2/20 車窓の闇

ふと顔を上げると夜の闇にネオンや看板の明かりや住宅地に並ぶ街頭が現れては消える景色が見えた。車窓の夜。それで気づいたのだが、東京の大学に通ったり、東京で働いたりしていた頃は、電車はいつだって人でいっぱいで、乗り換えも多く、電車の座席に座るということがなかった。だから吊り革やドアに体を預け、窓の外を眺めることが多かった。それが、都心から離れた学校で働くようになり、下り電車で職場に向かい、上り電車で家に帰るようになって、席に座れるものだから、本を読んだり眠ったり、窓の景色を眺めるということはほとんどなくなっていた。付け加えれば、ついこの間まではもっと下ったところに住んでいたから、窓の外も田園で、夜は見えるものもほとんどなかった。

窓から夜の闇の中にぽつぽつと現れ流れ消えていく光を見ていると、心に闇を抱えていたように感じられていた頃の心情を思い出す。折しも、今、心に闇を抱えているように感じているであろう人と話した帰りであったから、余計に懐かしく思い出された。あの頃は、夜に浮かぶ光の感じ方が違った。あの頃は、航空障害灯に強く惹かれて、夜景を眺める機会があれば、あの無機的な高層ビルの上で赤く明滅する光をじっと見つめていられた。

心に闇を持つ、ということを懐かしく思う。それによって得られていた感覚や、見えていた景色を思い出す。白い人工の明かりに照らされた電車内から見える夜の闇、そこで明滅する光とは、まさしく世界や人生の在り方ではないか? 心に闇を持つとは、夜の街を走る電車に窓が穿たれているようなものではないか。それは、外に夜の闇が広がっていること、そこに光が明滅すること、そして、世界や人生が、ただ揺れているだけでなく、大変な速度で進み続けて戻ることのないことを示しもする。それが無ければ、心の平穏は保たれて、随分と生きやすいかもしれない、けれども。それは、気づけば穿たれていたり、ある日何かや誰かによって穿たれたりするものだ。そして要領よく生きていれば塞いでしまうが、どうやら私にも、まだ塞ぎきれぬ穴が空いていて、その闇や隙間風に晒されたいというような気持ちが、どこかに残っているようである。

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