神でなく人にこそ
太陽の下では癒されない傷を、夜の闇なら包み込むなんてまやかしだ。すべてを白く染めて隠してしまう雪と同じく、闇はその黒の中に傷を隠すにすぎない。
視界から隠れ、自らでさえ見えなくなっても、痛みは鋭く、時に鈍く神経を伝う。そこになおも痛みの元凶が居座ることを愚直なまでに主張する。
闇の中に誰かがいること。だから不安。
あるいは誰もいないこと。だから不安。
頼りとなる人が寄り添うこと。だから安心。
自分という人一人であること。だから安心。
夜闇は結局、単なる引き立て役にすぎない。演出効果と言ってもいい。傷を癒すのは自分か、あるいは他者か。いずれにしろ、人は人であることをやめられない。自分または他者という人にしか救いを求められない。救いの神の姿はヒトガタで、畏怖の対象としてのカミが異形であることが多いのもきっとそのせいだ。
4月の最後の夜から、5月の最初の朝にかけて。魔女は異形のものたちと、夜どおし祭りを開くという。枯れ木を集めて火に焚べて、ヒミツのはなしを続けるそうな。闇の中に潜むのではなく、個々にひとりで黙るでもなく、灯りを灯して語り合う。今やこの街では年中無休で Walpurgisnacht が開催されている。
陽の下では明るすぎる。真っ当すぎて耐えがたい。夜闇の影を借りながら、小さな灯りを寄せ合いながら、人を感じながら時を過ごす。
自分の弱さや醜さや汚らしさを、か細い灯りの下でなら、そっと掌を開いて覗けるから。悔やみ怒りながら慈しむことができるから。誰かの届けてくれた優しさを、素直に受け取ることができるから。
夜の闇と小さな灯りが、今夜も人に時間をくれる。
昼間の何かを悔いたり、解決しない問題に悩んだり、今さらどうもしがたいことに身悶えしたり。そして朝が来れば素知らぬ顔で、また人の波に飛び込んでいけるだけの太々しさを取り戻す。そのための猶予時間を。
だから人は夜闇を畏れ、愛してやまないのだと思う。
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