『planetarian』論

涼元悠一『planetarian ~ちいさなほしのゆめ~』について、学部の2年生のときにサークルで発表したもの。

《底本》
涼元悠一『planetarian ~ちいさなほしのゆめ~
星空、言葉、神様、ロボット 四つの主題による小品集』(VA文庫)

《方針》
 作者自身によって明示されている本作のテーマ「ロボット」「星空」「神様」「言葉」それぞれについて考察する。

《本論・各テーマの考察》

一 ロボット

一・一 SFというジャンル

そもそもSFとは何であろうか。著名なSF批評家ダルコ・スーヴィンは『SFの変容 ある文学ジャンルの詩学と歴史』において、SFを認識異化の文学として理解すべきであると説き、また「異化と認識の共存と相互作用を必要かつ十分条件とする文学ジャンル」(p.42)と定義している。

  虚構を事実のごとく報告することは、固定した規範的体系――プトレマイオス型の閉じた世界像――に対し、新しい規範の体系を示唆する視点や世界観をつきつけるはたらきがある。文学理論の分野では、これは《異化 estrangement 》の姿勢として知られている。 (『SFの変容』p.40)     

《異化》はロシア・フォルマリズム一派、ブレヒトらの手によって練り上げられた理論である。ウェブ版「知恵蔵2011」より演劇評論家である扇田昭彦の説明を引用する。

当たり前と思われる事柄を、見慣れない未知のものに変える趣向をいう。異化作用ともいい、同化作用の逆。ブレヒトは社会を変革する視点を強調し、観客が登場人物や物語に感情同化せず、距離をおいて批判的に観察するこの技法を自作に適用した。

《異化》は「文学とは何か」という問いに対する解答として、すなわち文学/非文学を区別する規定として、有力な概念の一つである(イーグルトン『文学とは何か』に詳しい) 。SFは、文学を文学たらしめる手法である《異化》を、SFというジャンル独自の方法で用いているといえるのだ。他ジャンルの文学とSFにおける異化の差についてスーヴィンは、「SFにおける異化装置のすべてが、それに対応する認識と分かちがたく結びついている」(p.45)「プロットの核となる認識は、虚構を用いた異化そのものと協働する」(p.51)と述べている。ここでいう認識とは、異化の結果としての明視(距離をおいて批判的に観察するという意で用いる)の対義語であり、SFについていえば例えば物理学、化学、哲学、心理学、人類学、社会学といった諸学的見地のことである。これら科学的な知の効用と効果を諸学的観点から問い、あるいはそれらの知から生ずる問題や来る破綻を批判するのがSFなのである。

また、「SFは、経験できる環境からとりだせる可変的で未来志向的要素に焦点を絞る。」(p.41)「SFが問うのは抽象化された〈人間〉や〈世界〉ではない。SFが問うのは、いったいどの人間なのか、どういった世界なのか、なぜそのような世界にそのような人間がいるのかである。」(p.42)といったことも、本作を考える上で重要な示唆を与えてくれるように思う。

※スーヴィンの《異化》の用法は、リアリズムが支配的であった文脈のなかでのブレヒトの用法とはややずれるものであるとスーヴィン本人が述べている。
 

一・二 SFにおけるロボット

次に、スーヴィンの見方にのっとってSFにおけるロボットを考察する。ここでいうロボットは、基本的に人間の形をしたものである(アンドロイドとも呼ばれる)。
『SFの変容』においてスーヴィンは、チャペックと彼の発案した《ロボット》という語について、以下のように述べている。

 彼は、二十世紀の人間の非人間性がどのような潜在的可能性を秘め、またそこからどのような帰結が生ずるかという問題に強く惹かれていた。彼のこうした関心のありようは、その全著作のなかでつねに〈自然な人間〉対〈反自然の擬似人間〉というイメージに置き換えられた。人間にそっくりで理性もそなえてはいるが感情を欠いた存在は、チャペックの作品のなかでは一連の似かよったイメージをおびることになるが、その最初のひとつが『R・U・R』のロボットだったのだ。(p.420)

ここで重要なのは、そもそもロボットは人間の非人間性を明視させるために作られたものであるということである。SFの歴史においてロボットは、チャペックのそれのように人間の非人間性(ロボット性)を示すべく用いられ、あるいはディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』のように人間に極限まで近づけることで「人間と非人間を分けるものは?」といった問いを起こすべく用いられた。すなわちSF文学におけるほぼすべての「ロボット」は、その在り方はどうあれ、人間を明視させ、「人間とは何か」を、問いなおさせる、人間を異化する役割を持たされているのだ。

※ロボットが人間を明視させるのは現実においても同様と考えられる。例えば人型ロボット研究開発の第一人者石黒浩は『ロボットとは何か』において、プロローグに「本書では、ロボット開発を通して人間を知るという、私の一連の研究を紹介しながら、いかにロボットが優れた人間の鏡であるかについて述べていきたい。」と記し、ロボットを人間に近づけていく過程で浮かび上がった様々な問題から「人間とは何か」について思索している。

一・三 本作におけるロボット

はじめに「雪圏球」におけるロボットを考える。
 
  世の中の矛盾や歪みは、ロボットの目ではどう見えるんだろう?(p.26)
  ゆめみは知らないはずだ。/彼女が感じるはずの痛みは、彼女に関わる人間たちが受け持っているのだということを。(p.41)
人間にはロボットにしか話せないことがある(p.46)

右に引用した他にも、ロボットが人間を映すものとして描写されている場面は数多く存在する。また印象的なのは二八ページに描かれた、失業者たちによって燃やされるロボットたちである。古代より人形は人間の代わりとして祭礼などに用いられてきた(日本における「藁人形」「流し雛」など)。失業者によるデモンストレーションと説明されているが、実際にロボットが人間に取って代わった結果雇用が失われるとは考えにくい。今日までにも多大な技術革新があり、人間の行なってきた仕事の多くは機械化されている。それにも関わらず仕事は存在し、雇用問題はあくまで違った原因から生まれている。また本作中のロボットも、ゆめみが「コンパニオンロボット」であることが示すように、接客業に特化したものであって、またゆめみの周囲には彼女をサポートする人間の従業員が複数いる状況も考えれば、ロボットが人間に取って代わることはこの作品の段階でも不可能なのであると推察できる。この燃やされるロボットたちの描写はむしろ、ロボットが、人形のごとく、人間の身代わりとなっていることを示すものなのだ。
このようなロボットの状況は、「エルサレム」においては一変している。
「本物の人殺し」(p.134)と称された“自律戦闘機械群”、「人間とはなんぞや?」と問い直し、人間に危害を与えぬというロボット三原則を守りながらも人間を殺し得るようプログラミングされた“修道女”。それらはもはや人間を映す鏡としてのロボットであることをやめ、人間を裁く神のごとき存在となっている。
そして最終章「チルシスとアマント」においては、ロボットは人間無しで行動している(232ページの描写等から、この二人はふたつの大きなコンピュータであり、人間型の身体はないと読むこともできるが)。二人のロボットは、「小さなころのふたりは、ただ言葉を守るだけで満足だった。」(p.232)から、単に言葉を保存するためにプログラミングされていたと考えられる。しかし最終的に彼らは事故を発達させ、自らの意志で、チルシスは言葉を守る理由を問い、アマントは船を作ったのである。

※「自らの意志」と呼んでも差し支えないだろう。石黒浩が『ロボットとは何か』で述べているように、「人間には心がある」というのは、あくまで我々がそのように信じているだけであり、そうであれば、心があるように見え信じることのできるロボットがあれば「ロボットには心がある」と言える、と考えることもできるのである。

二 星空

 本作における「星空」とは、「プラネタリウム」によって映しだされたものであると考えていいだろう。作中において「イエナさん」と親しみをこめて呼ばれるカールツァイス・イエナ社製の投影機の映し出すものは、「本物の手作りの星空」(p.19)でである。また「星の人」において、簡易的なプラネタリウムで老人の映しだした星空は、本物の星空を見たことのない子供たちの心に、「とても明るくて、やさしくて、きれいで、三人の行く先をどこまでも照らしてくれる光の群れ」を焼き付けたのである。
 本物を知らないものにも、その本質を伝えるプラネタリウムと「本物の星空」の関係は、ロボットと「本物の人間」の関係とイコールであるだろう。本編のヒロインでもあるゆめみは、もちろん人間と同様に物事を考えることはない。ただ、笑うべき時に笑い、謝るべき時に謝り、ロボット三原則に従って命令を忠実に実行するようにプログラミングされたロボットが、我々の目には健気にうつり、また我々の心をつかみ、漠然とした郷愁を抱かせる。これは前述した「ロボットには心がある」ことを示しているであろうし、また本作におけるロボットが、プラネタリウムのごとく、現代の(作品内の)人間以上に人間らしく人間を映し出していることをも示しているだろう。

三 神様

 本作における「神様」に、キリスト教の神が大きく関わっているのは、作品中における様々なモチーフから、明らかである。
「エルサレム」における神は、先に「ロボット」の項で述べたように、人を殺し、赦す、ロボットたちである。またこの作品の成立には小説冒頭で引用されている北原白秋の詩が大きく関わっていると考えられるが、この詩の引用の意味は、ここでようやくはっきりとする。すなわち、人間は神を「求め」、「創つ」たのである。神が自らの似姿として人間を創ったのと同様に、人間は自らの似姿としてロボット、あるいは神を創ったのである。「チルシスとアマント」において、両者の性別が元々のものの逆になっているのもおもしろい。そもそもロボットに性別は必要でない。そうした点においても、ロボットは神に近いのである。

※キリスト教における神は男性として記述されることが多いが、それは便宜上のもの、あるいはキリスト教創始以来の男性中心社会に起因するものであり、欠けるところのない神の性別を論じるのはそもそも無意味である。という考え方は一般的である。

四 言葉

 本作は、ゆめみの言葉、アマントの言葉といったすべての言葉を孕んだチルシスの出航によって幕を閉じる。チルシスは自身たちについて以下のように語る。

「僕らにはもうかたちはなくて、僕らは言葉そのものなんだから。僕らは世界で、神様で、だからやっぱり僕らなんだ」(p.230)

 この台詞は彼らがもはや「肉体」を持たず、プログラム上にしか存在しないことをも示唆しているが、言葉を伴って旅立つチルシスの姿は、キリスト教における天地創造を思い起こさせる。

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は初めに神と共にあった。
すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
(口語訳聖書「ヨハネによる福音書」一章一節~四節)

 人の創った神であるチルシスは、すべての言葉と共に旅立つ。それは、聖書における天地創造に繋がっている、そういったループ構造を成していると読むことも可能であろう。

《まとめ》

 本作は、SF文学として、「経験できる環境からとりだせる可変的で未来志向的要素に焦点を絞」りながらも、プラネタリウム対星空とイコールである「ゆめみ」対人間の構図から、人間の持っている・持っていたはずの美しさへの郷愁を誘うものである。ヒロインであるゆめみの、その美しい「心」は、「本物の星空」が我々の中に原風景として存在しているように、美しい人間と呼ぶべき原風景を呼び起こさせるものなのである。

《参考文献》
ダルコ・スーヴィン『SFの変容―ある文学ジャンルの詩学と歴史』大橋洋一訳,国文社,1991
石黒浩『ロボットとは何か 人の心を映す鏡』講談社(講談社現代新書),2009
テリー・イーグルトン『新版 文学とは何か―現代批評理論への招待』大橋洋一訳,岩波書店, 1997
石田友雄『聖書を読みとく 天地創造からバベルの塔まで』草思社,2004

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