“変”を愛する、変な人

「それっておかしいよ」

と言われたことがある。まだ仕事をする前。“それ”とは“私”のことで、詳細を言うと学校を何度も辞めて、ろくに働いたことがない私に向けられた言葉だった。

「絶対に病院で診てもらった方がいい」

その人は言った。正直言うと、病院で診てもらったことだってある。だけど、特に診断名はつかなかったし、病院でそこそこ健康なフリをできてしまうくらいの元気さはあったから、たぶん単純に自分はそこそこダメ人間なだけなんだ、と認識していた。だから「そのつもりはない」と返した。

「頭のおかしい人はみんなそう言うんだよね」

相手の中で、私は“頭がおかしい”と結論づけられた。

当時の私は自己肯定感ミニマリストだったから、「あたおか~」と受け流せる余裕はなかった。いわゆる“ちゃんとしてる人”から見たら、「まともじゃない」し「頭がおかしい」んだなとグサグサ刺さってしまった。


それまでも、自分はたぶん変なんだろうなと思っていた。人が気にならないことが気になるし、人が気になることが気にならないし。

自分が変だということ自体には悩んでなくて、でもチグハグ感で相手を困らせるのが嫌だったから、外面は“普通”でいようとした。

私の“変”に敬遠してしまう人もいるし、下手したら悪意を持って接してくる人もいるから、それに迷惑をかけてしまうこともあるから、よっぽど仲良くないと自分らしくはいられない。

だから親しくなった人には「変だよね」と親しみを込めて言われてた。「そうだよ」って返せるくらい打ち解けてたってことだ。


とはいえ、個性として受け止めていた“変”が、立派に「頭おかしい」とされてしまうとやっぱり凹む。しっかりと傷つく。そもそも自分をダメ人間だと思っていたけど、それ以下なんだぞと自覚しろと言われたみたいで。

そんな私を好意的に思ってくれている人もいて、だけど自己肯定感が最悪な私は不安になった。だからその人に聞いた。「私は頭がおかしいらしいよ」と。その人は言った。

「頭おかしい。でも、それがいいんじゃん」

目から鱗。ギョギョッ来た。あ、なんだ、そうか。それでいっか。私って頭おかしいけど、それが私じゃんってなった。人間ってちょろい。というか私ってちょろい。

この相手が詐欺師とかだったら私は今頃全財産ないね。弱っているところにつけ込まないでね。


私は、私の“変”を愛せるようになった。それは私が私ってことだ。「頭おかしい」のが最も私らしいところだ。そんな自分で生きていくのがしんどいときもあるけど、なんだかんだ生きていくのが楽しくもなっている。

それに、私の“変”なんて社会に埋もれるくらい、むしろおこがましいくらい、面白い人たちはもっともっといる。“変”は最高に褒め言葉だ。誰にもないその人らしさってことだ。

それに私が好きになる人とか仲良くなる人も、どうやら他人から「変わってるね」と言われるらしい。不思議な共通点。で、私はその「変わってる」ところがその人の好きなところだったりする。

“変”ってその人らしさだもん。すごく愛おしいものなんだよね。自分にとっても、相手にとっても。

だから私は“変”を愛する、変な人になろうと思う。


ってスタンスだからなのか、つい最近も街中で何か勧誘を受けたときに変な返し方をしたみたいで「おねーさん変ッすね!」と若いお兄さんに笑われた。「自分も変ッすから!」と返された。変レーダーは呼応し合うらしい。

他人が悪意を持って使った言葉だって、自分の味方にしちゃえば傷ついても乗り越えることはできそうだ。だから私は頭がおかしい自分で生きていく。

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