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お守りのような

2021年12月31日。書きたい。書けない。ここ最近ずっと「わからない」のだ。つい先日まで仕事だったから、目の前にはやるべきことが明確にあったし、そこに乗り切れているときは「上手くいっている」感じもしていた。けれど、本当に上手くいっているのだろうか? きっと上手くいっているのだろう。物事が進んでいく上では。

では、私の感情の上では? わからない。わからないのだ。周囲の人たちに「最近どう?」と聞かれて、上手く応えられない自分がいる。最近の私は果たしてどうなのだろうか。良い状態なのか、悪い状態なのかさえ漠然としている。

先日、友人たちと2021年の振り返りをした。振り返りシートを使って、各月の自分を思い出してゆく。断片的な風景を思い出す。断片的に言葉が出てくる。断片的に、であって、はっきりとした輪郭は出てこない。ただ、焦って安直な結論づけや安易な解釈づけなどしたくはない。このnoteでも安直なことはしたくなく、私の今をそのまま書き綴ってゆくこととする。

主体者であること

私は、私の人生の主体者なのだ、ということをはっきり自覚させられる出来事に直面することが多い1年であった。言葉にしてみれば、当たり前のことなのだ。私自身が私の人生の主体者であることは。しかしながら、日常の中では主体者であることについて無意識・無自覚であることが多い。
どうしても、周りの空気に合わせてしまう。「このひとはこんなふうに思っているだろう」とか「こういうふうに振る舞った方がいいのだろうな」というのを、勝手に予測変換して、勝手に身体が動いてしまっている。
社会で生きていく上では大切な要素であって、だから私の中で身についてしまっているのだろう。空気を読んで、相手の望んでいることを把握して、先回りして、動く。いい子。できる子。無難な子。しかし、時にそれは私を苦しめる。この薄っぺらい笑顔を辞めてしまいたくなる。

そんなとき、かつての友人と会った。仲の良かった、男ともだち。彼は私に対して軽率な言葉で口説いた。それがとても不快だった。軽んじられている。好意を持たれること自体は嬉しいけれど、使う言葉や態度、軽んじて見られていることがとてつもなく嫌だった。不快であることをそれとなく伝えた。軽く流されてしまった。私の中でプツンと切れた音がした。「ああ、もうこのひととは縁が切れてしまうなあ」と、静かに思った。自分の中で静かに縁を切った。主体者として縁を切る自分を客観的に見た。

自分の尊厳を守りたい。自分を大切にしたい。だから、傷つけてくる人とは距離を取る。行動として、それがやっとできるようになった年であった。

数年前、私は傷つけられることが日常的であった。顔や体型についていじってきたり文句を言ってくる人がよくいた。私の人生について過干渉な人もよくいた。どうして私はあの環境に耐えられたのだろう。あの我慢はする必要のないものだった。実際問題、あのとき傷つけてきた人の9割はもう私の人生に関わりがない。フェードアウトしていった。

2021年の振り返り会でこのエピソードを話すと、友人は「主権回復だね」と言った。そう、主権回復なのだ。主権はこの手にある。自分の人生を誰かに委ねない。自分自身を大切にしたい。

1人でいること

傷つけてくる人や過干渉な人がいても、私がその場からかつて離れられなかったのは、だぶん、1人になることが恐かったのだ。物理的な1人ではなく、精神的な1人。

大学の講義とか、映画とか、1人旅とか、物理的な1人は好んでよくする。でも、精神的な1人は恐い。だからついつい、空気に合わせてしまったり、へらへら笑って流してしまっていたのだろう。

「孤独」というものについて、よく考えた1年でもあった。孤独に関する小説、エッセイ、コラム等を多く読んだし、私自身も何度か孤独に関するエッセイを書いた。

人というのは一体何て複雑で奇妙でオリジナルで孤独なものだろう、と思う。ここまでオリジナルでなければ、これほど孤独にならずにすむのに、と思い、でもだからこそ「世界はときどき美しい」のだし、世界がときどき美しいからこそ、人は孤独でも生きていかれるのだ、と思う。
江國香織『泣かない子供』
どうしてみんなこれほどまで孤独にならなくてはならないのだろう。ぼくはそう思った。どうしてそんなに孤独になる必要があるのだ。これだけ多くの人々がこの世界に生きていて、それぞれに他者の中になにかを求めあっていて、なのになぜ我々はここまで孤絶しなくてはならないのだ。何のために?この惑星は人々の寂寥を滋養として回転をつづけているのか。
村上春樹『スプートニクの恋人』

上記のしいたけ占いさんの「孤独はどこまで必要なのか」という記事で、

「自分にあった時間の処理の時間」が長ければ長いほど、実は詩人に向くんじゃないかと僕は勝手に思っているのです。ここで「詩人」という言葉を使ったのは、詩人というのは、外にあった物事、そして、世界に起きた出来事、自分の中に湧いた感情を、自分の言葉や感覚にするまで醸成させ、それを自己表現に使う人のことを言っています。

という言葉で救われたというか。今、このnoteを書いている時間もまさに、「自分にあった時間の処理の時間」であるな、と思う。

他者と分かち合いたいけれども、安易に「わかる」とも言われたくない。消費的なものとして落とし込みたくはない。わからないものを、わからないままに持って、書く。今この時間こそ私にとって必要な時間だったのかもしれない。

気づけば、精神的な1人が心地よく感じられることも増えた。
といっても、人間なので、分かり合えないことが続くときはやはりきつい。共感しながら生きていきたい自分も、分かち合いながら生きていきたい自分も、揺るぎなくあって、他者を必要としている。

けれども、1人になることを恐れて、迎合したり忖度したりはしたくない。傷つくことを言われたときに、ちゃんと、「そんなふうに言われるのは嫌だ」と、主張できる自分が存在している。嬉しい。

上記のかしえりさんの記事で、

「私には、私がいるから平気よ」
このシーンのこのセリフがすごく好きだと思った。あぁ…私はずっとこの感覚がほしかったんだな。だってさ、例えば何かで失敗したとしても、好きな人に選ばれなかったとしても、誰かに裏切られたとしても、上手く生きられなくても、自分が自分の最大の味方であり続ければ人生最強じゃないですか?

という言葉が心の中のお守りになっている。
自分の意見を言うとき、自分の気持ちを伝えるとき、1人であることをまざまざと実感させられて恐い。けれど、自分という味方を持てたとき、大丈夫な心持ちがしたのだ。

孤独だけれども、私には私がいるから大丈夫。私は私のために、お守りになるような文章を書きたいと思った。落ち込んだとき、泣きたくなったとき、読み返したくなるような、お守りのような。

頭では理解しているけれど

頭では理解しているけれど、気持ちが追いついていないことが多い1年でもあった。私の26歳の抱負としてあげたものは、①正しく傷付く、②他者に期待しない、③受け入れる、だった。

鴨川で自分を見つめて、決めた抱負。

特に頑張りたいと思っていたのは、「他者に期待しない」ということ。他者に期待してしまうから、それが外れたとき、哀しい気持ちになる。人は基本的に変わらないのだから、期待せず、自分で動く。

頭ではわかっている。でも、無意識に期待をしてしまっている。そういう、頭と感情が乖離していることが多々あって、だから私はまだ戸惑っている。大人になりきれない。表面上は解決できても、私の気持ちが解決されなくて、気持ちが置いてきぼりになっている。

「相手には期待していない。その上で、自分の主張を伝えた。終わり。」

…にはならない。終わらない。終われない。感情を何処へ持っていけば良いのかわからなくなってしまう。かといって、この感情をなおざりにはしたくない。感受性は、私のアイデンティティと深く関わっていて、簡単に手放せるものでもない。どうしたら良いかわからない。

そんなふうに、「わからない」まま2022年を迎えようとしている。それはそれで良い気がする。今なお、わからないままにこのnoteを書いているし、そういったグラデーションでもっている自分を受け入れたい。

白黒はっきりした答えを出さないし善悪を決めつけない。問うて熟考する。白黒はっきりつけられない物事が世の中にはたくさんあるということを、見つめていたのも2021年だったと思う。

何かを渡すために人に出会う

いろんな変動が大きかった1年で、ネガティヴなことがどうしても目立ってしまうけれど、素敵な人たちとの出会いもあって、その事実は、私の中で絶対的に大切にしたい宝物だ。

例えば、2021年の振り返りを一緒にした友人。彼女の書く日記が好きで、私は彼女のnoteを読むことを日常にしている。1日1日を流さずに意味づけできることの強さ、彼女の感受性や表現は、彼女の魅力のひとつだと思う。

たまに自分が登場するのも嬉しい。私自身が、「ちゃんと自分の主張を伝えよう」と思えるようになってきたのも、彼女の影響によるところが大きい。

それから、出会った生徒たち。

あおいちゃんの授業は、遊園地に行くみたいで楽しかった。日本史の授業がある日をいつも心待ちにしていた。出会えて良かった。ありがとう。

と、伝えてくれた生徒がいた。私は教員として好きな科目の授業ができたこと、伝わっている子がいたこと、その事実は私の宝物だ。教員をやってよかった。あなたに出会えて良かった。

この宝物を、誰にも壊されたくない。
2021年に出会えた、人たち。その人たちから受け取った影響。言葉。私の中にある、かけがえのないものだ。

そんなとき、思い浮かべるのは、またまた、しいたけ占いさんの言葉たち。

「人が人に出会う意味」について。

出会いって、すごくよくわかんないものです。「なんでこの人と出会ったのか? 」とか「なんでこの人と時間を共にするのか」とか。そういう「出会い」という奇跡が、ただ「ここが合わなかった」とか「いつの間かすれ違ってしまって結果として最悪だった」とか、そういう「結論」だけに出会いの意味を集約させるのは何か違うといつも思ってきました。そうじゃなくて、その出会いから贈られたものは何かあるんじゃないか?
出会いにおいて傷が残っている人は
・この人が何を私に渡そうとしたのかわからなかった
・この人が渡してくれようとしたものを私は上手く取り扱うことができなかった
そういう傷はいつまでも残ります。でも、その人から渡されたものはその人で完成させる必要はなく、続いて持ち続けるために渡される。ある人が作った歌はそこで完成・完結させることが目的なのではなく、その歌を聞き、その歌を受け取った人がまた自分なりの歌を作っていく。

2021年は嵐のような1年だった。

出会えて良かった、と思える人たちが多くいてありがたいが、「なぜ出会ったのだろう」とわからないままになっている人もいて、心につっかえている。友人や生徒のように受け取れたものもあれば、受け取れきれなかった人・ものもある。あの人は、私に何を渡したかったのだろう、とふいに思う。

2021年にできた傷はまだまだ癒えていないし、解釈づけも完成していない。でも、完成しないままで良くて、2022年に引き続き作ってゆきたい。

何かを渡すために、あるいは渡されるために、私は人に出会ってきた。安易に言いたくはないけれど、そうであると信じたい。

未だ解釈はできない

ここまで来てしまった。「わからない」まま、来てしまった。今日の昼下がり、積読のままになっていた村上春樹に手をつけた。

音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。(中略)…きちんとステップを踏んで踊り続けるんだよ。そして固まってしまったものを少しずつでもいいからほぐしていくんだよ。まだ手遅れになっていないものもあるはずだ。使えるものは全部使うんだよ。ベストを尽くすんだよ。怖がることは何もない。あんたはたしかに疲れている。疲れて、脅えている。誰にでもそういう時がある。何もかもが間違っているように感じられるんだ。だから足が停まってしまう。
村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』

きちんとステップを踏んで踊り続けるかの如く、きちんとステップを踏んで考え続けていたい。わからないものを、このまま大切にもって新たな年を迎えたい。

さあ、もうすぐ2022年がやってくる。2021年を生き抜いた。偉い。ほんとうにおつかれさまでした。ご自愛しましょう、あなたも私も。

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