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引き上げまでの13日間

何があったか、何を思ったかを綴るだけ。だけど、ここで書かないと残らないだろうと思ったので、お時間あればお付き合い下さい。


自宅に住めない、と言われた日

首都退避から戻って2日後の12月6日、調整員さんから自宅を離れるように言われた私は、ちょっと抵抗した。


一時的に市内退避するのは受け入れます。でも、この家を離れなきゃいけないのは嫌です。今ディレダワ市内は主要箇所がほぼ要注意地域になっていて、次がどこで起こるかは誰にも分からないし、どこで起こってもおかしくないんです。引っ越して、そこも安全なんて保証はありません。それなら私は、今までずっと関係と生活を作り上げてきたここにいたいです。それに、引っ越してまた次何かあって「引っ越して」って言われたら、多分私ぶちギレます。
ここの大家さん、配属先の同僚なんです。会計担当のおっちゃんで、すごく良くしてくれてるんです。おかげで安心して住めてるんで、そういう意味でもここを出るのは嫌です…!


意外なことに、調整員さんは「そうだよねぇ~!!」と言ってくれた。
だからといってJICAの決定は変わらないんだけど、嬉しかった。

JICA事務所が配属先から「行かない方がいい」と言われたところは、自宅周辺だけでなく私の活動先の7割くらいをカバーする。つまり一時的とは思われるものの活動は大きく制限されるし、それがいつまで続くかが分からない。それを踏まえて言われたのが「ディレダワで活動を続けることはできるんですけど、それだとどうしても今の家は出て別のところに住んでもらわないといけない。それだったら、別の場所でもっとしっかり活動できるところに移るのも、ひとつ。」

この地に残るか。任地変更するか。

すぐに決めなくてもよいし、それより先にとにかく明日からの滞在先を探してもらう必要がある、と続けて言われた。今までディレダワ隊員が使っていたホテルは、コンフリクトが起こりやすいディレダワ大学に近く使えない。JICAは「ここやここはダメだ!」と言われたがどこがいいかは分からないので、同僚などに聞いてホテル探して移って、ということだった。

おいおい、傷心の私にそんなミッションもあるんかい。

仕方ないので、知り合い何人かに電話して安全そうな地域を聞く。そこからネットでホテル検索をする。
言うてここはエチオピアの地方都市。
ネットで見つかるホテル情報なんてたかが知れてるがな…。安全そうなとこを聞くついでに今住んでいる地域のセキュリティどう思う?と聞いてみる。「まぁ、この前バイオレンスがあったとこだからね…」と言われて、あ、やっぱりそういう認識されてるんだと小さくショックを受ける。

あちこち電話をしている間に、上司から連絡があった。私には何も言わずにJICAに通報した彼である。

来週の水曜日に教育局長に会いに行くよ、という別案件の伝達。そのまま電話を切ろうとするので、「ねぇねぇ、他にも私に言うことない?」と聞いてみた。「ない。」と即答された。「いやあるでしょ家のこと!」と切り出すと「だって君昨日感情的だったから。怖がらせたくなかったし。」とまとめたらこんなようなことを言われた。

舐められたもんだな、と思った。多少の暴動怖かったらここに帰って来てないわ。
こっちが怒ってることを示さなかったら、あなたたちヘラヘラしてちっとも真面目に受け取らないじゃないか。

ただしここでまた怒っても相手もムキになるだけだろうと思い、ありったけの自制心をかき集めてなるべく穏やかに伝えた。
「うん、気遣ってくれるのはありがたいんだけど、でも私はそれより正確な情報が欲しいの。そうでないと信頼できないでしょう?」
「でも、怖がらせたくなかったから。」

もう、いいや。
別に、伝わらなくても。

あれは、手放すような感覚だった。
張るように手に持っていた糸をぱっと放すように、私は分かってもらうことを諦めた。

そこを諦めたら、この先のことに目が向いた。配属先の上司が信頼できない。活動できる地域が限られている。いつまで制限されるか分からない。たとえ引っ越したとしても、再度引っ越しを求められる可能性もある。どうであれ、来年5月の選挙の時には絶対首都に集められるだろう。ここ最近増えた暴動。退避した期間。提示してもらった案の中に首都での活動もあった。それができたら、選挙期間中も自宅待機がでなければ活動できる。私は、この国を観察するためだけではなく、ここで活動するために来た。情だけで考えられないことは、この先もきっとある。

ディレダワを、離れよう。

とてもあっさり私の中で答えが出てしまって、それはそれで戸惑った。でも経験上、大きな決断がいる局面で私が一番最初にこうしようと決めたものからやっぱりこっち、と心変わりしたことはない。そして昔からあんまり悩まない。

自宅最後の夜に、エチオピアに来て一番大きな決断もした。


悲しみに暮れた週末

決めたからと言って未練がないわけではない。

今まで関係を築いてきた人はたくさんいる。ご近所さんや同僚、地域オフィス、TVET(職業訓練校)、顔なじみのお店、ガードマンさんたちなどなど、自分が選んでこのlovelyな人々(ちょうどいい訳が分からない)から離れていくのかと悲しくもあり、悔しくもあり、罪悪感も大きかった。

ここで私は何をしたのか。
まだ何もしてないじゃないか。
これからだったのに。
活動についても思う。前任者から託された仕事を、完遂しない道を選んだ。現状に基づいて極力客観的に判断したつもりだったけど、私のエゴじゃないのか。

母親のおなかに涙腺のねじを置いてきている私は、もう事あるごとに泣いていた。多分脱水になって頭痛がひどくなったので、慌ててポカリを摂取するくらいに。調整員さんにも、離れる決意を伝えた。「よく決断したね…」と言われてまた泣いた。


落ち着き始めた月曜日

決断はしたもののコミュニティ開発担当の調整員さんは火曜まで休暇で、彼が帰ってこないことには事は進まない。ディレダワの危険レベルが上がって退避になるわけではないからだ。

私はどんなモチベーションで配属先に行けばいいんだろう、と思いながらも律義に配属先に行った。特にすることもないのに。

気持ちは落ち着いてきたけど反動で疲れたのか身体が重い。自宅から移動したホテルの部屋で寝ながら、「…てか物理的安全も絶対確保されたわけじゃないのに、なんで自宅という心理的安全だけは100%取っ払われないといけなかったんや…」と思ったりする。


体調不良に襲われた火曜日

メンタルに体調が連動してるのは、それはそれで身体がちゃんと機能しているということなんだろう。そうポジティブに言い換えようが何だろうが、弱り目に祟り目である。

エチオピアに来て3度目の食あたりがここで来た。

多分、きっかけは前日に食べた近所のお店のポテチの油。油で当たる隊員がこの国は多い。普段は大丈夫だったはずなんだけど、弱っていたせいかいつもと違う店だったせいか、朝からなんか調子悪い。でも今日は、友人に引き取ってもらう荷物を下見してもらうのだから、と頑張って起きた。下見を終えて、ツナパスタとインジェラをご馳走になって帰ってきた、それがどうもよくなかったらしい。

帰ってきたらどんどん増してくる吐き気、頭痛、おなかの張り、熱っぽさ。
そうでした、健康管理員さんに「調子が悪い時はインジェラは食べちゃダメ」と言われてたんでした…と思っても後の祭り。

お酒を飲まない私は「吐けば楽になる」の感覚が分からなかったんだけど、なるほど本当なんですね。
分かるの今じゃなくてよかったけど。
吐けるまで10時間くらいかかったけど。


体力ミジンコで無になる水曜日

吐いて楽になったとはいえ、体力は持っていかれた。動きたくない…と思っても今日は市の教育局長に上司と面会に行く予定がある。約束の15時に配属先に行って、30分くらい待つ。なぜ15時と言った。

教育局長も、上司と同じオロモ系ムスリムだった。英語もあまり話せないようだ。なんか上司が紹介してくれる人、属性が同じ人ばかりな気がするな。いくら色んな民族の人が一緒に暮らしている市であっても、結局属性ごとにまとまってしまうらしい。

ミーティングのあとはどっと疲れて、ホテルでとにかく寝ていた。


情報収集で終わった木曜日

首都から調整員さんとナショナルスタッフ(現地職員:NS)の方に来ていただき、配属先と大家さんに任地変更の話をするはずだった。が。上司がいない。電話もつながらない。大家さんはいるけど配属先に伝えるのが先だろうということでひたすら待ち。

1時間くらい待っても埒が明かなさそうだったので、他の場所で情報を集めることにした。私が活動でまわっている地域オフィスのうち、「ここに引っ越せ」と言われているカバレ03と、私が今住んでいるカバレ02の責任者に連絡して話をしてもらった。

元社会主義という背景もあるし、セキュリティ関連はあんまり話してくれないんじゃないかと思っていた。秘密主義というか。
それが意外なほどに皆色々教えてくれた。
今これだけの安全対策を講じている。確かに前回暴動は起こったけど、今住民会議をして夜の見回りを強化している。暴動に関わった人たちは逮捕されている…。

…なんか、聞いていた感じと違う。
調整員さんも「ちゃんとやってるなぁ…」と呟いている。さらには「ちょっとこれは難しいかもしれないなぁ…」なんて言うもんだから「いや、ここまで来て『引き上げ無理です』と言われても私も困ります…」と小さく主張しておいた。

多分、情報共有してないんだろうな。
もう何度も思ったけど。この日私たちが聞いた私が住んでる地域の安全対策の話を、きっと上司は知らなかったんだろう。だからこそ多分、本気で心配してくれてたんだろう。ついでに、多分彼はあの進言が私の引き上げに繋がるなんて想像しなかったんだろう。

この一連のドタバタはミスコミュニケーションから生まれてるのかも、と思ったら、なんだか悲しいような切ないような気持ちになった。

調整員さんとNSさんは、午後も上司に会えずにアディスへ帰っていった。
結局電話で話すらしい。


「そうなってみないと分からない」色々悟った金曜日

ずいぶんとまぁのんびりした進みやなぁ。

先週末腹を決めたときには、もうこの週のうちには引き上げてるだろうと思った。でも、実際は引き上げるかどうかも確定してない。

この日は今までにコンフリクトが起こった場所と詳細をマップに記入する作業をひたすらしてた。本部に提出するための資料にするそう。…調整員さん来る前に投げてくれれば、そのマップ見ながら市内まわれたんじゃないかしら。知らんけど。

まぁしかし。
危険度が上がった訳じゃないし、優先度がさして高い案件じゃないんだろう。内情を把握しているエチオピア事務所と、本部の認識ギャップを埋めるのに根回しやら論拠もいるんだろう。

赴任して1年だけど、任地が変わった人は8人くらい見てきた。希望やモチベーションを保てなくなった人がいた。国にポジティブな思いを持てなくなった人もいた。

そんなに?って思ってた。
今なら、彼らの気持ちが想像できる。この気の落ちようは、体験しないと分からなかった。私だって、この先そうならないとも限らない。


粛々と片づけを進めた2度目の週末

まだ確定はしてないものの、引き上げの方向で私たちは動いている。いざ日程が決まってバタバタしないように、家の荷物を少しずつ処分していった。

おおかたの荷物は、友人家族がまるっと引き取ってくれた。あれこれ細かいことする必要が最小限になったので、本当に助かった。

彼らは私を送り出すために、ケーキも用意してくれた。

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有り難くて嬉しくて離れるのが悲しくて泣きそうだったけど、それ以上に「ここまでしてもらって引き上げ取り止めになったらどうしよう…」という不安がありすぎて涙が引っ込んだ。


やっと決まった月曜日

この日の朝にようやく「明後日水曜日引き上げ」が確定された。

何も知らない大ボスに挨拶してビックリされたのもこの日(詳しくはこちら)。
いやいやこっちがビックリだわ。


がらんとした部屋でやっと実感が湧いた火曜日

午前中は活動先などに挨拶を。なんで引き上げるの?と言われたときの返しがつらい。調整員さんは「JICAが決めたからって言っていい」と言ってくれたけど、決めたのは私という思いが毎回よみがえる。
だから必要最低限の人にしか言えなかった。
ここの人だって何も言わずにいなくなるじゃない、とそんなところだけエチオピアナイズドするのはズルい。分かってるけど。

午後、最後まで残しておいてもらった机やベッドマットなどを友人家族に持っていってもらう。ほぼ何もなくなった家を見て、ようやく離れる実感が湧いてきた。


もやっとした最終日

調整員さんとNSさんが私の配属先へ来てくれて、引き上げの挨拶。

上司と大ボスから語られたのは、ディレダワがいかに安全か、いかに対策がされているかが8割。
だったら私は今、なぜこうしているのだろう。
彼らの言葉はつるんつるんと滑りながら、右から左に抜けていった。やりきれんな。

彼らのためには、私が離れると決めた一番の理由を言うべきだった。
「あなたたちの情報が信用できないから」。
言わなかった。
一番冷たい対応だと分かってた。
それでも、言わなかった。
まだまだできないことばかりだ。私。



思っていたより2倍くらい時間がかかった。
誰の役にも立たない、ムダな情報であってほしい。

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