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1月前半の日記

2022年1月1日(土)ゆく年くる年

年越しをゲストハウスで友人たちと過ごす。2022年が顔を出す。年越しすぐに熊野神社と平安神宮を詣でる。平安神宮はかつての研究対象であった桓武天皇が祀られている神社のため、特別な存在だ。平安京遷都への感謝と2022年の幸福の願いを、心の中で伝える。桓武天皇、よろしくお願いします。

夜中から明け方にかけて、友人たちが楽しそうに酔っていて、いいなあと思う。ふだん、肩に力が入りすぎているのかも、と思う。肩の力を抜いて、楽しく飲めるのいいなあ。友人たちが外交ネタを取り入れながら、お酒やタバコの取り合い交渉を始めた。国際情勢に関するアカデミックな内容がふんだんに盛り込まれていて面白い。友人たちの様子を眺めながら、日米中関係について考える。相手に飲み込まれないようにするのって大事だな。

LINEを覗くと、新年の挨拶と2021年12月31日に書いた振り返りnoteの感想が何件か来ている。ありがたい。

「才能あると思うよ。」「私はあおいちゃんの書く文章が好きです。あおいちゃんの考えに尊敬します。」という言葉に思わずにやけてしまう。友人だけでなく、前の職場の先生や元生徒からもこういった言葉がもらえるのは、ほんとうに嬉しい。過去だけでなく今現在も関われていること、誰かの糧になっていることへの喜び。お守りのような文章を書きたい。書いて良かった。

2022年1月2日(日)再会

年末年始を一緒に過ごした友人と別れ、自宅に戻る。テレビをつけると、2008年大河ドラマ「篤姫」の再放送がやっていた。私が小学6年生のときにやっていた大河ドラマで、当時心動かされた場面がちょうど放送されていた。江戸城無血開城の後、大奥を離れた天璋院篤姫が、かつての友人である薩摩藩の小松帯刀に再会するシーン。篤姫が「大奥を閉じてから、どんどん人がいなくなってゆくのです。」と哀しげに弱音を吐くと、小松帯刀が

「人はいなくなるのではなく、また会うときの楽しみのために一時離れ離れになるだけのことです」

と答える。小6当時、私はこの言葉に無常的な切なさを感じ、号泣していた。でも現在の私は、この言葉をポジティヴに受け止められる。縁があれば、またいつか会える。私がまた、大好きだった篤姫のシーンに13年ぶりに再会できたように。

2022年1月3日(月)他者との距離

年賀状の返事を書く。手書きで文字のやりとりができることは、なんだか嬉しい。言葉が、目の前にちゃんと留まっている感じがする。

昼下がり、積読のままになっていた最果タヒさんの『神様の友達の友達の友達はぼく』を読む。読み進めると、「あれ、読んだことあるな」と既視感のある文章にたどりつく。昨年の早稲田大学国際教養学部の入試で出題されていた文章だった。入試問題を解くことが趣味のひとつである私は、昨年さまざまな大学の入試問題を解いたが、その中でも格別印象に残った文章であった。

人がいる、ということに、もはや感動してしまう。…(物語には普段では)聞けない言葉ばかりある。スーパーや駅とかじゃ聞けない言葉。もちろん台詞だとかも好きだけど、漫画でいうと「モノローグ」として現れる言葉には、興奮を超え戸惑いがある。人の心情の吐露を読めるというこの異常事態よ。
心の壁を壊すためにあえて失礼に振る舞うひとというのがこの世で最も苦手で、それは、わたしの持っているコミュニケーション術が「礼儀」くらいしかないからなのかなあと思う。…丁寧でいること、他人行儀でいることを、否定しないでほしい。心の壁をぶち壊すメゾットとか、わたしには時々暴力に思える。わたしの心の壁は、わたしのものです。あなたにぶち壊す権利はないと、静かに言える強さが欲しいわ。
最果タヒ「人間のいる場所」『神様の友達の友達の友達はぼく』

私はたまに、他者との距離が分からなくなる。近いようで遠い。どれだけ仲が良くても、心情を互いにずっと理解しあえるわけではない。
その点、「物語」は人の心情が見えるからすごい。(そもそも人間の心情というのは一貫しているものではないけれど、それでも心情を垣間見れることに感動してしまう。)

だからたぶん同じ論理で、私は古典も好きなのだ。「宮廷で仕えるって華やかそうに見えるかもしれないけど、そんなことないのに…」とネガティヴに考える紫式部や、「京都に行きたい!」とはしゃいで仏まで彫ってしまう菅原孝標女を見ることができる。現代に生きている他者よりも、よっぽど彼女たちの方が近く感じられる気がするのだ。

かといって、失礼な感じで急に心に踏み込んでくる人は、私は苦手だ。傷つかないように壁を作ることを、ゆるしてほしい。

と、最近、人と関わることがわからなくなる。仲良くなりたい、心情を知りたい。けれど、傷つきたくはない。不器用な自分に笑ってしまうな。

2022年1月4日(火)朝は灰色

仕事始め。気持ちをオフからオンに切り替えるには結構な気合いが必要。ベットに沈みこむ身体を無理やり起こす。低血圧。 

朝は灰色。いつもいつも同じ。一ばん虚無だ。朝の寝床の中で、私はいつも厭世的だ。いやになる。いろいろ醜い後悔ばっかり、いちどに、どっとかたまって胸をふさぎ、身悶えしちゃう。朝は、意地悪。
太宰治『女生徒』

みたいな気持ち。太宰治の言葉、その通り。寝起きは、厭世的になってしまう。

仕事が始まってしまえば、波に乗れる。進んでゆく。
仕事へ行くと、読んでくれているとは思ってもみなかった友人から「note読んだよ。文章読みやすい。」と褒めてもらえていい気分になる。身近な人に見守ってもらえていることの安心感。ありがとう。読んだよ、の言葉が何よりの励みになるから、また直接伝えてもらえると嬉しいな。

会社の代表に「目元、なにか変わった?」と聞かれる。昨日、仕事の気合いを入れるためにまつげパーマをしたのだった。まつパやネイルや香水の変化にいつも気づく代表、畏るべし。

久しぶりに授業をする。
ある中3受験生のテンポの良い授業がたのしい。今日は彼の国語と数学を担当。入試問題を一緒にクリアしてゆく感覚。「疲れたわ〜」と言いながらも、清々しい顔をしている彼を見ると嬉しくなる。できなかったことができるようになることは、気持ちの良いことなのだ。

一方で、「年末年始、親と喧嘩した」と打ち明けてくれる生徒。未だもやもやが残っているそうで、思っていることが親に伝わらないそう。1時間ほど彼女の話を聞いたが、まだまだ話し足りないくらいだった。
家族って難しい、伝えるって難しいよなあ、と思う。いくら家族でも他者なのだから、完全に分かり合えるわけではない。だから言葉によるコミュニケーションが必要なわけだけれども、そもそも思っていることを正しく言語化することさえも難しい。結果、彼女は言語以外の表現方法で思いを伝えようとしているんだろうな、とも。分かり合いたい、って思う、それだけなのにね。

2022年1月5日(水)背伸び

朝起きて、年始に再放送をしていた2004年大河ドラマ「新撰組!」の総集編を見ながら身支度する。年末年始の良いところのひとつは、時代劇に関する放送が多いことだ。Twitterを覗くと、大学時代に同じ学部専攻(文学部日本史学専攻)だった友人が、同じく「新撰組!」についてたくさん呟いている。さすが日本史学専攻。思わず「私も見てるよ〜」とリプライする。

2004年といえば私は当時9歳で、歴史について詳しく知らなかったけれど、大河ドラマを見る父の横で私も視聴していて、知らないなりに楽しんでいた。幕末の流れや対立構造もわからないまま、「近藤勇や土方歳三かっこいいなあ」と思っていた頃だ。見ているうちに、使われている用語や人物・歴史背景など、どんどん知りたくなってゆき、気づけば自分で調べるようになっていった。

友人が小学校低学年向けにワークショップを企画している。昨日、友人が歴史のワークショップを考えながら「小学生が歴史の流れを理解するのって結構難しいと思うから、どんな形にしようか悩む」と話していた。
確かに難しそう、と思いつつ、私は背伸びしながら学んでいったな、と新撰組の件を思い浮かべた。完全に理解しなくても良い、歴史的意義はまだわからなくても良い。わからないまま背伸びしながら、得ていくものもあるのではないか。

思えば私はさまざまなことに関して、背伸びをしながら(居心地の悪さを抱くことは多々ありながらも)、進んできたように思う。最近は、居心地の良さを求めて背伸びをすることはほとんどなくなってしまったが、たまにはまた、背伸びをしてみるのも悪くないかもな、なんて思った。あの頃の傍若無人さは、もう持ち合わせてはいないけれど。

2022年1月6日(木)落下する夕方

子供のころ自転車に乗っていて、ころぶ数秒前には不思議な透明さでそれを知っていました。ああもうすぐころぶなあ。そう思って、ちゃんと、ころんだ。夕方には、なにかそういう種類の透明な冷静さがあります。つきすすんでいく格好わるい心の上空に、しずかな夕方がひろがりますように。
江國香織『落下する夕方』

今日はなんだか疲れた。頭が痛い。調子は良いはずなのだけれど、走り続けているうちにバランス崩して、足が絡まって、こけてしまいそうな感覚。

深夜に湯船に浸かりながら、『落下する夕方』のあとがきの一節が頭に浮かんだ。ああもうすぐころぶなあ。そう思って、ちゃんと、ころんだ。と。

もうすぐころんでしまいそうだな。誰か止めてくれないかな。疲れに飲み込まれてしまいそうなので、今日あった嬉しかったことを思い出して書き出してみようと思う。

①生徒のレポート課題を手伝う。日本史のレポートで、江戸の都市計画に関する内容を書きたいとのこと。彼女とアウトラインを一緒に考える。担当生徒ではないのに、頼ってもらえることが嬉しい。彼女はさまざまなことに対して頑張っていて、あの前向きさが素敵だなと思う。彼女は謙遜していたけれど、私は心から彼女のことを尊敬している。完成が楽しみ。

②先月入塾したばかりの生徒の授業。ちょっと打ち解けて話してくれるようになってきた。表情が前回と全然違う。彼の笑顔を見て嬉しくなる。長い目で見てちょっとずつ、信頼関係を築いていけたらいいなあ。

③と、こうして日記を書くことで自分自身を励ましている最中、代表からLINEがくる。「あおいちゃんの先生たちへの声かけ、すごく愛を感じて今我に返って感激している。ものすごく素敵でした。他の先生たちへの声かけやフォローアップ、ほんとありがとうね。」と。嬉しい。嬉しすぎてそのままnoteに書いてしまった。

褒められるために動いているわけではないけれど、やはり褒められると嬉しいし、ちゃんと見てもらえていることに喜びを感じる。今感じている疲れが無駄じゃない気がしてきた。今日ちゃんと頑張った証拠だ。今日も頑張ったな自分。偉いぞ自分。

大丈夫、と自分に言い聞かせる。ころぶまえに自分で立て直そう。スピード落として、ゆっくり深呼吸して、歩こう。大丈夫。

2022年1月7日(金)誠実

人に期待しない、と言いながらしてしまう、そんな今日。桜林さんの「「人に期待しない」の正しいやり方」という記事を見つけた。

人に期待しないというのは、他人は自分の思い通りにはうごかないと知ることだ。…相手の感情や選択を先回りして思い込みで決めつけることは、相手に失礼なことだと知って、自分ができることは「自分のことをちゃんと出す」ことだけだと思う。自分が正直に出したものに対して不誠実な対応が返ってきたら、そのときは完全に相手のせいにすればいいし、相性が悪いとわかってよかったと思う。「人に期待しない」ということは「相手を大事にする」ことで、そうすると自分が自分にウソをつかずに誠実に出すことだけが大事になり、結果的に「自分を大事にする」ことにつながるのだと思っている。

他人は自分の思い通りには動かない。と、言葉にしてしまえば当たり前で、「自分の思う通り」なんて傲慢な、と思うけれど、実際「期待している」とは、そういうことなのかもしれないな、と思う。

今できることは、自分が自分に誠実にいることだ。自分自身に対して誤魔化さず、感性に感情に、誠実で在りたいと思う。それでいて、不誠実な対応が返ってきたら、その人とは距離を取ろう。無理して傷つきにいかなくていい。

年末、新年が寅年ということから、虎の絵を描くという場面があった。絵よりも真っ先に頭に思い浮かんだのは、中島敦の『山月記』の一節だった。

臆病な自尊心と尊大な羞恥心の所為である
中島敦『山月記』

私は心に虎を飼っている。もうずっと前からだ。臆病な自尊心と尊大な羞恥心を持ち合わせている。そうである自分を認めることもまた、自分に誠実であることに繋がる気がする。虎を追い出すのではなく、飼い慣らしたい。

今日の仕事の帰り道、友人と歩きながら近況報告。話しながら、最近の自分がちゃんと心の声を大切にできていることを認識し、嬉しくなる。

飲み込まれてしまいそうになる。失ってしまう恐怖もある。それでも。自分に誠実でいたい。最近やっと、「自分を大切にすること」の本質がわかってきた気がするな。じゅうぶんすぎるほど、ご自愛しよう。心の中の虎だって可愛く思えるよ。今週もほんとうにおつかれさまでした。

2022年1月8日(土)人生のマジックアワー

映画「明け方の若者たち」を観る。原作はカツセマサヒコさんの小説で、原作を裏切らない映画だった。

東京・明大前で開かれた学生最後の退屈な飲み会。そこで出会った<彼女>に、一瞬で恋をした。下北沢のスズナリで観た舞台、高円寺で一人暮らしを始めた日、フジロックに対抗するために旅をした7月の終わり。世界が<彼女>で満たされる一方で、社会人になった<僕>は、“こんなハズじゃなかった人生”に打ちのめされていく。息の詰まる会社、夢見た未来とは異なる現実。夜明けまで飲み明かした時間と親友と彼女だけが、救いだったあの頃。でも僕は最初からわかっていた。いつか、この時間に終わりがくることを。

「こんなハズじゃなかった!って、高円寺の隅っこで酒飲んでたあの時間こそさ、実は人生のマジックアワーだったんじゃないかって、今になっておもうのよ」
当時だって仕事はきつくて、思いどおりにいかなくて、悩みだっていろいろあったのに、過ぎてしまえば自由で無責任で、美しかった時間は、あそこだけに流れていた気がする。時間はたくさんの過去を洗い流してくれるし、いろんなことを忘れさせてくれる。でも決して、巻き戻したりはしてくれない。不可逆で、残酷で、だからこそ、その瞬間が美しい。
カツセマサヒコ『明け方の若者たち』

夏の鴨川で友人と無為に時間を過ごしていたとき、あるいは先日の年越しのとき、ふと、「今まさに人生のマジックアワーなんじゃないか」と思った。友人たちと飲んで笑い合いながら、思いどおりにならない踠き葛藤するその瞬間も持ち合わせながら。人生のマジックアワー。今しかない、かけがえのないもののような気がした。

映画の中で、マカロニえんぴつの曲「ヤングアダルト」が流れた。オールした明け方の高円寺、笑い合う僕と親友と彼女。映画のシーンに歌詞がぴったりすぎるほどぴったりだった。

ハロー、絶望
こんなはずじゃなかったかい?
でもね、そんなもんなのかもしれない
僕らに足りないのはいつだって
アルコールじゃなくて愛情なんだけどな

夜を越えるための唄が死なないように
手首からもう涙が流れないように
無駄な話をしよう 飽きるまで飲もう
僕らは美しい
明日もヒトでいれるために愛を探してる
マカロニえんぴつ「ヤングアダルト」

「明け方の若者たち」も「ヤングアダルト」も深く共感してしまえるのは、20代の今だけのような気がしてしまう。刹那。胸がひりひりする。

高円寺、といえばもうひとつ。
思い出すのはたらればさんのエッセイ。何者かにならなければ、と焦って自意識だけが肥大化していた大学時代、このエッセイに救われたことが何度かあった。

一人暮らしをしたことによって、「自分に向き合う時間」が山ほど、本当に自家中毒になるほどできたからです。「いびつさ」は、近くに隠す相手がいないと加速します。簡単に言えば、孤独はバカを加速させる。それでもそんなバカさ加減に向き合わないと、はじまらない。そうおもうのです。一人きりの部屋で、一人で食事して、一人で寝起きしていると、否応なく自分と向き合うことになります。ひとつまみの「焦燥感」を抱えながら、なにひとつアウトプットしない(できない)時間を一定以上すごす。そういう時間が大切なんじゃないか。
たられば「あの高円寺のユニットバスで何もかも欲しがっていた」

何者かになりたいと焦り、何者にもなれると自意識過剰にもなり、楽しい瞬間と寂しい瞬間が交互にやってきて、孤独で、刹那で、安直で、不安で。

それをじゅうぶんに味わってきたし、今なお味わっている気がする。人生のマジックアワーなのだ。しっかりと感じよう。今しか感じられないもの、書けないものがある。

こんなはずじゃなかった、ってまた笑って飲みたい。そんな人生のひとときさえも愛おしいと思える、いい作品たちに出会えて良かった。

2022年1月9日(日)偶然の耐えられない軽さ

今日も映画デイ。2日連続で映画を観るとは、なんて贅沢なのだろう。出町座で濱口竜介監督・脚本の「偶然と想像」を観る。「偶然」をテーマに3つの物語が織りなされる。

3つの物語、どの作品も奇妙で軽やかで、それでいて奥深かった。私たちの日常には、偶然が転がっている。積み重なっている。映画では、偶然によって物語が奇妙に動いてゆく。

2つ目の物語、「扉は開けたままで」の文学部教授・瀬川の言葉が印象的だった。「あなたには才能があります。言語化できない領域でふみとどまることができる才能です」「自分だけが知っている自分の価値を抱きしめなくてはなりません」「そうして守られたものだけが、思いもよらず誰かと繋がり、励ますことがあるからです」

自分に投げかけられた言葉のような気がして、言葉を聞き逃さないように必死で頭の中でメモをした。その後の展開には驚いてしまったが、この言葉を聞くために映画を観にきたといっても過言ではないくらい、だ。

上映後、余韻に浸り、思わず映画のパンフレットを購入する。

人類は、自分たちが運命のもとに誕生したのだと考え、「想像」という技術を使って神を創造した。偶然の連鎖を剪定し、都合よく編集し、首尾一貫した理屈をつけた。そうやって、自分たちが特別であり、今ここに存在することに意味があるのだと考えてきた。この一連の作業が物語である。聖書も日本書紀も-そして、およそありとあらゆるフィクションや陰謀論も-偶然に耐えることのできなかった人類の「弱さ」による産物である。
小説家・小川哲
『偶然と想像』というタイトル、これはまさに「if=もしも」ですよね。偶然というものが起きると、そこには必ず「もしあのときそうしていなかったら」という発想が生まれます。つまり、何かが「起きた」世界と「起こらなかった」世界が共に見えてくる。偶然と想像力はどこかで繋がっているのです。
監督・濱口竜介

物語は偶然に耐えることのできなかった人類の「弱さ」による産物であること、何かが「起きた」世界と「起こらなかった」世界を想像してしまうこと。どちらも身に覚えがあって、そうだよなあ、と納得する。偶然を偶然のまま引き受ける勇気が欲しい。

そういえば、「出町座」の存在を知ったのも、偶然であった。数年前、隣の席に座っていたある人が「出町座や京都シネマで映画を観ることが好き」と言っていて、初めて京都に小さな映画館がいくつかあることを知った。それまで大きな商業施設の中の映画館しか行ったことがなかったのだが、あれから出町座に足繁く通うようになった。彼女との会話は偶然であるにもかかわらず、意味づけしようとする自分がいる。偶然の耐えられない軽さに、戸惑いを隠せないな。

話は変わり、今日から2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が始まる。本日の1話目、三谷幸喜脚本らしい幕開けであった。彼の脚本で、1年かけて北条義時の一生を追えることは、楽しみで仕方がない。

物語の出演者だけでなく、誰が監督や脚本家をつとめているかを知ることもまた、映画やドラマを楽しむ醍醐味のひとつであるな、としみじみ思う今日であった。

2022年1月11日(火)幕末の混迷の先

昨日は週の始めにもかかわらず、疲れ切ってしまった。受験生への授業にいろいろ力をいれすぎなのだろうか。自分をもう少しコントロールできるようになりたい。

今日も朝から過去の大河ドラマ「新撰組!」の録画を見て、いろいろ考える。新撰組の視点からすれば、彼らの正義があって励んでいた。にもかかわらず仕えていた幕府は朝廷の敵となり、さらには消滅してしまう。善と悪が分からない状態だったのだ。

結果的には明治新政府が維新を遂げていくわけだけれども、それは結果論であって、渦中にいる人たちには分からない。混乱の真っ只中の人たちには、正解のものさしがあるわけではない。

幕末維新期には、常識や前提条件のズレがいくつも存在する。勝てば官軍の言葉通り、勝者の側から歴史を組み直して、現実の幕末維新期の経緯にバイアスのかかった修正を施してしまうのである。それを避けるためには、当該期には何が正義かという所与の前提自体が乱立し、対立勢力同士が互いに自分こそが完全に正しいのだと思い込みながら、すれ違いと衝突をくり返す、壮大なディスコミュニケーションの状態を常に想起しておかなければならない。そして、そのために具体的には、政治思想や社会思想に注意を払い、フロイトがいうところの無意識まで意識して当時の史料をみる必要があるのである。
奈良勝司『明治維新をとらえ直す』

と、久しぶりに奈良先生の著書を手に取る。彼は大学時代の恩師で、よく研究の相談に乗っていただいた先生だ。

勝者側のバイアスのかかった修正が施されているため、新撰組は「旧体制=悪」にもなりうるが、果たしてそうと言えるのであろうか。当時、壮大なディスコミュニケーションが発生していたのだった。すれ違いや、各々の正義を、しっかり見つめなければならない。

あるいは、大学時代のイスラムの授業でも同じようなことを考えた。同じく立命館大学の先生である、末近浩太先生の授業だ。当時、過激派組織IS(イスラム国)の動きが活発であった時期である。

今のイスラム圏は、日本の幕末状態だ。異なるイデオロギーで対立している。それぞれが、それぞれの理想の形を持っている。各々の「正義」がある。日本は結果論として維新が「正義」になったけれど、イスラム圏で西洋化(近代化)することが果たして正義なのだろうか。そこにいる人たちが、これからの政治・生活のあり方を決定していくのだ。

というような内容の話をしていたのが、印象に残っている。
幕末状態。まさに善も悪もわからない。イデオロギーに正解はない。そこに生きている人々が、どんなふうな未来を生きたいのか、決めていくのだ。諸外国が変に介入するから、より混乱が起こっているのではないか。

幕末期においても、幕府側と新政府側それぞれに正義があって、どちらが正しいなどと判断はできない。事実を事実のまま、受け止めたい。

2022年1月12日(水)少年の日の思い出

中1の生徒の国語の授業をする。今日の授業内容は、ヘルマン・ヘッセの『少年の日の思い出』だ。

物語は主人公が回想する形で進む。
当時十歳だった主人公は、昆虫採集に熱中していた。裕福だったわけではなかった主人公は、採集した蝶をダンボールで自作した箱に標本を集めていた。そんな主人公の近所に住んでいたのが、エーミール少年。エーミールも昆虫採集をしているが、彼は非の打ち所がない模範少年で、かつて主人公の標本を値踏みし、そりが合わなかったことから、主人公は距離を置いていた。
ある日、エーミールが珍しい「クジャクヤママユ」を羽化させたという噂が広まった。その蝶をその目にするのを待ちきれなかった主人公は、エーミールの家に忍び込み、クジャクヤママユを持ち帰ろうとする。ポケットに押し込んだその標本は、結局バラバラになり、修復不能な状態になってしまった。主人公は家に逃げ帰った。
自らの母にそのことを告げると、母に謝罪と代償を説得される。そして、主人公はエーミールに自分のしたことを洗いざらい告白するが、エーミールは「そうか、そうか、つまり君はそんなやつなんだな。」と皮肉を呟く。主人公は弁償としておもちゃや標本をすべて譲ることを提案するが、エーミールは「結構だよ。僕は、君の集めたやつはもう知ってる。そのうえ、今日また、君が蝶をどんなに取りあつかっているか、ということを見ることができたさ。」と冷淡に拒絶した。
一度起きたことは償いのできないことを悟った主人公を、母が構わずにおいたことが救いだった。主人公は収集との決別を込めて、標本を一つ一つ、指で粉々に押し潰した。
ヘルマン・ヘッセ『少年の日の思い出』要約

授業の予習段階で、思わず読み入ってしまう。主人公が救われない、という衝撃のラスト。中1の教材にしては、なんとも残酷。
主人公視点なので、どうしてもエーミールが悪いやつのように映ってしまう。しかし、エーミールの軽蔑する物言いや謝罪されても許さない態度は、ちょっと私にも似たようなところがあるな、と思ってしまう。

エーミールにとって自分の大切なものが壊されたのだから、いくら丁寧に謝罪されたところで、許す気持ちなれないことはものすごくわかる。謝られたからといって、起こった過去は変わらない。全て許すことなどできない。
エーミールは、怒りの感情をぶつけるのではなく、子どもらしからぬ言い方で主人公を軽蔑する。「そうか、そうか、つまり君はそんなやつなんだな」と。この辺り、私自身と似ている気がしてしまった。怒りの感情を、皮肉で返してしまう。素直に、嫌だった悲しかった、と言えばいいのに。

エーミールの子供らしからぬ言い方について、ある小説で次のように解釈されていた。

「直接書かれていたわけではないんですが、エーミールの親は教師です。教師が自分の子に対して教育者のように振る舞ってしまうのは、職業病のようなものではないでしょうか。家で許されても学校で許されないことは沢山あります。エーミールの場合、家のなかでも先生と一緒に暮らしているようで、許されなかったことが沢山あったかもしれません。ちょっとした我儘や、子供らしい振る舞いなんかも」
青谷真未『読書嫌いのための図書室案内』

エーミール、私と一緒だなあ。私の両親も教師で、家で許されないこと多かった。変に大人びようとしていた。

私は主人公に嫉妬してしまう。主人公はエーミールには許されなかったけれど、傷心のあいだ、母は主人公を優しく見守っている。母は主人公に謝ることを促すが、責めたりはしない。その視線を、羨ましく思ってしまう。エーミールも、主人公を羨ましく感じていたのでないだろうか。

自分の幼い頃を、エーミールと重ねる。エーミールは、この少年の日の思い出を、大人になったらどのように思い出すのだろうか。

2022年1月14日(金)身体のSOS

朝起きたら声が出ない。そういえば、昨日ふらふらになりながら帰宅したのだった。そういえば、月曜日からずっと疲労感を感じていたのだった。わかりやすく、身体がSOSを出していた。まだ大丈夫、いける、と自分に言い聞かせて今週やってきたけれど、もう無理っぽい。

「まだ大丈夫、って思ってる時点でそれ結構限界きてますよ。でもこういうのってあとから振り返らないとわからないですよね。ああ、あのときしんどかったなあ、とか。」

と人に言われて気づく。限界だったんだなあ。小中高大とずっと皆勤だったことを自慢に思ってきたけれど、たぶん良くない。皆勤でも、身体がしんどいときは何度もあった。熱はないからと言って身体を酷使し続けてきた。

限界が来る前にちゃんと休ませてあげよう。未だ難しいけれど。自分の身体に耳を傾けたい。心も身体も健康に働きたい。今後の課題であり主義であり目標。今週もほんとうに、おつかれさまでした。

2022年1月15日(土)寝ても覚めても

今日は身体を休める一日、と決める。Netflixで映画「寝ても覚めても」を見る。以前に見た濱口竜介監督の映画「ドライブ・マイ・カー」や「偶然と想像」が非常に良かったため、他の濱口竜介監督作品も見たくなったのだ。

作品中に出てくる女の子・朝子の、恋に向こう見ずな姿に、思わず見入ってしまう。かつての恋人・麦(=非日常)と、現在の恋人・亮平(=非日常)のあいだで揺れる朝子。麦と亮平は顔は似ているが、性格はまるで違う。

復興支援のボランティアに度々向かっていたことを友人に話題に持ち出されると、朝子は「間違いでなかったことをしたかってん。その時は。」と答える姿が印象に残っている。2人の男性に揺れるあいだ、間違いではない確信を持ちたくてボランティアをしていた朝子。映画のディテールに心奪われる。絶妙すぎる。

作品中に、上記のように東日本大震災の描写が出てくる。なぜ作品中で震災が描かれたのか、という問いに、濱口竜介監督はインタビューで次のように答えている。

他者が他者であることは日常的には必ずしも意識されないけれど、その他者性が浮き上がるとき、他者として明確に現れます。結局、普段みんなどうやって生活しているかというと、そうした他者性を弱めたり隠蔽したりすることで、日常的な関係を築いているのではないでしょうか。ところが、自分でも全く予想していなかった不意打ちを食らうことで、その他者性が突然浮かび上がる。その最もわかりやすいものが「震災」だと思います。

自分が他者であり、他者こそが自分である。その他者を消すことはできない。そうすると、自分が生きるということは、「自分の中の他者と共に生きること」の一択だと思います。それが「受け入れる」ということなのか、あるいは「闘い」なのかは分かりませんが、ほかに選択肢はないと感じています。

不意に自分の中で他者性が顔を出す。ここ最近、少しずつ自分に素直に生きれるようになってきたからか、自分でも知らなかった自分に出会う。それは良い部分だけでなく、見たくないような嫌な部分も。苦しい。しかし、消すことはできない。
濱口竜介監督の描写の絶妙さに圧倒される。単純明快ではない複雑性を映画でここまで見事に表すことができるなんて。

話は変わるが、「寝ても覚めても」というタイトルによって思い浮かべた和歌がある。古今和歌集にある、小野小町の和歌。

思ひつつ 寝ればや人の 見えつらむ
夢と知りせば 覚めざらましを

思いながら眠りについたので、あの人が夢に現れたのだろうか。もし夢とわかっていたなら夢から覚めなかったろうに。と。

夢なら覚めないで。もう少し、夢見させてほしかったなあ。なんてきっと、あなたには届かないだろうけれど。

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なんの変哲もない、1月前半。
それでも振り返ってみると、考えた/起こった出来事は確かにそこにある。日記は、自分が自分であることを許していく行為だな、と思う。続けていきたい。




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