへ来てください。あなたの気が済むか、ご体調が悪くなるまで。部屋は用意しておきますから」

 私は先生にお礼を言った。そして、その日夜まで点滴を受けて、家に帰った。

 帰る時に店長が持ってきてくれていた荷物を受け取った。スマホを見ると、倒れた日から2日くらい経っていることがわかった。そしてその間、彼から何度か着信が入っていた。それを見た時、涙が溢れそうになった。

 彼を絶望させくない。心配をかけたくない。

そう思っていたけど、私の方が先に去らなくてはいけなくなるようだ。あのときの私の勘は当たってしまっていたのだ。

――去るのは、私なんだ。

 その事実があまりにも辛すぎて、耐えられない。でも、この話を彼にしたくない。してしまえば、本当にそれに向き合わなければいけない。彼にまでこの事実と向き合ってほしくなかったのだ。

 私は、涙を拭いて彼に電話をした。

 彼はすぐに出た。

「もしもし?どうしたの?どうして電話に出てくれなかったの?」

 彼の驚きと戸惑いがあふれた声を聞いて、安心と同時に大きな罪悪感が私に覆い被さった。

  あふれる涙を必死に抑えて、私は絞り出すように言った。

「・・・・・・・・・ごめんなさい」

 私の声を聞くなり、彼は

「すぐに行く。待ってて」

 と、電話を切った。そして十数分後、本当に彼は来た。ドアを開けると、息を切らして彼が立っていた。

 彼の名前を呼ぼうとすると、それを遮るように私を抱きしめた。

「君が一番好きだ。何よりも、誰よりも。だから・・・・・・・・・本当に、本当に勝手だけど・・・僕のそばにいてほしい」

 彼は私から離れると、ポケットからバラのモチーフが付いたペンダントを私の首にかけた。

「僕はいつも、永遠に、君のそばにいるよ」

 彼の言葉に、涙があふれる。私は彼の胸に抱かれて泣いた。

 不幸だ。なんて不幸なんだ。こうやって私が長くない命なのに、永遠を誓ってくるだなんて。その永遠は、永遠ではないんだ。それでも、こうやって彼と結ばれたという事実が本当に幸せでもあった。

 私に与えられた最後の時間を、限られた永遠を、彼と過ごせるなら。

 どんな不幸も、至上の幸福に感じることができる。

「愛してる」

 彼が優しく私の耳元でささやき、ぎゅっと抱きしめた。私も、彼が万が一にも消えないようにぎゅっと抱き返した。


 彼との日々は変わらなかったけど、私の身体は徐々に蝕まれていくのがわかった。彼が会いに来るそのとき以外は、基本的にベッドの上にいた。仕事はもう辞めた。店長が私の体調を鑑みてもう働けないと判断したのだろう。むしろ辞めた方があなたのためだと言われた。

 その日はいくらか体調が良かった。今日は、彼と海に行くはずだった日。梅雨真っ盛りなはずなのに今日はずいぶんと晴れていた。前に彼から行けないと言われていたため、予定はキャンセルになってしまっていた。

 私はかつての職場に顔を出した。すると、売り場に青いバラが売られていた。

「店長、これは?」

「ああ、青いバラだよ。もうあなたが仕事に来ることはないけど、少しでも良くなるようにと思って」

「私のために仕入れてくれたんですか?」

 店長は恥ずかしそうに笑い、

「これでもあなたのことはかわいい部下だと思ってたのよ?売上げだって、あなたのお陰で上がった部分も沢山あるし。あなたには安くするから。買って行きなさい」

 私は青いバラを10本買った。おそらくこれが最後の買い物になると思ったからだ。店長から青いバラの花束を受け取る。青が重なってまるで海のような、その花束。

 もう、彼とこの色の海は見ることはできないのかな。

 そんな風に思いながらも、私は店長に礼を言って店を出て行く。そして私は、自然に彼の家へと向かった。

 家に着くと、彼はとても驚いた顔をしていた。

「どうしたの?急に」

「会いたくなったの」

 私は、彼に青いバラの花束を渡した。

「はい。あげる」

「どうしたの、これ」

「あげたかったからあげる!」

 私の言葉に、彼はふわりと笑った。

「ははっ。ありがとう」

 そうバラを受け取る彼の瞳には、海色の光が映っていた。

 彼の家のリビングに行くと、彼はバラを飾りながら

「どうする?ゲームでもする?それとも、音楽を聴く?」

 私は、変わらない彼の笑みを見てつられて笑った。

「ねえ、私たち、明日は何をしようか」

 すると、彼はハッとした。そしてバラをなでながら、

「あのさ、君は夢を見る?」

「ううん」

 急にどうしたのかわからないけど、私は世間話を聞くように返事をした。

 でも、彼の表情は陰っていた。

「変なんだ」

「何が?」

「君がまるで消えてしまいそうで。どこかに行ってしまうような気がするんだ」

 胸が痛んだ。彼もどこかで察しているのだろうか。本当のことを言うべきなのだろうけども、私にはとてもそんなことができるような勇気を持つことはできなかった。

「私たちはずっと一緒だよ。私があなたをおいて消えるわけがないじゃない」

 そう笑って言った。嘘をつくのが昔は苦手だったのに、いつの間にか得意になっていたようだ。

 私の顔を見て、彼も笑った。

「そうだね」

 そう言って、彼は部屋の一番見えるところにバラをそっと置いた。


 それからまた数日が経ち、もう布団から出ることも辛くなってきた。彼の前でもそれが隠せないときは風邪を引いたと嘘をついた。本当に嘘をつくのがうまくなってしまっていた。

 彼は突然やってきた。突然インターホンが鳴り、出ると彼が不安げな表情をしていた。

「どうしたの?」

 私の声に、いくらか安堵している様子だったが、それでも私の今の状況を見てそれもすぐに崩れた。

「君は・・・・・・」

 彼は私の嘘を見抜いたようだった。ちょうどそのとき、私の身体の力の全てが抜けたように彼に倒れ込んだ。

「だ、大丈夫。ごめんなさい」

 彼は私をベッドに連れて行き、ゆっくりと寝かせると、髪をなでながら、

「君に残った時間がこんなに短いと知っていたら、絶対に離さなかった。片時も離れなかったのに」

 彼が初めて涙を流した。私は彼の涙をぬぐい、

「わかってる。私も、本当のことを言わなかったのが、悪かったの」

 彼はぼろぼろと涙を流す。男泣きなんて情けないと思っていたけれど、彼の涙は宝石のように美しかった。

「不幸の中だろうとも、永遠に僕は君をそばに置いておくのに」

「いいの。私は、あのときも、そして今も。幸せだった・・・・・・」

 彼と初めて出会ったあの日。彼と映画に行ったあの日。家でゲームに初めて彼に勝ったあの日。彼にオムライスを作ってもらったあの日。彼とドライブをしたあの日。彼に告白をされたあの日。彼にバラを贈ったあの日。愛す日々が私の周りを駆け巡る。こうして別れがすぐに来たのは、確かに不幸かもしれない。それでも、彼が私に与え続けてくれたものは、この上ない幸福だった。

 彼は泣いて私の手を握った。そして、嗚咽と共に、

「お願いだから、行かないで」

 静かな部屋に、彼の涙がむなしく響いていた。



 人間を愛したヴァンパイアは、報われることはなかった。

 何度も何度も、ヴァンパイアは自分の愛する人をより幸せに導こうとしたが、結果は同じだった。そして、彼はやがて、心を閉ざした。

 彼は何度も、人間の世界に降りては、ある女性の墓を訪れていた。その墓には、常に赤いバラの花束が供えられていた。

 あるとき、その墓にはバラと一緒に手紙が添えられていた。そして、それからもう彼は姿を現さなくなった。手紙には、こう書かれていた。

 愛しているよ、僕の――




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