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レモンの花が咲いたら 10

10 美月


 それまでは、私の世界は真っ暗だった。感じることが出来るのは、無機質な音と、無機質な匂いと、無機質な感触だけ。

 ただ、唯一無機質でなかったものは、病院内にある庭園に咲く花やそこに吹く風だった。それだけが私に生きていることを実感させてくれた。


 友達は、出来たことが一度もなかった。小さいころはあまり話すことが得意ではなくて、仲良くなりにくいようなオーラでも放っていたのだろう。院内学級に行くようになってもなかなか馴染めず、やっと心が許せること出会えたと思ったら死んでしまった。


 両親は、私の元に来てくれたことが少なかった。回数として数えるならば片手で足りる程度だろう。父親に関しては1度も声を聞いたことがない。また、兄弟などもおらず、数少ない面会は全て母親だった。その会話も、どこか他人行儀で、母親に関しては早く帰りたいというようなオーラを感じていた。そして、数年前から来なくなった。

 なぜ両親が来なくなったのか。全く理由は分からない。未だに分からない。でも、私はそれを先生や看護師に聞こうとは思わなかった。それで皆を困らせたくなかった。

 ただただ、ああ、私のことを一心に大切に思ってくれる人はもういないんだなぁと感じた。そして、もう私の体もどんどん生きる気力を失っていることを悟った。もう、生きることが億劫だった。毎日起きては暗闇の中を彷徨い、たまに花や風、そして院内を歩く小児科の患者やその親の会話を耳にしては羨ましいと少しだけ思ったり。そしてもう目覚めなくても良いのにな、と思いながら眠りにつく。

 なんて悲しくてつまらない毎日なんだ。なんて無機質なんだ、私の生きる世界は。もうつまらない。生きていてもつまらない。私を待ってくれる人なんか、もうこの世界にはいない。

 それなら、いつ死んだっていい。死んだって誰も悲しまないから。もういっそ誰か殺してくれてもいい。ただ病気で体をむしばまれながら死ぬくらいなら、ひと思いに誰か殺してくれないかな、と思っていた。

 そんなときだった。

 ある春の日。男の人特有の低い声で、そして優しそうな人が私と話してくれた。

 きっかけは些細なものだ。ただ風に飛ばされた私のブランケットを、彼がとってくれたのだ。

 その人は、前の私と同じように人と話すのが得意ではなかった。どこか挙動不審だった。少し話しただけでそれはすぐに分かった。それでも、優しくて、温かそうな人だった。

 その人はすぐに帰ろうとした。当たり前だろう。こんな私と話していても時間の無駄だろう。まして赤の他人なのだから。

 でも、私は彼を呼び止めた。そして、その後訪れた先生に、彼は自分の友達だと嘘の紹介をした。怒っているだろうな、と少し怖かったけれど、私にはそのとき、一筋の光が見えた気がした。真っ暗な部屋に、窓から朝日が射し込んだような。そんな美しい光を、彼が放っている気がした。

 この人なら、私と友達になってくれるのかな・・・・・・・・・。

 そう思い、私は彼に友達になりたい、と言うと。

「俺なんかで、よければ」

 彼は優しかった。それから、彼との日々が始まった。

 毎日来てくれた。車いすを押して中庭に連れてってくれたり、好きだという漫画や小説を朗読したりしてくれた。逆に、私が彼に点字の本を読んだりもした。

 そうこうしているうちに、どんどん彼に惹かれていった。彼の密やかな笑い声に、心がときめいた。

 彼が私の病室に通うようになって、1週間が経った頃。定期検査の次の日、彼は私に言った。

「外の世界に、出てみないか?」

 私はこのとき、自分に何も映してくれない無能な瞳から涙がこぼれそうになった。こうやって誰かが言ってくれたのは初めてだ。今まで何度か退院はしたけれど、それは全て自分がただ病院から出たいというだけだった。そう、全て自発的であり、周りからは何も言われなかった。言ってくれる人すらいなかった。

 その言葉が嬉しくて嬉しくて、胸が幸せで満ちあふれた。

 それから彼の家に居候させてもらうことになった。食事も元々そこまで執着がなかったから、彼はそこには苦労しているようだった。でも、私は彼と眠るその瞬間まで一緒にいられることが嬉しくてたまらなかった。

 いつか彼の実家だという、徳島という場所にも行きたいと思っているけれど、彼はそれを好ましくは思っていない。一度その話をしたら、声が震えていた。きっと何か事情があるのだろうな。


 あるとき、彼は私を海へと連れて行ってくれた。私は海に行くのが本当に夢だった。バスに揺られて数十分。夏の気配が忍び寄る、晩春の海だ。

 彼が私に肩を回してくれて、砂浜を一緒に歩いた。初めて地面を歩いた。しかも裸足で。車いすに乗っていたときは靴を履いていたけれど、彼は裸足の方が気持ちいいと言ったので脱いだのだ。

 砂浜は暖かくて、柔らかかった。指と指の間に砂がめり込んでいくのがくすぐったかった。それを彼に言ったら、笑っていた。なにがおかしいの、と言ったら、別に、とはぐらかされてしまった。なんであのとき笑ったんだろう。



 彼が愛おしい。彼に恋をしている。それに気付いたのは、いつだろう。

 でも思えば、初めて出会った時からそれは始まっていたのかも知れない。


 ただ、私にはもう終わりが近づいているのは何となく分かっている。

 どこからか声が聞こえる。その声は日増しに大きくなっていく。こっちに来て、もうそのときがきたんだよ、と。でも、今はその声に応えてはいけない気がした。


 生きる光を、私に灯してくれた彼。


 愛という感情を、私に教えてくれた彼。


 新しい夢を、私に与えてくれた彼。






「玄さん・・・。こんな私でも・・・・・・お嫁さんにしてくれるのかな」 

 ぼそりと呟くも、彼はヘッドホンをしながら仕事に没頭している。
 いつかこの思いが届く日が来るのだろうか…。

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