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【000】突如カフェを経営することに

4月から、カフェの経営をすることになった

2013年1月22日にオープン、当時築80年のもと畳屋さんをリノベーションした「カフェuchikawa六角堂」。
2010年に富山に移住し、夫と二人で内川さんぽをしていた時に六角形の空き家を見つけ、雷に打たれたように夫がここで「カフェをする」と言い出した。どこの馬の骨ともわからない夫の夢物語をきいてくれたもと家主さんや建築家さんや銀行さん、地域の方々の様々なサポートのおかげで何とかオープンにこぎつけ、いままで11年あまり、なんとかかんとかやってきた。

夫が代表を務める会社「グリーンノートレーベル(株)」で運営してきた六角堂。ようやく軌道に乗った頃にコロナ禍でだいぶやられ、コロナもようやく落ち着いてこれからというときに能登地震…。いつも何かある。平穏はいつもほんの一瞬な気がする。

次年度からは、私が代表を務める「(株)ワールドリー・デザイン」で経営をすることになった。今までずっと、夫を横目に、周囲からカフェを賑やかす立場ではあったが、まさか経営することになるとは夢にも思わなかった。経営するに至った経緯は、なかなかの文字数が必要なので、少しずつお伝えしていけたらと思っている。


オープン当初からデザインや利用者として、つかず離れず

カフェオープン当初から、ロゴを始めWEBやメニューなどのデザインは弊社でやっている。当時はワールドリー・デザインもたった一人の会社だったので、実質デザインも私ひとりでしていたが、今はスタッフも増え、オリジナル商品やPRに関しても複数の手でサポートできるようになってきた。

一利用者としてもハードユーザーだという自認がある。もともと、化学物質過敏症の夫が安心して食べられるものしかおかないというのがお店のコンセプトのひとつでもあるため、六角堂のサンドウイッチやピザが食卓にのぼる日は少なくない。メニューや材料についてもかなり詳しい。「もっとこうなるといいのに六角堂…」「ここが残念だな六角堂…」というユーザー視点で思うことも日々無数にある。だから、それらも少しずつ改善していきたいと思っている。

11年あまり、経営を傍目で見てきた

今、私がいちばん感じているのは「ド素人からはじめたカフェ経営を傍で見る」という罰ゲーム的な隔靴掻痒の11年が終わることの清々しさだ。そして今まで他人事だったそれらが自分ごとになるというこの上なく重たい、どろりとした不安も同時に被っている。どろりとしすぎて息ができないほどに…。

夫が経営してきたカフェだから、つかず離れずいろんな事情を見てきたし、たくさんの恩恵も、数々のとばっちりも受けてきたと思う。カフェ経営などしたことのなかった夫にとって、オープンまでの道はかなりのイバラ生い茂る悪路だった。脇でいつもヒヤヒヤ、ハラハラしていた。「そんな住宅地にカフェつくって人は来るのか」「まずつぶれると思う」「価格を安くしないと客はこない」など、善意を纏って通りすがりの人々に好き勝手なアドバイスをボコボコに受けてきて、オープン前から満身創痍の夫。やることが膨大で食事もままならなかった彼は、オープン直前まで10キロ以上痩せた。富山に移住したばかりの頃は合羽橋にある河童太郎のような体形だったのに…。

でもなんとかオープンにこぎつけられてよかった…と思った矢先、さらに想定外のことが次々起きた。これはまた少しずつお伝えしていきたいと思うが、お店を約束通りの時間に開けてお客様をお迎えすることが、どれだけ大変なことであるか、さらに、満足して帰っていただくということがどれだけ尊いことであるか、ということを、夫の横でつくづく感じてきた。

わからないことがわからない。やってみないとわからない。…夫は毎日祈るように過ごし、何かあればお店に飛んでいってフォローしていた。コンセプトや内装、経営責任のすべては夫にあったし、犬並みの嗅覚と味覚で提供メニューのクオリティに厳しく目鼻舌を光らせていた。しかし、料理はつくれないし、おいしいコーヒーは淹れられないし、接客もままならない。

きれいごとだけではうごかない

コンセプトづくりとクオリティチェック、人事などは経営者の大事な役割だ。しかし、ここは地方の小さなカフェである。きれいごとやルールだけ確認して回っていく現場なんてひとつもないと思う。あるのは日々の地道なマネジメント。…スタッフの事情などで急に人手が足りなくなったときに、フットワーク軽く現場のフォローに入れる経営者のほうが、どれだけか気楽なんじゃないだろうか。そう常々思っていた私は、夫からカフェ経営を譲り受ける(ちゃんと会社間で売買してます)にあたり、まずは現場に入って、実際にどうなっているのかを見て、知って、少しでも改善するという手段をとることにした。

昨年11月から現場に入ってみて思うこと

つかず離れずカフェを見てきた&使ってきた者として、改善点などはすかさずいろいろ指摘したくなる。全部いい風に変えたい。…しかし、カフェ経営者としてまずしなければならないのは、今まで支持してくださっているお客様が、六角堂の何を気に入ってくださっているか?ということをしっかり知ることだと思った。そして、それを守っていくことも大事。

昨年11月から、現場(主にホール)に入るようになって、今まで知らなかったことが山ほどあることに驚いた。11年は短いようで長い。お店を走らせていくために、可視化・言語化されていないこともめちゃめちゃあることに愕然とした。

特段、観光地でもない内川という場所で、11年間続いてきたカフェの大切なところって何だろう? 私が知らなくてはいけないこと、やらなくてはいけないことは膨大だ。そして、今の私にはそれらのほとんどが初めてやることばかり。でも、初めてだから気づけることもある。今までの六角堂で、しれっと当たり前にやってきていることが、何だったのかを考えるには、とてもよい機会だと思うのだ。

そこでいろいろなことを整理したいと思い、「おぼゑがき」として残すことにした。ここには、今まで六角堂が大切にしてきたものを、初心の塊である私が、少しずつ確認して書き留め(覚書き)ながら、それをしっかり守ったり、磨いたり、ときには断腸の思いでやめたりする、未来への方針を描く(絵描く)場にしたい。「ゑ」は「恵」という文字の変形かなであり「絵」のかなも昔はこちらだった。漁師町・内川の人々が崇敬する恵比須様も、かなでは「ゑびす」様になる。

カフェuchikawa六角堂リニューアルに向けての殴り書き(一部)

内川、注目されてきた感があるからこそ

六角堂ができてから(釘を指しておくができ「た」から…ではない)、内川周辺は新しいお店がずいぶん増えた。移住してきてくれる方も、もともと地元だった方も、内川に何か魅力を感じて、さらにステキな場所をつくってくださっている。念願の内川に居を構えることができ、終の棲家もここに決めた私にとっては、新たな場所や取り組みが増えていくのは心からありがたく嬉しいことだ。

しかし、この内川周辺が、地方の小さな市にある、過疎や高齢化が進むエリアであることは依然として変わらない。空き家率は上がる一方だし、大好きな町並みが年々崩れていくことに、心がチクチクと痛む。好きな場所だから。

内川に新たに出店されてきた方々と話す機会があると、みなさんすごく努力していらっしゃるのが伝わってくる。私もがんばらないと!と思う。私が守れる場所はそんなに広くも多くもないけれど、でも、ひとつひとつをピッカピカに磨いて、ステキにしていきたい。もうどんなに小さくてもよいから、自分ができる工夫と努力を、心をこめて力の限りやりたい。そう思っている。

肩書が人をつくる。実が伴うのはだいぶ経ってからだけど

社長にも、デザイナーにも、カフェ店長にも、名刺にそう書いてしまえば、明日からそれになることができる。…でも、実が伴うのはずっと後だ。デザイン事務所の社長だなと実感できたのは、たぶん起業して5年目くらいだったと思う。私は「いちおう」4月からカフェのオーナーになるが、実が伴うにはきっと何年もかかると思う。そんな状態で経営をするのは、世間に対して漠然と申し訳なさを感じてしまう。でも、カフェスタッフの多くが以前から六角堂を支えてきてくれたメンバーなので、彼・彼女らにいろんなことを聞きながら、よりよい店づくりができたらと思っている。

…なんか、だらだらとごめんなさい。そんなこんなで、真のオーナーになるための心身の準備と環境整備に、お付き合いいただけたら幸いです。11年目の六角堂の新しいスタート、どうぞ応援してください!

そして、毎度、今の気分にあった本の一説を引用していきたいと思います。お楽しみに!(…そんな稀有な方がいらっしゃるかはナゾ)

 生活というのはたくさんの面を持っている。いつも、回っている洗濯機の中みたいにぐちゃぐちゃだ。僕の理想や願い、やらなきゃいけないこと、勝手に起こること、土地の変化、そういうもの全てが混ざり合って日々に詰まっている。しかもそれ全体が方向性もなく毎年のように姿を変えて、その中心にいる自分自身もどんどん変化していく。
 自分も、自分がやる生活も、それをとりまく環境も、すべてがいつも不安定で得体のしれないものだ。「この街が一番好き」という気持ちが生まれたところで、今の自分・今の生活・今いる土地が偶然嚙み合っているだけかもしれない。偶然の瞬間的な一致なんてすぐにズレてしまって、なんでもないものになってしまうんじゃないか…と思う。(中略)
 でもそんな気持ちが「街」について考える出発点になって、わずかだけど分かったこともある。たとえば僕は、弱い人にやさしい街がとても好きだ。自分が強い時、何不自由なく健康な時にこそ、そう思う。「この街では失敗しても立ち直れる」「多少何か起こっても大丈夫」というような安心感のおかげで、大胆な休暇や挑戦や遊びに自分を投げ込むことができる。(中略)
 特に産業革命以降、何かを経営する人たちは、動かせる資産の多さや稼ぐ効率の良さ、市場独占力の強さや法律との駆け引きなど、激しい競争を命がけでやってきた。いつしか普通に働く人たちも、自分たちの人材としての市場価値を競争させ、高い稼ぎを目指す人が増えた。それでも弱肉強食のルールを望まない人たちの生き方が守られていたり、すべての人にフェアな世の中であろうとする社会が自分は好きなのだと思う。そういう街は「損得や競争は重要であると同時に、人間社会のほんの一部でしかない」ときちんと表明してくれている。何かが過剰にすべてを支配することを許さず、リアルに世界の複雑さや有機性を示してくれる。 (中略)
 人の生活が物質的・精神的に豊かで幸福なものを目指しているだけで、別の経路でそこにたどり着けるなら、何だって良いのだ。

ベルリンうわの空(香山哲)あとがき より

(初回から長い引用…)


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