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肺にやりが刺さる事故から復活した400m選手:イライジャ・ゴッドウィン

「ちょっとどうしたの?」 
 ニューヨークグランプリのレース後、声をかけるとイライジャは顔を歪めた。
 イライジャ・ゴッドウィン。
 米国の400m選手で自己ベストは44秒61、東京五輪、世界陸上オレゴン大会ではミックスリレーや男子マイルリレーの代表としてメダルを取っている。
 昨オフにプロ選手になったが、記録がいまいち伸びていない。ニューヨークGPも46秒35と「らしくない」レース運びだった。
「何があったの?」
 そう尋ねると、ぽつりぽつりと答えてくれた。 
「プロ契約をした時にコーチ変更をしろって言われて、1月くらいから新しいコーチについたんだ。練習はしているけれど噛み合わない」
 アディダスと契約し、アディダス専属コーチのブラウマン氏に指導を受けている。そのチームにはノア・ライルズ、400m世界記録保持者のバンニカーク、女子400mのショーネ・ミラー・ウイボなどスター選手が多く揃う。

「チームにも上手くなじめていない」
 陸上のプロ選手、特にトップ選手は個性が強く、チームとは名ばかり、個々がぶつかりあう世界だ。チームスポーツとは異なり、新しく加入した選手を気づかったり、お世話するような雰囲気はない。
 特に五輪イヤーであれば自分のことで精一杯の選手も多いだろう。
 なかでもチームの看板選手ライルズは、練習でも試合でも自分のペース、流れにもっていくのがとてもうまい。ライルズには悪気はないが、彼は周囲を一歩引かせるような空気感を作り上げ、チームはさながら『ライルズとその仲間達』というような感じだ。
 高校や大学でスターだった選手もライルズと比べると大人しく、なんとなく遠慮がちにしているように見えた。
「レース数も足りない気がする。大学の時は室内から屋外まで40レースくらい走っていた。もちろんそれは多すぎるんだけど、今季は5レースくらいしか走っていない。これまでレースで調整したり修正してきたから、今の立ち位置も分からないんだ。友達や親に相談したり、愚痴を言ってもわかってもらえない」
 ライルズのような強烈な個性の選手といると、自分は何者でもない、ちっぽけな存在と思ってしまう。
 そんなことは絶対ないのに。
 気持ちは焦るばかりだ。
 どう言葉をかけたらいいのか、いろんな思いが頭を巡る。
「大丈夫。(五輪に)行けるよ」なんて無責任なことは言えない。「来年があるよ」も残酷すぎる。
「怪我していないでしょう。コーチに言われた練習はできているんでしょう?走れているんだからあとは気持ちだよ」
 その言葉にやっと笑顔を見せた。
「今までだってもっと大変なことあったでしょう?怪我せず走れているんだから自信持って」
 うんうん、と頷くイライジャと目が合うと、互いに笑いが込み上げてきた。二人とも同じことを思っていたのだろう。
「あなた、やりが刺さって大変だったじゃない」
「そうそう、そうだった」
 笑い事ではない事故を彼は経験している。
 イライジャは大学1年生の時に練習中にやり投げのやりが背中に刺さるという事故に見舞われている。
 やりは肺まで達した。
 手術の末に一命を取り留めたものの、傷が治るまでの痛み、傷跡の化膿、治った後も息を吸うことすら苦しい日々が続いた。
 一時は陸上やスポーツを諦めることも考えたが執念と努力、家族や周囲のサポートを受け、東京五輪代表の座を掴んでいる。
 こういう言い方は古いのかもしれないけれど、彼は「根性」の人だ。
「そうだった」
 トラウマ的な事故だったのであまり思い出さないようにもしていた。でもあの事故を乗り越え這い上がった自分を思い出す作業が、今は必要だった。
「自分は何者でもないとか思っちゃダメ。分かった?」
 そう言うと、にっこり笑った。
「誰かに愚痴りたくなったら連絡していい?」
「いつでも!」
 最後は笑顔でハグをして別れた。
 今日は全米五輪選考会400m準決勝。
 調わない中で走るのはつらいかもしれない。打ちのめされるかもしれない。
 でも、悔いがないレースをしてほしい。そう願っている。
 
 

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