揺蕩う、美

最近、フランケシュタインを見たこともあり、「美とは何ぞや」とか「フィクションとは」と悶々と考えているところに脱輪さんのこの記事が目に飛び込んできた。
読後、なんだか凄すぎて、それで煙に巻かれたようで思わず笑みがこぼれてしまった。

この一節が特にお気に入りだ。

“しかし、われわれはぜひとも「わからない」というゼロの地点から語りを起こしてみたいのです。”

わたしたちはなぜフィクションと仲良くできるのか? 〜(『美男美女映画対談』のための事前アナウンス)〜)

私に哲学の素地がないため(なぜかカントの本だけある)、これはドゥールズ的ですね、ここはデリダ的だ、美について〇〇はこう言った、みたいなバチバチに光る論評を書ければ良かったのだけれど、自分の脳から出力された言葉は「ほぇー」であり、「ほぇー」の後に続くのは「美男美女を語るためにここまで言葉を尽くす必要があって、そうしないと納得してもらえない、ともすればヒンシュク(≒炎上)をかってしまうのだなぁ」ということを思った。
最近「ルッキズム」という言葉を随所で見かけて、なるほど赤の他人に「君はブサイクだね」というのは良くないと、そういうのはわかるが「君は綺麗だ、かっこいい」とも言ってはいけないということが未だに良くわからなくて、また「美しい」という表現を迂闊にできなくなった気がする。
中世の絵画や平安時代の絵巻物を見るに「美」の変容は明らかで、今「美しい」とされている人やものも、何千年後かには変わっているのかもしれない。

じゃあ「美」とは誰が決めるのか、整形は無くならないしアイドルは美男美女ばかりだしバーチャルの世界ではやっぱり可愛いVtuberが流行っている。

脱輪さんはもう一つの引用記事で、仮想現実での美男美女は海外で批判されていることを示している。そしてそれに疲弊したユーザーは中国や日本のゲームに流れているそうだ。

雑に語ってしまうのだが、日本における一種の“憧れ”がこう言った仮想現実での装いや、美男美女という概念に繋がるんじゃないかと思った。海外への強烈な羨望。それは文明開花のころ、あるいはもっと前の時代からあるのかもしれない。

西洋の人たちが「美」を発見し、「多様性」を発見し、「地球温暖化の危機感」を発見し、我々は追随する形で「ルッキズムはよくない」「多様性」をなんとなーくで受け入れ、なんとなーく運用し、なんとなーくプラスチック容器の中でしなる紙ストローをくわえて生きている。

なんとなくでは済まさず、徹底的に言語化する。
フィクションと仲良くするために、あるいはフィクションを守るために。
脱輪さんの記事は、優しく「ほぇーっとしとったらあかんよ」と言ってくれるものであった。


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