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恩師の最終講義にいってきた

先週末大学時代の恩師の最終講義を聴講しに金沢へ行ってきました。

卒業してから10年ほどですが、金沢の街並みも大きく変化してしまいました。ホテルが乱立し、オシャレなカフェやお土産屋が増えたと感じます。

2時間ほどの講義でしたが、自分の人生で学んできたことや転機、大学で教鞭をとる経緯や、それから関わってきた都市計画やコミュニティ形成にかかわる大小様々なプロジェクトのことを話していました。

日本ではモダニズム、アテネ憲章に沿って歩車分離の合理的な都市計画が進められる中、教授はヨーロッパで、アテネ憲章への拒絶としてむしろ提唱されたアーバン・デザインである歩車融合・職住近接・用途混合のコミュニティ形成を考慮した都市計画を学び日本に広めようとしてきたようです。

学生時代はあまり多くのことを語らなかったので、教授の人生がはじめてどういうものだったのかが垣間見えた瞬間でした。

講義のはじめには、私の専攻ができてから今までの25年分の名簿を片手に1期生と25期生の出欠をとるなどユニークな演出があり、学術的内容もありながら漫談のようなとても面白い時間でした。

いつか「日本の建築をぶっ壊すという気持ちでドイツから帰ってきたのに気がつけばこんな大学の片隅に落ち着いてしまった。」という話をしていましたが、その経緯がなんとなくわかった気がします。

また「多様性を認める社会を動かしていくのは相当な熱量が必要」と語っていたように、さまざまな価値観や目的が入り乱れるコミュニティの中で何かを成し遂げるのは非常に困難を伴うことを指摘していました。おそらくこれからの日本もそういった煩わしさを受け入れなければならなくなるでしょう。

教授が質問のときに「これから何をしたいですか?」と聞かれた時に、「都心居住を提唱しているのに郊外に住んでるし、建築家と言いながら中古物件に住んでいるのでそこをどうにかしたい。」と言っていたのは笑えました。

「私の話など誰も聞きたくないだろう」といって最終講義の開催を渋っていていたそうですが、いざ開催すると100人くらいとたくさんの卒業生が詰めかけていました。

その後の懇親会で同期全員からの祝いの花束をわたしました。教授にはあまり好かれてなかったと思っていましたが、しっかり私の名前を覚えていてくれました。

とにかく「人に歴史あり」を感じた瞬間でありました。私も歳をとった時に自分が何を考え何をしてきたのか言えるような人生にしていきたいと改めて思うところであります。

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