声、ひかり。

2013年あたりに書いた小説。我ながら、若い……。新人賞の二次で落ちたものの改稿、改題。原稿用紙189枚。縦書きpdfファイル

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声、ひかり。

   0

 結局何も変わらなかった。お兄ちゃんの職の選択肢が一つ減っただけ——お父さんは毎日仕事に行くし、お母さんは家で洗濯をするの。

 僕が笑うと、彼女も少しだけ微笑んで、パーカーの紐の先を弄った。意味がないのよ。そう言う彼女の口元には微笑みが残っている。わたしは、そういう意味のないもの全部、壊してしまいたい。彼女は前髪を払う。僕が何も言わないでいると、彼女は続けて口を開く。嫌なのよ、全部。うん、と僕は相槌を打つ。

 電車が不意に大きく横に揺れる。吊革をつかむ。黒や灰色の塊に圧迫されて彼女との距離が近づき、彼女のほのかに茶色い髪の放つ甘い人工的な匂いを嗅ぐ。僕は呼吸を止める。

 満員電車に詰め込まれて、真剣な顔して携帯弄ってる人を見てると笑っちゃうの。スピーカーとお喋りして、機械の作るご飯を食べて、画面の中の女とセックスして、目覚ましに叩き起こされて、テレビに向かって笑ったり怒ったりする、そんなのが、まともな日常なの?

 彼女の密やかな声の少女らしいきらめきが僕の耳をくすぐる。僕らを取り囲む人々のことが急に気になって、表情を伺ってみる。彼女の言葉を彼らも聞いただろうか。ある者は若い内向的な少女にありがちな幼い思想、とでも思ったかもしれない。ありがち――そうかもしれない。

 車両にブレーキがかかる。

 彼女が呼吸しやすいように、彼女の方に体重のかからぬように、無遠慮に加えられる重さに耐える。

 ドアが開く。近くの椅子から厚着をした太った女が一人立ち上がり、人々を掻き分け、外に出る。大声で韓国語を話す二人の女が入ってくる。座っているある女はそれに思いっきり眉をひそめ、それからスマートフォンを取り出し、画面を撫で文字を打つ。ドアが閉まる。僕の背後の男のイヤホンからは重低音が漏れ出している。彼の身体がビートに合わせて揺れるのを背中にかすかに感じる。電車が動き出す。よろけた老人を、座っている高校生がちらっと見上げ、再び俯いて英単語帳をめくる。

 ふう、と奈津子の吐いた息が僕の首筋に触れる。

「そんなのを日常って呼ぶのなら、日常にはどんな意味もない」

「……もしかしたら、何かが欠けているだけなのかもしれない」

「何か」

「愛とか、夢とか」

「刺激、ビタミン、カルシウム……そんなんじゃないよ。どんなものだって、この日常の中じゃ、何の意味もない。何があったって、変わるわけがない」

 諭すように、あるいは、自分に言い聞かせるように、彼女は話す。

 電車が揺れる。彼女の前髪が僕の顎をさっと撫でる。

 録音された音声が次の停車駅を告げる。高田馬場。僕らはそこで降りなければならない。汗が一筋、額から流れ落ちる。録音された英語のアナウンス。Next station is――。

「けれども、この日常が大事だって人もたくさんいる。そういう人の方が多いかもしれない」

 彼女は僕の首のあたりを見つめ、しばらく黙っていた。そして、ブレーキがかかってから、「戦争だよ、だから」と、小さな声で、しかしはっきりと言った。うん、と僕はただ相槌を打つ。戦争、と彼女はもう一度、小さな声で呟く。

 戦争。

 戦争は常に行われている、と教授が言った。今年の初夏、僕がまだ講義に出席していた頃、空調の効いていない教室で、二十人ほどの文学部二年生たちに向かって、とても穏やかな口調で教授は言った。戦争は常に存在する。ただ、それは巧妙に隠蔽されている。そんなことを、最近スマートフォンを買ったんだよ、と話したのと同じ語り口で教授は話した。僕はそれをルーズリーフに書き取った。戦争は常に存在する。巧妙に隠蔽されている。それに自ら問いを付け足した。戦争とは何か。なぜ。誰によって。あのルーズリーフを僕は一度も省みることなく、おそらく日常の消費物といっしょに捨ててしまっただろう。

 ドアが開き、都市の喧騒が車内に入り込む。

 それは発車ベルであり、電車の通過する音であり、学生の誘い合う声であり、子どもの叫びであり、歩き続ける人々の足音であり、金属と金属が擦れコンクリートの砕かれる工事の音であり、車のクラクションであり、そういったあらゆる営みの音が混ざり合った都市のBGMは、常に人の鼓膜を震わせている。

 荷物を一つ網棚の上に残し、二人は電車を降りた。雑貨屋の黄色い紙袋、カラフルな包装紙に包まれた小さな箱の入ったそれに、乗客は誰一人として注意を向けなかった。あるいは無関心を装った。無関心は、都市で暮らす人々の身に付けた、最良の防衛手段だった。

 僕らは約束していたとおりに大学に向かった。参考に見に行きたいと奈津子が言ったのだ。きっと断らなければならなかったのだろう。内緒にするから、と彼女は言った。

 T線に乗り換えれば早いのだが、歩いて大学に向かった。授業に遅刻しそうだというわけでもないし、なにより人の群れに揉まれながら電車に揺られることにうんざりしていた。そうするよりも、この汚く騒がしい街を、排気ガスを吸い込み、日々のストレスを溜め込んだ大勢の歩行者たちを避けながら歩いた方が良い。おそらくそういう気持ちもあって奈津子は「街を歩いてみたい」と言った。まともな人間が、必要もなくこれ以上電車に乗りたがるはずもない。

 奈津子は僕の前を、二つ結びの髪を揺らし、ひだの多い緋色のスカートを揺らしながら歩いていく。僕をどこか魅力的な場所へ案内しているようにも見える。彼女は軽快に人を避け、人の隙間をすり抜けて歩いていく。そうやって進んでいく彼女について行きながら、街が普段とは違うものに変わるような感覚を抱いたが、しかし街はいつもの街のままであり続けた。やがてそうした感覚も消えてしまって、僕は彼女や僕の動きがどこか下手な芝居じみていることに気がついた。

 彼女は大げさに軽快に歩き続ける。しかしどこを踏んで歩くにも、僕はいちいち覚悟しなければならなくなっている。コンクリートの上はどこでも黒や白や黄色や緑の得体のしれない何かがこびりついているのだ。僕は地面を見ないように、ただ彼女の揺れるスカートを追いかける。緋色は、日が沈み色をなくしていく街の中で、まだ緋色のままでいる。

 ある古書店の前で彼女は立ち止まり、店先に出された本を眺め、全集の背表紙を撫でて、店の中を覗きこんだ。「何もないよ」と僕は言う。彼女は素直に頷いて、再び先を歩いていく。彼女は寂れた中華料理屋の店先に掲げられたメニューを見て、ここ美味しい? と僕に尋ねる。僕は曖昧に首を振り、彼女の背中をそっと押す。サイレンを鳴らした消防車と救急車が、二台続いて通りを走って行く。僕は奈津子の青いスニーカーを見つめる。それは闇に溶けようとしている。ラーメン屋の店先のディスプレイに飾られた漫画家のサインをチラッと見て、彼女は立ち止まらずに進む。

 道の先から、何事かをぶつぶつと呟きながら、空き缶でいっぱいのゴミ袋を背負った浮浪者が歩いてくる。垢のこびりついた暗い顔の中で目だけは鈍く都市の光を反射して光っている。その臭いを吸い込まぬよう、僕は息を止める。彼が、僕の目をまっすぐ見つめている気がする。すれ違う。彼は舌打ちをする。何かを罵る彼の声が遠ざかっていく。

 振り向いてしまいそうになるのを堪え、歩き続ける。

「あの人、わたしたちのこと見てたよね?」

 暫く歩いてから、奈津子はこちらを振り返り、楽しそうに言う。そうかな、と僕は答える。

 僕らはまず学生会館に入った。清潔で無粋な建築、部室への出入りは電子的に管理されていて、夜の十時になると締め出される。警備員は一日中歩き回っている。学生の熱気なんてものはまず感じられない。そうしたものはすべて冷たいコンクリートの壁に吸収されてしまう。そう僕は思っている。中にいる学生たちの多くにとっては、きっとそうではない。

 僕らは地下に降りて、オーケストラやバンドの奏者が音の大きさを競うのを見てまわった。地下は音で混沌としている。これはこの建物の中で学生たちの行える唯一の破壊行為かもしれない。この世界で行える唯一の――曲がりくねった大きな管楽器やコントラバスやエレキギターやドラムのめちゃくちゃに塗りたくったキャンバスに、ヴァイオリンやフルートが細かな傷をつけたような、そんな絵画的なイメージを僕は抱く。奈津子はどのように感じているのだろう。音の底で、僕らはまったく意思を伝達できない。

 柱の影で、オーケストラの人間がヴァイオリンを弾いているのを見つける。知っている人間だった。かつての友人だった。相変わらず大きな鼠を思わせる弾き方をしていた。おまけに鼠色のジャケットまで着ていた。尻尾の先の毛で弾くような演奏――どこかで聞いたことのあるメロディだった。次のコンサートで弾くのだろう。彼は僕には気づかなかった。気づいたとしても気づいていないふりをしただろうし、僕も気づかれていないふりをしただろう。

 僕と奈津子は一言も会話をすることができずに、やがて階段を上る。そして学生会館の外に出てようやく、全然音楽的じゃない、と彼女は言った。僕は少しほっとした。この建物の中で一番音楽的なのは、清掃員が奏でる掃除機の音色だ、と何度も使ってきた冗談を僕が言うと、あはは、と彼女は形式的に笑った。何度も繰り返してきた、身体に馴染んだ芝居をしたような、そんな気分になる。

 日はもうほとんど沈んでいた。キャンパスは暗い。灯りを減らしているのだ——とは言え、灯りを減らす前のキャンパスを知っているわけではない。

 学生会館を出て、建物の谷間を歩き、僕たちは図書館の前まで来た。中へは学生証がないと入れないようになっていて、外から見てみることしかできない。

 木の影の喫煙所から煙草が香る。僕は暗闇の中に儚げに浮かぶ小さな火の赤さに心を奪われる。

 その火の微かに照らした顔が、煙草をくわえ、こちらをじっと見ていることに気づく。知っている人だった。僕が頭を下げると、彼女は手を振って僕を呼んだ。僕は近寄っていく。奈津子はついてこない。

「久しぶり。元気だったの?」

「久しぶりです。……煙草、吸うんでしたっけ?」

「吸い始めたの。そんな吸わないけど」

 そう言って微笑み、可愛い子を連れてるのね、と美野里さんは小声で言った。僕は苦笑する。美野里さんは僕の後ろの方に笑いかける。じゃあ、またね、と言って灰皿の方に向かう。

 振り返ると奈津子は喫煙所の方を見て露骨に顔をしかめていた。この表情を美野里さんの笑顔にも返したのだろうか。行こうか、と言うと彼女は頷く。

「煙草、苦手?」

 奈津子はすぐには返事をしなかった。少ししてから、そうじゃないけど、と彼女は苦々しい表情で説明を加えた。

「学生が吸ってるのを見ると、苛々しない? 高校生が吸ってるのを見ると、もっと苛々する」

「おじさんならいいの」

 奈津子はうーん、と唸り、今度は黙りこむ。

 相槌を打っておけば良かった、と僕は思う。

 学食で、特に個性のあるわけではない、どこででも食べられそうなラーメンとパスタを注文し、外のテラス席で食べることになった。奈津子が外へ出たがった。食堂の騒がしさが嫌だったのだろう。外は灯りが弱く、長く居座るには肌寒く、まわりには静かに携帯ゲームに興じる男ばかりのグループと、暗い方に視線をやりながら家庭的な夕食風の定食を黙々と食べる女子学生の一人だけがいる。どちらも、物音も声も立てず、影だけが動いているように見える。

「煙草ってなんで吸うのかな?」パスタをフォークに巻きつけながら奈津子が言う。

「中毒ってそういうものだよ。なってみないとわからない」

「じゃあ、初めの一本を吸うのはなんで?」

「まわりの中毒者が勧めるんじゃないかな。かっこいいってイメージで吸い始める人というのも少しはいるかもしれない」

「わたし、楽しそうに煙草を吸う人間が嫌いなの」

 その言葉の意味を考えて、箸が止まる。いくらか冷めてからもスープからは湯気が上り続けている。奈津子も一度フォークを置き、コップの緑茶を飲む。セルフサービスの、ボタンを押すと出てくる妙に熱くて粉っぽい緑茶だ。機械の淹れたお茶――それも今はもう冷めてきている。

「つまり、もっと、必要にかられて吸ってほしいの……だって、馬鹿みたいじゃない」

「確かに、吸わない人間から見ると馬鹿みたいだけど、彼らとしては、どうせ吸うならやっぱり、楽しそうに吸いたいんじゃない」

 奈津子はしばらく黙ってカルボナーラの皿を見つめ、それから、何もかも納得いかない、といった顔でフォークを持ってぐるぐるとパスタを巻く。僕は彼女の方を見ないようにして、麺をすする。

 

「わたしも、ここに通いたいな」

 終始つまらなそうにしていた彼女は校門を出るなり僕にそう言った。つまらないところだよ、と彼女も抱いたであろう感想を代わりに述べた。どこもそうなんじゃない、ある程度、と彼女は言う。

「どこか、お茶でも飲みにいこうか?」

「ううん……そろそろ帰らないといけないの」

 彼女の門限のことを僕は知っていた。彼女の家には都庁で出世しているという厳格な父親がいて、側には甲斐甲斐しい妻がいて、生真面目そうな顔をした長男は晴れて官僚となり、馬鹿で幸の薄そうな顔立ちの長女は慶應の学生で彼氏の途切れたことがなく、次女が、私立の女子高に通い、今年の入試は早々と諦めている彼女だ。絵に描いたようなまともな家族。薄っぺらで、本当に絵に描いたみたい。いつか彼女がそう言っていた。その時も僕は思わず笑ってしまい、彼女も微笑んだ。彼女はそういうことを言うのが上手かった。

 奈津子が僕とは反対の方向の改札を抜けるまで見送った。どこか彼女の足取りには危なっかしさがあった。ふらふらと、そのままホームにでも落ちてしまいそうな、そういう雰囲気があった。

 僕自身の、不安や迷いというようなものが、彼女に投射されたのかもしれない。不安、迷い、悪い予感。重く巨大な何かを回し始めてしまった。あるいは、回り続けていた重く巨大な何かが少しずつその速度を落としている。光の無い真空の空間で音もなくそれは起こり、進行する。そんなイメージはしかし進入した地下鉄と人ごみに押し流された。

 高田馬場駅の人ごみの中で、Y線が止まっていることを知った。目白、池袋間に置きまして、トラブルが発生致しました関係で、お急ぎのところご迷惑をお掛けしております――結局、時計の短針が二周する間、Y線は回転を止めていた。そして時計の短針が二周して、再びY線は回りだした。

 二人がY線に置いてきた荷物は目白を過ぎたところで爆発した。直前に渡されてそのまま置いてきただけであったから、それがどれほどの爆発であったのか、二人は知らない。いや、二人にとって実際のところ、爆発の規模などどうでも良かった。ただ、Y線の中で爆発が起きれば良かったのだ。

 二十時を過ぎた頃に、運転を再開したというアナウンスが流れた。駅舎の中で塞き止められ滞っていた人々が、表情は険しいままで一斉に改札の方へと流れだす。僕もその流れに混じり、改札を抜け、階段を上る。ホームは足止めを食らっていた人々の陰鬱な表情と吐き出す息で満ちている。僕は足元を見つめ続ける。コンクリートの上には黄色く放射状の嘔吐物の跡が残っている。夜の闇に浮かぶ広告の中で笑う女を見つめる。それを、轟音と共に進入した電車が押し流す。ドアが開き、鉄と人間の臭いに身体を押し入れる。

 

 アパートの部屋に帰り着く。昨日どこかにやってしまったリモコンがやはり見つからず、直接テレビの電源をいれる。入力がビデオのままになっていて、切り替えると、タレントたちの大笑いがスピーカーから発せられる。音量を下げる。ジーンズを脱ぎ、ベッドに腰掛ける。

 ニュースを見るためにテレビをつけたのだが、一度座ってしまうともう何に対する興味もなくしてしまった。テレビの向こうで起こる何ものも、僕の日常を傷つけられない。太陽は東から上り、月が一つのままだ。太陽が西から上り月が二つになったって何も変わらない。止まっているものは止まり続け、回っているものは回り続ける。そんなことを考え、独り苦笑いを浮かべる。

 ベッドの上を見渡し、毛布のあちこちを叩き、掴んでどかす。テーブルの上には読みかけの小説と、開いたままのノートパソコンがある。ノートパソコンは今は専ら小説を書くために使われている。自分のための小説。床のあちことを見ても、リモコンはない。どこか妙なところに入り込んでしまったのだろう。

 芸人たちの罵り合い笑い合う画面を見る気にはなれなかった。僕は本棚を見つめた。それもほとんど習慣化していた。自分の部屋にいて、何をする気もしないとき、僕はテレビをBGMに、本棚を眺める。

 本棚に並べられた本の背表紙を一つ一つ確認しながら、昨年の地震の日のことを思い出した。奈津子とあんな話をしたからだろう。今日に限らず、奈津子と話をしていると、不思議と地震のことを思い出すことが度々あった。あの時は僕は実家のベッドで昼寝していた。午前中には高校に行って担任の先生に進学先を伝えた。先生は第一志望は残念だったねと言い、仕方ないですと僕は笑って言ったが、内心はまったく残念に思っていなかった。友人と会って、誰がどこに落ちた、誰が浪人する、といった話をし、帰ってきてからはすることもなく、昼寝をしていたのだった。家に家族はいなかった。父親は僕の生まれたばかりの頃に死んだ。生まれたばかりの頃だったから、もちろん記憶にもない。母は仕事に出かけていた。

 あの日、ベッドに寝転んで、昼寝の前にも僕は本棚を見た。収められた本は今よりもいくらか少なかったが、どれも今手にするものよりもずっと素敵な本であったような気がするし、読んでいない、読む気も起きないような本は、そこにはほとんどなかった。ただ、大学生になってから読もうと取ってあるいくつかの本だけが手付かずのまま、目の高さの段に収められていた。

 僕の実家は埼玉にあったが、それでもやはり経験したことのない大きな揺れだった。目を覚まし、ベッドの上に座った。揺れはさらに大きくなり、本棚から本がばさばさと床に落ちていくのをじっと見つめる他なかった。家のどこかで何かが割れる音がした。それは陶器のペン立てだった。恐怖のようなものは感じなかった。めんどくさい、と思ったかもしれない。

 大きな揺れの収まった後、散らばった本や何やらをまたいでリビングに行き、テレビを――今、芸能人や女優の感嘆や笑いを受信し出力しているこのテレビをつけた。実家から貰って持ってきたテレビなのだ。あの日、地震が起きてから二時間ばかり、僕はテレビに張り付いていた。そして、ふと思い立ってその電源を消し、部屋に戻って、床に落ちているたくさんの本を見下ろした。

 あの時、床に落ちたそれらの本を一冊一冊拾い上げ本棚にしまいながら僕は、何かを探していた。何を探しているのかは忘れてしまいながら、見つかった時には気づくだろうと思い、その何かを探し求めながら、本を一冊一冊本棚に収め続けた。津波が郊外の景色や生活を覆い尽くし押し流していく中継を見、妙に興奮していた。

 そしてすべての本が本棚に収まり、探していた何かは、見つからなかった。

 僕は本棚を見つめる。あの日を思い出す度に――それは誰かがその日のことを話題にしたり、その手の書籍や雑誌の見出しや特集番組を見たりする時であったが――僕の意識には泡が生じ、それはあちこちに突っ掛かりながら、ずっと割れることがない。僕はあの時、何を探していたのだろう。僕は確かにその存在を知っている。それは僕の目の前にある。しかし、目の前にある一つ一つを順番に手にとってみても、どれもそれではない。泡は割れない。

 

    

   1

 駅から歩いて数分のところに加賀美さんのアパートがあった。周りの建築と比べればまだ新しいアパートで、その四階に彼の部屋があった。

 一人で彼を訪ねたことは何度もあった。しかし、奈津子と二人で来るのはこれが初めてである。奈津子はこの運動に参加してまだ日が浅い。部屋を訪ねたことがないどころか、彼女が加賀美さんと実際に会うのは、これが初めてなのではないか。しかし、奈津子に緊張している様子は微塵もない。

 呼び鈴を鳴らすと、ドアを開けたのは美野里さんだった。僕は少なからず動揺した。

 どうぞ、と言って彼女は微笑みを浮かべる。奈津子は美野里さんを見て露骨に顔をしかめたが、美野里さんはそれを見ても微笑みを絶やさず、二人をリビングに導いた。机を囲んでカーペットの上に座っていた加賀美さんと小高さんが僕らを見上げた。加賀美さんはあぐらをかき、小高さんは正座で身を乗り出すような姿勢で座っている。加賀美に何かを語って聞かせていたのだろう。座れよ、と加賀美さんは二人に言う。小高さんもぺこりと頭を下げる。僕も頭を下げ、奈津子は挨拶の素振りを少しも見せないまま、二人並んで座る。加賀美さんは奈津子を数秒、何か珍しいもののように見つめたあと、ぎこちない、しかしそれなりに愛嬌のある笑顔を作り、よろしく、と言った。奈津子はただ頭を下げた。

 加賀美さんはリーダーで、本部との連絡係である。歳は二十代の半ばだが、髪は長く無造作に伸ばしており、目はいつも何かを睨みつけているようで、顎は突き出し、体には筋肉がきっちりと付いている。背も高く、あまり目を合わせたい男ではない。小高さんは二十代後半のように見え、いかにも人が良いといった感じだが、かといって親しみやすい風でもない。印象の薄い顔だが眉毛の濃さだけは目に付く。いつもうっすらと笑みを浮かべていて、普段は寡黙だが、一度話しだすと長い。小高さんの話は時には明らかに調子に乗りすぎるし、時にはどこまでも重く落ち込んでいく。話を話のまま語ることができないのだ。人によってはうんざりしてしまうだろう。僕は小高さんの話を聞くことは嫌いではなかった。内向的で、孤独に、ずっと悩み続けて生きてきた者の纏う独特の雰囲気が彼にはあった。

 美野里さんがお茶を淹れて持ってきてくれるまで、奈津子はスマートフォンを弄り、僕はじっと黙っていた。僕らの間には気まずい空気が漂っていたが、加賀美さんも僕もあえて天気の話を始めたりはせずに、黙ってそれぞれの茶碗や手元を見つめていた。

 美野里さんは緑茶の入った茶碗を僕と奈津子の前に音を立てずに置いた。それから二人の向かいに正座した。奈津子は何かに対して舌打ちをし、スマートフォンを机の上に乱暴に置いた。

「これで全員だな」

 加賀美さんが言う。確認するまでの人数でもない。一種の決まり文句なのだ。加賀美さんは時々こういう、質の悪い映画の台詞のようなことを言った。僕は基本的には彼を尊敬していたが、こういった性質には嫌悪を抱いていた。

 加賀美さんは淡々と戦況を語った。Y線の爆破に成功し、日本軍の一作戦の妨害に成功した。同時進行で行われた、日本軍の強硬派の代表、カラスの暗殺に失敗し、さらに悪いことに彼の行方を見失うこととなった。今後は彼の消息を掴むまで大規模な作戦は行えない。言い淀むことも確認を入れることもなかった。誰かがお茶を飲み終える前に彼は話を終えた。

   ・・・

 僕の「自分のための小説」の登場人物は、彼らだ。僕の「自分のための小説」の物語は、現実の僕の日々に重なる部分が多い。

 加賀美さんに呼び出されて、彼のアパートに行ったのは、夏の初めのことだった。オーケストラを辞めた直後だ。入り口には花が飾られ、廊下も綺麗に掃除されていたが、カビや生乾きの臭いが漂っていた。丁寧に整えられたベッドの白いシーツや、クーラーから吐き出される冷たい風、フローリングの床、そういったものにもじめじめとしたものがまとわりついているように感じられた。

 美野里さんは熱いお茶を淹れてくれた。彼女は悲しげな表情をしていた。それは僕がオーケストラを辞めたことへの心配、あるいは同情、の表現であった。そしてそれは加賀美さんのそうした感情に共感していることを表現するものでもあった。そのことに気づいたのは、加賀美さんが僕をじっと見つめ、お前、どうしちゃったんだよ、と心配そうに、同情を匂わせながら切り出した時だった。僕はひどくうんざりし、この芝居を維持しようと努める美野里さんを憎んだ。

    

 

 権力というものは、抵抗しなきゃ姿を見せないんだ。高田馬場の居酒屋で飲み始めてから一時間ほどたった頃、顔を真っ赤にさせた加賀美さんが言った。あれはまだ春で、新入生たちがサークルを選んだりするような時期だった。どういう文脈でその言葉が発せられたのか、僕は覚えていない。もっと言えば、あの飲み会の場で語られた話のほとんどを僕は覚えていない。しかし、その言葉が発せられた時のことだけははっきりと覚えている。蒸し暑い和風の個室で、その時、卓の上には辛すぎる安い日本酒の徳利、ビールの泡の残るジョッキが三つ、ほとんど食べ終えられた鍋料理とおつまみの皿の数枚があって、僕は惰性でちびちびと酒を舐め、料理を口に運んでいた。何かを飲み込む度に吐き気がし、それが収まれば、また何かを胃に入れたい衝動に駆られた。

 名言ね、と加賀美さんの背中をさすりながら冷たく言った美野里さんは、顔は火照って赤くなっていたが、しかしほとんど素面であったはずだ。彼女はほとんど飲んでいなかった。彼女は、自分は飲まないのに他人に飲ませるのが上手い女性だった。

 僕はと言うと、やはり酔っていた。そもそも弱いのだ。美野里さんのような、飲ませるのが上手い女性がいなくとも、僕は酔っ払う。別にそれで性格の変わるようなことはない、と僕は思っている。ただ判断力が鈍るくらいだ。酒で失敗したことはないし、翌日に残ったことも二度か三度くらいしかない。

 おもしろい考え方ですね、と僕は言った。

「木につながれた牛といっしょだ。動かないと縄に気づかない」

「なるほど」

 権力というものは、抵抗しなければ姿を見せない。動いてみないと縄に気づけない。それが加賀美さんの行動原理なのだ。懐かしき左翼、と僕は思った。

   ・・・

「でも、おもしろい考え方じゃない?」

 奈津子がこう言うのはとても珍しい。彼女は基本的に他者の発言を認めたがらない。僕の知る限り、これまで彼女が肯定してきたのは、僕の言葉と、伝説的な死者の言葉だけだ。

「まあ、そうだね」

「馬鹿っぽいけどね」

「まあ……うん、結局、なんとなく抵抗してるんです、ってのを、言い換えてるんだ」

 奈津子はおかしそうに笑って、ストローをくわえた。あの女の人、誰なの? という質問から派生した話だった。先輩の恋人だと説明し、それから加賀美さんの説明をし、初めて美野里さんと出会った夜の飲み会の話になった。

 土曜日だった。僕と奈津子はサンシャインシティでぬいぐるみを一つ買って、東京芸術劇場で演劇を観た。それから近くのマクドナルドへ行き、二階の席に向かい合って座った。店内は浪人生か大学生かフリーターであろう私服の若者たちや、制服を着た高校生たちばかりで、彼らは深刻そうな顔や何も考えてないといった顔をして、参考書と向き合ったり、自己の内面と向き合ったり、彼らの重大事について語り合ったりしていた。奈津子も私立高校の生徒であるが、今日は学校はなかったのだろうか。彼女の自宅に君臨するという厳格な父親の存在を僕は思う。

 ぬいぐるみは彼女の欲しがったもので、奇妙な顔をしたペンギンだ。彼女は僕と一時間ほどさまよった挙句に、結局それだけを選んで買った。劇はデートの約束をしてから、インターネットでこの街の映画館や劇場を調べて見つけ、提案したものだった。若い男女がただテレビゲームをしたり、殴りあったり、セックスをしたり、食事をしたりする、評判の良い現代演劇で、デート向けでは決してなかったのだが、悪いものではなかった。彼女は劇中に二度涙ぐんだ。女が電子ピアノでたどたどしくベートーヴェンを弾く場面と、別の女が灯りの消された部屋で、明らかな理由もなく、唐突に泣き出す場面でだ。わたしもピアノが弾けたのと、劇場を出た後で奈津子が言った。

「プロのピアニストになりたいって思ってた。小学校の、五年生くらいまで、ほんとに。将来はステージで何曲も弾いて――プログラムを想像したりしてた。ベートーヴェンの、月光とか、モーツァルトとか。大好きだったし、本当に、そうなると信じてたの――空が綺麗」僕は彼女に倣って空を見上げてみた。

「——でも、何に打ちのめされたということでもなく、自然と諦めてしまうのね。……先生は? 作家になりたかったとか、学者になりたいとか、野球選手とか、そういうの、ないの?」

「――なかったよ」

「ヴァイオリンは?」

「全然。何となくやってただけだよ」

 きっと僕には夢を見る能力がなかったのだろう。忘れてしまっただけだろうか? そのようなことを独り言のように言うと、彼女は下を向いたまま笑った。そして地面に落ちていた何かを蹴飛ばした。蹴られたものは僕には見えず、ただ彼女の青のスニーカーの先がコンクリートを擦る音だけが聞こえた。

 奈津子はもうジュースを飲み終えて、フライドポテトも残っていなかった。機械の作る飲み物、機械の揚げるフライドポテト。機械の作る――もう出ようか、と尋ねると彼女はすぐに首を横に振った。暇なの、と彼女は言った。それから「ああいう演劇を見て、文学部の人って何を考えるの」と、用意していたらしき質問をした。僕が今ではまともに講義に出ていないということを彼女は知っていたが、それでも僕が文学部の優秀な学生なのだと、まだ信じようとしているようだ。僕がまだ彼女の「先生」として国語と英語を教えていた頃からそうだった。それを僕は何度か否定してきたが、彼女は根気強く信じようとし続けている。

「……なんだろうね。なぜ今あれを上演するのか、とかを考えると、レポートは書きやすいかもしれない」

「例えば?」

「若い男女がただゲームをし、ケンカをし、セックスをし、食事をする劇を、なぜ二〇一二年末にやるのか、それも日本の、東京で、ってのを考えるんだよ」

 ふーん、と相槌を打って、彼女は黙った。これ以上この話題を広げようとは思っていないらしい。そういう作品の見方は嫌いなのかもしれない。僕も嫌いだ。

「……池袋にはよく来るの?」彼女は次の話題を捻り出した。

「それほど……でも、渋谷なんかよりずっと好きだよ」

「どうして?」

「狭いし、坂が少ない」

 彼女は相槌さえ打たなかった。

 池袋を提案したのは彼女だった。それに僕も賛成した。何度か来たことのある町だったし、時間を潰すところもそれなりにあり、おまけに彼女の定期券内だった。

 会話が途切れてからしばらく、彼女は窓の外を見つめていた。虚空を見つめているのかもしれないし、何かを見つけようとしているのかもしれないし、何かから目を逸らそうとしているのかもしれない。僕は窓に映る彼女の瞳を見つめながら、この店を出てそれじゃあ、と別れるところまでを思い浮かべた。これ以上僕らの行ける場所はない。沈黙が息苦しく、溜息をつく。

 その溜息の後の呼吸の隙間にすっと差し込むように、恋人とかいないの? と僕の目を覗きこんで、奈津子は尋ねた。

「――いたような」僕は反射的に好きだった人のことを思い出している。

「昔?」

「そうだね」

「どんな子?」

「どんなか。普通の子。同じ大学の人」

「その子とはいつもどこでデートしてたの」

「池袋でデートしたこともあるけど。あのデートは散々だった。映画はひどかったし食事も不味かったし」

「――どんな子だったの?」

「良い子だったよ。ヴィオラを弾く子で、最寄り駅の知らない職員にバイト先の余り物をあげたり、まだ出会ったこともない人間の幸せを祈ったりしていた。優しかった」

「それ、大丈夫なの?」

「……どうだろうね」

 しばらく僕の顔をじっと見つめていた奈津子は、やがて意地悪げに笑い、ステキな人がいるのね、と言った。つられて僕も笑った。

「そうだよ。けっこうモテる子だったしね。なんで僕なんかといっしょにいてくれたのか」

 なぜいっしょにいてくれたのだろう。思い返せばすべて、一種の哀れみに甘えていただけだったような気がしてくる。彼女にしてみれば、痩せたすずめに餌を与えるような気持ちで、僕の味方をして、僕の誘いに乗ってくれていたのかもしれない。彼女は今どこで、何をしているのだろう、と、ありきたりな感傷に浸る。今日はアルバイトに行く曜日だっただろうか……もう変わってしまったかもしれない、曜日も時間帯も、何もかも。もう会えないだろう、と僕は思った。

「自然に付き合うようになった、みたいな?」 

「いや、結局付き合わなかった」ほとんど叫ぶような声量で若い女が笑い、手を叩く。隣の席の女子高生たち。彼女たちの会話が急に意味を持った言葉として聞こえてくる。そういえばね、私も最近告白されたんだけど、えー、その人、カイジョーの人で、勉強で忙しいとか言って全然会ってくれなくて。カイジョー? どこ? 名門よ。良いじゃん。それでね――。

「恋人って言えるの、それ」

「いや、恋人じゃなかったな。けっこう、仲は良かったんだけど、だめだった。進展させられなかった。ただの友達だった」彼女は恋人じゃなかった。ただ、今、恋や愛といった言葉とともに想起される唯一の人なのだ。わたしの元彼の友達でさ、そいつに悪いから、付き合うのやめようって言われたの、と女子高生が言う。えー。ないない。

「どれくらいまでいったの?」

「どうだったかな」最低。最低だよその男。ないない。

「ほんとに好きだったの?」

「どうだろうね」好きだったのだろう、ほんとに。ほんとは好きじゃないんだよ、と女は言い、そうかな、と女は返す。

「ねえ、わたしはどうなの? その人と比べて」

 奈津子は僕の目を覗きこんだ。

 僕は彼女の二つ結びの茶色がかった髪を見、化粧気のない、しかし色の良い頬や唇を見、ピンクのニットの胸のささやかな膨らみを見た。それはどこか抵抗を思わせた。結局何も変わらない世界、傷一つつかない日常への、ささやかな抵抗。苦笑いを浮かべながら僕は「どうだろうね」と言った。おそらくその笑い方も言い方も、最低のものだった。最低、と隣の席の女子高生たちも繰り返していた。

   

   3

 わたしは裏切り者です。裏切ったんです。

 今年の、まだ半袖で町を歩けるような頃の昼下がりで、オフィス街の真ん中にある木々の葉に守られたその公園はその時間とても静かだった。僕は小高さんと二人で大きな木の陰のベンチに座っていた。その時に、彼はぼそっと、わたしは裏切り者なんですと、唐突にそう言った。僕はその日のその時間をとても鮮明に覚えている。それは僕が初めて解放軍の作戦に参加した日であった。日常的な時間、日常的な空間に、確かに非日常の風が吹いているのを感じ、僕はひそかに、自分でもわからないままに、興奮していた。そんな時に僕は彼の告白を聞いた。僕たちは、歳の差もあって、それほど打ち解けているわけではなかった。ちょっとした会話をすることは何度かあったが、互いのプライベートに触れるようなことはほとんど話さなかったし、それは必要の範囲でのことだった。だから彼がそのように話を始めた時、僕は少し驚いた。

 わたしは裏切り者なんです。そう言って、それから小高さんはゆったりとした調子で語り出した。

 彼の言葉は、土に水が染みこんでいくように、緩やかにしかし否応なく、僕の意識を侵した。僕は相槌も打てないまま、彼の話を黙って聞き続けた。

 生まれて以来ずっと裏切ってきました。それも裏切ろうと思って裏切っているんじゃない。わたしの弱さがそれをさせるんです。

 わたしがまだ学生の頃……とても親しい友人がいました。女の子だった。見てのとおり、女の子にモテた、ことなんかないから……あなたはモテる、のでしょうね。あなたみたいな、頭が良くて話の上手い人がモテるんですよ。……生徒も、あなたのこと噂してますよ。まあ、子供ですけどね。その、わたしは、それで、女の子とろくに会話したことがなかったんです。けど、彼女は、とても気さくに話しかけてきてくれました。それに、いろいろと趣味が、あるわけですが、一致するものもあって。今思えば、彼女が合わせてくれていたのかもしれない。でも、とにかくわたしは、彼女をとても親しい友人だと思っていました。彼女にとってわたしは、数多くの友人の一人であったでしょう。でもそれは、わたしには関係ありません……そういうことは、あなたも十分にわかっているでしょうが、よくあることです。人と人との関係、いえ、人と人だけではありませんが、関係というものは、実は、案外、一方的なものなのです。そういうことはないでしょうか。どうでしょう。

 わたしは彼女を裏切ってしまいました。本当に、今まで持った友人の中でも一番親しいと思っていたあの彼女を、わたしは裏切ってしまいました。あなたは、親しい友人を裏切ったことがありますか? あるいは、あるかもしれません。それはとても辛いものです。わたしは彼女を裏切ってしまった。裏切られるのは、それほど辛いものではありません。あなたにとっても、そうではありませんか? わたしたちは、とても簡単に、いろいろなものに裏切られます。裏切られるのは、とても簡単なことです。いつも裏切られているから、ですよ。慣れるのです。けれど、裏切るのは、やはり簡単ではありますが、しかし、とても辛いものです。この非対称性の原因は、あなたにはきっとわかるでしょう。わたしにはよくわかりません。きっと、裏切りたくなくとも、裏切ったと自覚しなくても、裏切ってしまうことがある、後になってようやく気づくことがある、そういうところなのだと思っていますが、そんな簡単なことだけではないようにも思うのです。

 わたしが裏切るのは、裏切ることのできる人間だからではありません。裏切ることのできる人間というのは存在します。それは、強い人間です。あるいはそれは、必要な強さです。けれどわたしは、弱いために、裏切ってしまう。弱さが、わたしを、裏切らせる。裏切るのはわたしです。弱さではありません。わたしは、こういう事情についてもよくわかりません。あなたにはきっとわかるのでしょう……強くなければ裏切れない。弱さが裏切らせる。わかりませんが、そういうことなのです。これは事実だと思います。そうですよね?

 

 彼はそこで言葉を切って僕の返事を待った。彼の話がこんなところで止まるとは思っていなかったから、少し驚き、何を尋ねられているのかもよくわからぬまま、そうですねと答えた。小高さんは、偉大な成果を確かめるように、何度も何度も、ゆっくりと頷いた。しかしその目には力がなく、力なく開かれた目はぼんやりと動き、ビルとビルの谷間を吹き抜け公園を吹き抜ける風に僅かに混じる秋の気配を捉えようとしているようであった。そこにはもうどんな興奮も残っていなかった。そこで僕は、自分の気持ちが束の間の非日常に久しぶりに高ぶっていたことと、それがもう冷めてしまったことを知った。日は沈む気配を見せ始めていた。

 わたしが傷ついた時です。わたしが彼女を裏切ったのは、わたしが傷ついた時でした。あの子を傷つけないために……あの子や、あの子たちを傷つけないために、わたしが傷ついた時、わたしは逃げました。傷、といっても、大したことではありません。しかしそれは、わたしのような臆病者を逃亡させるには、十分すぎるほどの傷でした。実際は、痛みなんてまったくない、本当に小さな、傷です。そういう傷もまた、とても危険です。そうですよね? 気をつけなければならなかったのです。わたしは逃げました。それは、自分が逃げるためでもありますし、彼女を傷つけないために、逃げたのです。けれども、傷ついたのはわたしだけで済みました……わたしの、その、痛みのない傷、だけで済んだのです。わたしは、すべてを背負って、逃げおおせたと信じていました。けれども、実際は、そのすべてなんて大したものじゃない、痛みのない傷にすぎないものだったのです。そういうことはとてもありふれています。そうでしょう? 感覚というものは、もうまったく信用できません。感覚も、解釈の仕方も、全部、人それぞれなのですから、そういったものはすべて信用してはいけません。そうでしょう?

 そう、だから、わたしだけがそこからいなくなりました。わたしだけが逃げ出したのです。わたしだけが臆病者で、卑怯者で、あの子やあの人の、敵になったのです。わたしだけが外にいるのです。わたしだけが……わたしは彼女を裏切りました。それはある意味では、わたしに対する裏切りでもあったと、わたしは思うのですが、これは、誤りなのでしょうか……わたしには、わかりません。あなたにはきっとわかるでしょう……でも、言わないでください。わたしはもう一切、救われたくないのです。少しの救いがあるのなら、何もない方がいいのです。あそこに戻れないのなら、もう一切の救いは、いりません。そうですよね? 喪われたものは取り戻せない、けれどもわたしは、喪われてしまったもののほかに望むものはないし、そういう人間が、救われることなど、ないのです。ありえない……。

 彼は清々しく誇らしげな表情で語り終えた。そして、声もなくゆっくりと立ち上がり、去っていった。僕はそれを見送った。僕は立ち去るわけにはいかなかった。

 アルバイトの終わったあと、池袋の公園で、僕はその日、あの女性を待っていたのだった。映画を観る約束をしていた。彼女と大学から離れたところで二人で待ち合わせて会うのは、その日が始めてだったかもしれない。思えばあの頃奈津子は生徒の一人だった。奈津子は僕にその日のことを、彼女のことを思い出させ、混乱させた。奈津子は僕に様々なことを思い出させた。美野里さんのことや、加賀美さんとの決別や、もう二度と関わりを持たないであろう人々のことを。

  

   

   4

 

 今が大嫌いなんです、と僕は言った。会議のあった日の夜、僕と、加賀美さん、美野里さんの三人で居酒屋に入った。そこで、美野里さんが席を外して二人きりになってすぐに、加賀美さんが僕に、お前はなぜ解放軍に参加したのか、と聞いたのだ。加賀美さんはおそらく二人きりになるタイミングを待っていた。そして僕は、そのように答えた。今が大嫌いなんです、今、ここにあるもの全てが大嫌いなんです、と。僕はそれ以上にぴったりな言葉を持っていなかったし、そしてまたこれが唯一本当のことであると信じていた。これ以上何を付け足しても、それは嘘になってしまうように思えた。加賀美さんは一度だけ頷き、そうか、と落ち着いた声音で言った。

 こっそり根をのばされて、選べる選択肢は一つしかないという状況にされる。全部そうじゃない。気づいたら、他の道は全部塞がれている。本当は道のないところにだってわたしたちは行けるはずなのに。わたしたちはそれを選択する。そして、お前が選んだんだと言われる。文句を言おうにも、相手はいない。わたしたちから選択肢を奪うものは、常にわたしたちの声の届かないところにいる。だから、わたしは抵抗する。

 いつか奈津子の僕に言ったその言葉が、ふと思い出された。加賀美さんの問いに、彼女であればそのように答えただろうと僕は思った。その言葉は「今が大嫌いである」という言葉よりもずっと切実であり、故に視野狭窄に陥っているとも言えた。だが僕には、奈津子の言葉の方が、自分のそれよりもずっと真摯に現実と向き合っているように思えた。それに力を感じた。僕の言葉よりもずっと、人やものごとを動かす力がある。

 それから加賀美さんは、俺は美野里を疑ってるんだ、と机越しに身を乗り出して僕の耳元で言った。煙草や食事の臭いの混じりあった口臭がきつかった。彼は声を潜めようとはしたのだろうが、結局大きな声でそれを言い、僕は眉をひそめた。そうですかと僕は答えた。彼の口角は上がりっぱなしになっていたから、さほど重要な話であるとも思わずに、僕は頷いた。何か、嫌な種類の冗談だろうと思った。

「俺はな、昔から、何度も何度も裏切られてきたんだ。本当に危なかったこともある。仲間は、最後は、いなくなるか、裏切るかだ」

 お前は裏切らないでくれよ。僕は頷くことができなかったが、おそらく彼はそれを見ていなかった。彼のよく動く瞳がいったい何を見ているのか、僕にはわからなかった。

 加賀美さんは再び背を壁につけて、大きなあくびをする。そこへ美野里さんが戻ってくる。美野里さんは黙っている二人を見て「ひどく酔ってるのね」と言い、店員を大きな声で呼び、加賀美さんの隣に座った。加賀美さんは目をつぶり、口角は上がっていた。それは美しい夢を見ているようでもあったが、そんなはずはなかった。僕は加賀美さんを心配そうに見つめる美野里さんを見つめた。胸に不快な気体が充満するのを感じ、僕は席を立ちトイレに向かった。店員とすれ違った。お冷を三つ、と言う美野里さんの声が聞こえ、僕は急いだ。

 僕が戻ってきた時、加賀美さんは美野里さんに煙草の箱を見せ、その銘柄の由来を説明していた。鍋の淀んだ茶色の液体に浮かぶ油の膜や沈む野菜や肉や何かの欠片を見、僕は座ることもできず再びトイレに向かった。

 

    

   5

 美野里さんと初めて会ったのは、文芸サークルの新歓の飲み会だった。オーケストラの先輩であった加賀美さんに連れられて行ったのだ。彼はその文芸サークルにも所属していた、というよりはそちらの方に重きを置いていた。実際、彼の楽器の腕前はひどいものであったし、気性として合奏にも向いていなかったように思うのだが、頭が良い、という話は何度か聞いた。よく本を読んでいるようだった。

 それは今年の、ちょうど僕が本当に小さなことで悩み、オーケストラを辞めようと考えている頃であった。そういう話を聞いた加賀美さんが彼なりに気を利かせて、僕を誘ったのであろうが、僕は結局そのサークルには入らなかった。興味が無いこともなかったのだが、連絡をしないでいるうちに行きづらくなってしまったのだ。

 美野里さんは法学部の四年生で、加賀美さんと付き合っていた。加賀美さんに美人の恋人がいるという話はオーケストラの方でも聞いていたが、ここまで、仲睦まじい様子を見せられるとは思っていなかった。飲み会も終わりに近づいた頃、隅の方の席で水を飲んでいた僕のところにやってきて、一年生の時からずっと、と美野里さんは言った。その時、僕は上手く彼女と会話することができなかった。話のいまいち咬み合わないまま、上辺だけ笑顔を浮かべたりしながら二人でいて、やがて飲み会は終わった。

 先輩と美野里さんと駅の方へ歩いていく途中で、三人で二軒目に行こうという話になった。僕は断ったが、断り切らなかった。

   6

 真実真実言う人間ってのはさ、結局、自分にとって都合の良いことしか真実と思ってないんだ。

 当たり前だ、と僕は思う。

 冷たい小雨が降っていた。雨に濡れたコンクリートに跳ね返る町の灯りが眩しく、走る車の音も、人ごみの音も、いつもよりもずっと不快だった。僕は右手をコートのポケットにしまい、左手に折りたたみ傘を持って、駅へ向かう人々の中にいた。

 ポケットの中で折りたたみナイフを握り締める僕の右手は汗をかいていた。僕の隣には加賀美さんがいる。彼は彼で、傘を持つ手を頻繁に替えていた。加賀美さんのポケットにもまたナイフが入っている。前時代的な武器だが、これでやるのが一番シンプルにすむ。それは加賀美さんが師と呼べるという男から教えられたことだった。その師は日本軍に捉えられ、それ以来消息がわからないという。拷問にでもかけられて、彼らの既に知っていることばかりを喋らされ、そのまま殺されたのだろう。加賀美さんは意識にちらつくその師の影を追い払おうと、ひたすら口を動かし続け、傘を何度も持ち替えた。

 二人で歩き出してからずっと、荒れた海を行く船に乗っているように、世界が揺れているというような感覚があった。光も、声も、どこかで跳ね返ってから自分に届いている気がした。頭痛もある。すべて共通する原因から来るものに違いなかった。僕は不調を訴えた。話しているのを中断された加賀美さんは、特に気にする様子も見せず、精神的なものだろう、とだけ言った。それからしばらくして、再び彼は口を開いた。

「真実という言葉は、最も恣意的に使われている言葉だよ。本当の真実ってものは、俯瞰的な視点に立ってはじめて見えてくる」

 嘘だ、と僕は唇を動かす。言葉は雨に溶けて流れていく。

 加賀美さんの話は選挙に関することから始まった。まもなく解散総選挙か、との報道があったからだった。それから民主主義の理論の話になり、西欧の思想家の日本論の話になった。それから加賀美さんはそれらを少しずつ混ぜ込んだ持論を語った。その時の僕には、彼の話は町の喧騒よりもずっと耳に障った。彼の語ることに、ほんのわずかも賛同することが出来なかった。そして、そのことに僕は罪悪感を抱いた。こんなことは今まではなかった。加賀美さんは自分を信頼してくれていたし、自分も彼を信頼し尊敬していた。

 赤信号に立ち止まる。横断歩道を渡った先には駅がある。駅前の植木をクリスマスの電飾が飾っている。ただ巻きつけられるところに巻きつけたような電飾は日常的に過ぎ、目を留める者は一人もいないようだった。顔を上げ、高いところを見る。霞の向こうで鈍く点滅する赤い航空障害灯。暗くなりきらない灰色の空。視線を落とす。

 信号が変わる。僕らは横断歩道を渡る。大きな傘のほとんどをいっしょに歩く女の方にかざし、濡れている男の右肩が僕の傘にぶつかる。すみません、と僕の言う前に、笑い合いながら行ってしまう。横断歩道の掠れた灰色の線を踏んで歩く。黒い靴ばかりだ、と僕は思う。それらが路上の水を蹴る音が鼓膜を刺し、脳に触れる。鳥肌が立つ。

 駅舎の喧騒の中で傘をたたむ。加賀美さんが何かを言った。僕にはそれが「裏切るなよ」と言ったように聞こえた。しかし、実際にはそうではなく、すぐに聞き間違いであることに気づいたが、その聞き間違いは僕にさらなる罪の意識を与えた。加賀美さんの背中が人混みに消えるのを最後まで見送った。

 改札を見渡せる位置で柱に寄りかかる。深く息を吐き出し、カラスが改札を出てくるのを待つ。ポケットの中で折りたたみナイフを握る。ついさっきまで握り締め続けていたからだろう、ナイフは生温く、湿っている。

 電車が到着する度に改札の隙間から人が流れ出た。一人一人の顔を確認するのは思ったよりも困難だった。しかし、三度目に流れ出た集団に、カラスの姿を見つけた。黒のスーツを着、ショルダーバッグをかけ、顔に疲れがにじむ、特徴のない男。しかしすぐにわかった。歩き方やちょっとした仕草、人の避け方や表情や、何もかもがしっくりときた。

 傘を差し、尾行を始める。

 十メートルほどの距離を保ってカラスを追跡した。雨は小降りになっていて、傘を差さずに歩く者もいたが、僕はそれには気づかなかった。

 カラスは線路沿いの道を歩いていった。彼の歩幅は安定しており、一歩一歩型から外れることなくコンクリートを踏んでいった。僕はカラスとの距離を保とうとして、無意識のうちにカラスと同じように、等間隔の歩幅で歩くようになっていた。やがて僕とカラスの間を歩いていた人が道を曲がり、線路沿いを歩いているのは二人だけになった。

 カラスの歩みが急に遅くなる。動揺し、立ち止まってしまいそうになるが、なんとか歩き続ける。カラスはただ傘をたたもうとしただけであった。彼は大きな黒い傘をたたみ、とんとんと地面を突いて雫を落とし、再び元の正しいペースで歩きだす。僕はそれを見て雨の止んでいることに気づき、慌てて傘をたたむ。うまくたためず、無理やり紐を巻いてボタンをとめる。

 駅から離れ、あたりは既に静かな住宅地になっており、人通りもなくなっている。遠くからかすかに車の雨に濡れた道路を走る音が聞こえる。ある一軒家からはピアノが同じ旋律を何度も繰り返し弾く音が聞こえる。遠くから救急車のサイレンが聞こえ遠ざかる。航空機のエンジン音が近づいてきて、カラスは空を見上げ、つられて見上げるがただ灰色の雲が広がり航空機の姿は見えず、やがて遠ざかる。アパートの脇でがたことと何か重い物を動かす音やシャワーかキッチンで水を流し続ける音が聞こえる。そして、カラスの革靴と僕のスニーカーがメトロノームのように規則正しく刻む足音を、僕は意識し続けていた。聞きながら呼吸を整え、再度後ろに誰もいないことを確認する。そろそろだ。足を速め、少しずつ距離をつめていく。

 情報どおりの場所でカラスは線路の下をくぐるトンネルへ消えた。彼が見えなくなって、どくっと心臓の強く脈を打つのを感じた。そのまま鳴り続ける心臓の音に眩暈を感じながら、カラスを追って道を曲がる。彼は一歩先を歩いている。突如湧いた彼の肉体の存在感に圧倒されながら、ポケットの中でずっと握り締めていた、しかし手に馴染まないままのナイフを取り出す。狙う場所をイメージする。一歩踏み出せば届く。僕はそれを突き刺し、えぐり、手を離し、止まることなく歩き続ける――ナイフをしまい傘を地面に放り捨て、携帯電話を取り出した。そして履歴の一番上に電話をかけた。呼び出し音が反響するのに驚き、小走りでトンネルを出た。

「すいません」

 そう言う僕の声がかすれていた。

「できませんでした」

「バレたのか?」

「……人がいて、できませんでした」

「……落ち着いて、家に帰れ」

 彼には自分の言ったことが嘘だとわかっただろうと、通話を終え、傘を拾ってから僕は思った。僕が返事をする前に、加賀美さんは通話を切った。僕が失敗した場合、カラスの家の近くで待ち伏せている加賀美さんがカラスを刺し殺すことになっていた。それには危険が伴った。

 近づいてきた電車が、やがて質量と轟音で僕の立つ地面を揺さぶり、そして通り過ぎた。

   7

 恋愛って、そんなにステキなものかな――それは確かに意味を持った言葉として聞こえてきたが、自分に向けて発せられたものだと気づいたのは、美野里さんがバッグを机の上に置き、向かいの席に座ってからのことだった。それでようやく、それが彼女の声で、僕に向けられたものだったのだと気づいた。彼女はコートを脱いで椅子に掛けた。僕は読んでいた文庫本を机に伏せ、お久しぶりです、と言って、柱に架けられた時計をわざとらしく見上げて、立ち去ろうかとも考えたが、何かそれを許さないものが彼女の微笑みにあった。久しぶり――奈津子と大学を歩いた日に会ったのだ。思えばそれほど久しいわけではない。

「久しぶりね。――ねえ、どう思う?」笑顔のままで彼女は言う。視線をそらした僕は彼女のバッグに書かれたフランス語を読んでいる。

「……恋愛。それなりに価値のあるものみたいですよ」

「なぜそう思うの?」

 彼女がそう問うことに僕はある種の重みを感じた。彼女はバッグからペットボトルのお茶を取り出して一口飲み、コンビニのおにぎりを取り出して、ぴりぴりと包装を破いた。遅い朝食なのか早い昼食なのか微妙なところだ。兼ねたものかもしれない。後れ毛を耳にかけて、噛み付く。赤い唇を舐める。僕は破かれ机に置かれたおにぎりの包装に目をやる。

 講義棟の中にあるラウンジは、大きなガラス窓があり、空気は空調によって機械的に均一に暖かく、人が少ないうちは居心地が良かった。正午頃になると学生でいっぱいになるのだが、今はまだ三、四人がそれぞれ別のテーブルを使っているのみで、静かだ。女子学生がペンでノートに何か書いているのも、ジャンパーを着たままの男が突っ伏して眠っているのも、音としては届かない。女子学生の表情は髪に隠れていて見えない。僕は美野里さんから目を逸らし、女子学生の髪がペンの規則的な動きに合わせて微かに揺れるのを見つめる。ペンが右から左に移動し、右に向かって文字を刻み、再び――。

「……価値。価値ってなんでしょうね」

「君が言ったんじゃない」

「例えばお金には価値がある」

「恋愛の価値というのはそういう価値なの?」

 ずっと見つめていると、女子学生の動きから現実感が消えていく。機械じみて見えてくる。僕は視線を美野里さんに戻す。美野里さんはペットボトルのラベルの文字を読んでいるようだ。

「美野里さんは、どう考えているんですか?」

「さあ、考えたことない」いかにも興味なさげに彼女は答える。

 それから彼女は沈黙の中で、僕に見られたままおにぎりを食べ続けた。食べ終えて、唇を舐め、指を押し当てて、それからお茶を飲み、それから、あ、と声を出した。

「邪魔だった? ごめんなさいね。ただ見かけたから来ただけなの。それ、読んでていいよ」

 彼女は机の上の小説を見て目を細め、「古めかしい小説だね」と言った。

「知ってますか?」

「知らないけど、古そう」

「五十年ものです」

「ふうん。小説っていつからあるのかな」

「どうでしょうね。源氏物語は千年前、ドン・キホーテは四百年前」

「意外と新しいのね」

「よく知らないですけど、やっぱり、ここ数百年のものじゃないですか」

「それ、おもしろい?」

「まあまあです」

「なんで読んでるの?」

「一応勉強のつもりです」

「作家になるの」

「……卒業のための勉強、というか」

「小説が好きなの?」

「……あまり好きじゃないかもしれません」

 複雑なのね、と美野里さんは言った。

 僕は小説を手に取って栞をはさみ、閉じて、再び机の上に置いた。美野里さんはそれを待っていたかのように、手を伸ばして本の表紙を撫で、そっと持ち上げて、適当なページを開き、ゆっくりとめくっていった。僕はその無駄なく動く細い指と丁寧に磨かれた爪を見た。彼女は不意にページをめくるのを止めて、文字を目で追い始めた。わたしも小説は嫌い、と彼女は言った。嫌いそうですね、と僕は答えた。彼女は口を閉じたままくすくすと笑う。小説に笑った、のではないだろう、おそらく。微笑みながら、彼女はページを一枚めくる。

「あの子、おさげの子は、彼女?」表情を変えないまま彼女は言った。一昨日のデートの結末が思い出され、僕は意識して穏やかに呼吸をする。

「教え子です、昔の、バイトの。子供ですよ」

「高校生ってこと? たいした差じゃないじゃない」

「でも、条例に引っかかります。てか、ほんとはそもそも会うのがまずいんですけどね」

「ほんとはそんなこと思ってないくせに」彼女はページをめくる。既に微笑んではいない。瞳は上から下に流れるように動く。

「僕は年上が好きですよ」

「それは、統計的に?」

「いや……」

「あの子はわたしのことが嫌いでしょうね。そういう表情してた」   

 あの子――そう彼女は言い、やや乱暴に本を閉じて机に置いた。バッグから携帯を取り出す。折りたたみ式の携帯。長く使っているのだろう。淡いピンク色の塗装はだいぶ剥がれてしまっている。

「あの時、ちょっと見ただけじゃないですか」そう言いながら僕はあの時の奈津子の表情を思い出す。そういう表情――。

「わかるわよ、ちょっと見ただけでも。ああいう子には嫌われるの。ああいう、素直というか率直というか頑固というか、そういう子でしょ?」素直。思わず笑う。

「あの子はものすごく捻くれてますよ」

「捻くれているのはわたしたちの方なのよ」彼女はぱちんと小気味よい音と共に携帯を閉じる。

「わたしはああいう子が大好きなのに、ああいう子はわたしのことを嫌うの。昔から」

「昔?」

「そう、昔。……君にも、昔と呼んでしまいたいような頃はあるでしょ?」

「たくさんあります。若いのに」

 彼女は一瞬顔の動きを止めて、それから口元を携帯を持った手で抑えて笑った。妙にフィクショナルな笑い方に見えた。一昨日観た芝居の俳優とはまた違った類の芝居の俳優じみている。

「美野里さんは、女優さんみたいですね」

「――そう? 演技っぽいって意味で言ってるなら、そのとおりかもしれないわ。女優になりたいと思ってたの。だから、意識的に演じて生きてきたの、子供の頃から。昔からね。それで、どうも、そういう振舞い方が、自然になってしまったのね」

「今は、諦めちゃったんですか?」ちょっとした思いつきが当たっていたことに驚きながら、言葉を続ける。思いがけず踏み込んではいけないところに踏み込んでしまったような、なぜかそんな気がしたが、後戻りも、踏みとどまることもできなかった。ただの少女時代の夢だろうとは、なぜか思えなかった。

「もちろん」

「残念ですね。でもきっと、女優ってそれほど良い職業じゃないですよ」

 

 夢が叶ったその時、その場所が、心地よいとは限らない。結局、この日常に外側はないのかもしれない。それでもわたしたちは夢を見続ける。これは、愚かなことかな?

 僕は彼女の顔を見た。それが彼女の口から出た言葉だと、すぐに認識して済ますことのできない、妙な違和感を覚えたのだ。自分の内側の声のようだと思った。それに、あまりに非日常的な語彙だった。

 あたりがざわめきはじめる。女子学生たちの刃物のような鋭い声や蜂蜜のような声、それらが日常的な語彙を叫び、ギターを背負った茶髪の男が階段を駆け下りてくる。気づけばまわりの席の多くは既に学生の集団で埋まっていて、眠っていた男はいなくなっている。何かを書いていた女子学生は、間に座る人や荷物で見えない。やはりもういないかもしれない。

 僕は問いの意味を考える。夢が叶えば幸せとも限らない。単純化すればそういうことだろうか。そうは思いません、と僕は言った。僕はある程度声を張り上げなければならなかった。

「やっぱり、夢というものにも何らかの、一定の、価値、があるんだと思います。さっきの、恋愛と同じで、価値があると一般に信じられているということが、価値の意味ではないですか?」

「制度的な価値だとしても」

「この日常に外側がない、とすれば、制度的な価値と、本当の、価値の差もないことになる気がします」

 そんなものかしらね、と彼女は言った。わからない、と僕は言いたかった。自分の言葉の薄っぺらさが、恐ろしいとさえ感じられた。他人に喉と口を奪われてしまったようだと思った。美野里さんはバッグに携帯をしまい、友達に会わなくちゃいけないの、と言った。

「友達?」

「そう」

「時間を潰していたわけですね」失礼な言い方をしてしまった、と口にしてすぐに思ったが、彼女は気にする様子を見せずに立ち上がった。

「口説きに来たと思った?」

「スパイかと思いました」

「小説の読みすぎよ」と、僕の側まで来て軽く腰をかがめ、耳元でそう囁くように言い、彼女は去っていった。

 一番聞きたかったことを聞くことができなかった。そう思いながら、呼び止めることも振り返って見送ることもしなかった。一番聞きたかったこと。彼女の方は、僕にそれを聞いたのだろうか。

 

   8

 加賀美さんと最後に会った日を、僕は虚構に織り交ぜる。虚構には、現実の記憶を取り込んで、それさえも虚構のように見せる、そういう力があった。現実が虚構を現実のように見せる力を持つように、だ。小説の中で、僕はその日、カラスと呼ばれる男を刺そうとして、失敗する。カラス。極めて凡庸な悪の象徴。

 この小説を構想した時には、加賀美さんと美野里さんだけがいた。それから奈津子が加わった。小説の中で、僕はY線を爆破することになるが、その頃には既に奈津子が登場し、二人で行動している。小高さんは、僕に個人的な話を穏やかに聞かせた昔のバイト先の同僚でもあり、小説の中では同時に、僕の一部でもある。それを言ってしまえば、すべての人物に僕の一部だと思わせるところがあった。

 それは現実もそうなのだと、凡庸なアフォリズムにまとめてしまうこともできる。すなわち、僕は、僕から離れて現実を認識することができるはずもなく、故に、現実には僕が混ざっている(ではその逆は?)。

 小説にはもうひとりの登場人物がいる。あの女性、あるいは彼女、とそう呼ぶその女性は、現実に気づけば僕の意識に忍び込んでいるのと同じように、小説の物語にも忍び込んでいた。彼女――彼女だけは、僕の一部を持つような登場人物たちとは違う次元に存在している、と、そういう感覚がある。彼女は小説の中で名を持たぬまま、しかし幾度もその名を呼ばれている。

 高校生の頃から、ずっとパソコンで小説を書いてきたが、大学に入った頃にそれら全てを削除してしまった。それから今年の夏の初めまで、一度も小説を書こうとは思わなかった。削除してしまったものの中に読むに堪えるものはなかったし、今もまだそのようなものは書けない。それは半ば後付の理由だが、確かにそのとおりである。そもそも小説は書かなければならないものではないのだ。書いたものを消すこと、書かないこと、それは少しも悪いことではない。

 しかし、小説を書かなければならないと感じたのだった。いや、書かなければならないと、そういう義務の形で意識したのは、むしろ書き始めてからだった。きっかけは孤独。そしてまた、僕は何かを喪い、更に喪おうとしていた。それらの、喪われた、あるいは喪われてしまうもの。また僕は怒っていた。僕から奪い、僕を損なわせる何かに対して。そうした怒り。しかし僕にとって文章を書くということは動機に反して乏しい理性の領域の仕事である。痛切なはずの思いをことごとく対象化し、他者のそれのようにしてしまう力が文章にはあった。それに気づいたのはこの小説を書き始めてしばらくしてからであり、それは自身への背信であるとどこかで感じていながら、僕は書き続ける。語り続ける。

   9

 講義棟は階段を上ったところに出入口がある。階段を上りきった左手はちょっとした広場になっていて、テラス席があったり背の低い木が生えていたりする。暖かい頃には学生も多く、小鳥が飛んできたりもするのだが、今は、小鳥の姿を見かけることはないし、学生たちも建物の中に引きこもっていて、ここにはいない。背の低い木々も葉を落としている。

 小鳥。小さな鳥たちが、おそらくキャンパス内のどこかに巣を構えていて、暖かかった頃にはこの広場を歩きまわり何かをつついたりしていた。通りがかる人々と一定の距離を保ちながら歩きまわる様は、何か落し物を諦め切れずにいるようにも見えた。

 暖かかった頃、悩みを抱えながら、ベンチに座ってその様子を眺めていたことがあった。

 悩み。抱えることのできてしまうような悩みは、もちろんたいしたものではない。

 授業の行われている時間で、人は少なかった。僕と彼女は講義棟出入口近くのベンチに座って、何をするでもなく、長い間そこにいた。時々ぽつぽつと言葉を交わし、あるいは独り言のように語り、相槌を打ち合ったりした。僕の隣で彼女は、生協で間食にと買ってきたチーズケーキの一ピースを細かくちぎって、人目のない時を見計らって、地面にそっとまいた。するとすずめが寄ってきて、我先にとそれを啄むのだ。あの日、彼女のまいた餌に寄ってきたすずめは二匹で、それはつがいか何かだったのかもしれないが、片方はふんわりと太っていて、片方は痩せていた。かわいそう、と、その痩せたすずめを見て彼女は言った。あの大きい方に取られちゃうんだね。二匹のすずめは寄り添って歩き回っていたが、彼女のまいた欠片の多くを、確かに太っている方のすずめが啄み、それの啄み損ねたものを痩せた方が食べていた。やがて二匹はいっしょに飛んでいった。彼女は僕の隣で、笑ってそれを見つめていた。彼女の笑顔はいつも涙をこらえて笑っているように見え、僕はそれを見る度にどぎまぎした。

 階段を上りきった時、ふとそのベンチが目についた。そしてすぐに目を背けた。

 いつもの席に座って文庫本を開く。前とは違う本だ。実のところ、開く本は何でも良かった。この頃はもうどのような本も読み通すことができなかった。言葉の上を目が滑っていく。興味を持つことはあったが、手に取るとすぐに飽きてしまう。ただ、何もしないでいるよりは、本を開いている方がマシだった。そうして、読み終えられない本が積もっていく。

 僕の右隣の椅子の背もたれに、小さな手が触れ、その手が僕の方に小さく振られた。僕はそれを視界の端で見て、それから赤いヴィオラケースが視界に入り、顔を上げた。狭い練習室での合奏、飲み会の隅の方でこっそりと話したことや、何時間もいっしょにプレイしたゲームの効果音。彼女を悩ませているその小さな手と、その赤色のヴィオラケース。本を閉じて机に置く。一度にたくさんのことが思い出された――すべてもう取り戻せないもの。彼女はあの泣き出しそうな微笑みを浮かべて僕のことを見つめていた。小さな子どもの悪戯に困らされながら見守るような。久しぶりだね、と彼女は言った。

「授業だったの?」

「うん。今終わったの」

 階段からぞろぞろと下を向いた学生たちが降りてきている。僕は時計を見る。

「もう今日は終わり?」

「うーん……帰ってレポート書かなきゃ」

 断ってくれているのだ、と僕は思う。僕はそれを言葉通り受け入れる。しかし、僕の外に出さない感情は、僕の内側で何度も反響し、打ちのめされ、歪んでいく。

「そう。もう、すぐ帰るの?」

「うん。ごめんね?」

「――駅まで行こうか」

「帰るの?」

「うん。別にここにいる必要もないんだ」

 僕は本をバッグにしまう。彼女が僕の動作を見つめているのを感じながら、僕は半ば後悔している。

 僕と彼女は並んで歩いた。僕は下を向いて歩いた。授業、ちゃんと出てる? と彼女が尋ね、出てるよ、と僕は答えた。授業、全然かぶらなくなったね、と彼女は言う。前はけっこうかぶってたのに。僕が講義に出ていないことを彼女は知っているのだろう。そうだね、と僕は答える。数歩先のアスファルトを見つめながら歩く。もう少ししたら彼女の誕生日だったな、と僕は思う。

 待ち合わせに混み合う校門を抜けて、信号を渡る。こっちでいいの? いいよ、と僕は答える。僕らは早稲田駅から、違う方向に向かって帰らなければいけなくて、僕はここで横断歩道を渡らない方の入口から入った方が効率がいいのだ。それはもちろん彼女と出会った頃からそうで、そして彼女と出会ってしばらくしてからはいつも二人で横断歩道を渡ったのだけれども、こっちでいいの、と尋ねられるのは、初めてだった。

 ちょっと待ってて、と言って僕は本屋に入る。彼女は何も言わずに、二歩ほど遅れてついてくる。僕は単行本のコーナーに向かいかけて止め、文庫本の棚を眺める。何かあるはずだ。僕はそれを探した。そして、これならいいだろうという本を見つけた。

 誕生日プレゼント、と本屋を出てから袋ごと買った本を渡す。ちょっと早いけど、なかなか会えないから。

「え、うそ。ありがとー」

 彼女は袋を受け取り、本を取り出し、改めて表紙を見つめ、「難しそう」とわざとらしく顔をしかめてみせ、微笑んだ。

「イギリスの作家……ちょっと難しいかもしれない。でも良い本だよ」彼女は読まないだろうな、と僕は思う。

「ふーん……ありがと、わたし、来年は本を百冊読むって決めたの。今年はもう無理」

 いろいろなことがあって、ハードな時期に、『あなたは絶対運がいい』なんてタイトルの本を読んでしまうところが、本当に好きだったのだ、と僕は思い出す。

 僕たちは駅の前に着く。階段を下りて、改札の前まで送ろうかとも思ったが、やめた。これ以上嫌な気持ちにさせることもないだろうと思ったのだ。ただ、最後に、もう会えない気がするよ、と僕は呟いた。誰にも聞こえないように。

 彼女は何も言わず、本の表紙を見つめていた。それから、じゃあ、またね、と言って手を振った。困ったような、泣き出しそうな笑顔を浮かべていた。そういう笑い方をする子なのだと何度自分に言い聞かせても、その笑い方をされる度に、また困らせてしまった、と僕は思った。彼女が階段を下りていくのを見送ることもせず、僕は横断歩道に向かう。

 T線のホームで電車を待つ。なぜ僕は、彼女にこうも、作られた言葉を届けるようになってしまったのだろう。彼女に、だけじゃない。僕の言葉は常にどうしようもなく作られている。そういうものなのかもしれない。言葉というものは借り物なのだ。ちがう、と僕は思う。言葉はかつては確かに僕の言葉だった。少なくともそういう感覚があった。いや、そうではなく、言葉が誰のものか、自分の言葉は作られたものではないかと、そんなことを考える必要がまったくなかった。何にせよ、問題は感覚だ。しかし、では、なぜ、何が、変わってしまったのか? いつ? 問いは反響を繰り返し、やがて闇へと溶けていく。

 地下の闇が僕を包み込もうとして拡がるのを見る。

 何かが僕の背中に触れるのを感じる。

 その感覚は、ホームに進入した電車の音と風にかき消される。

   10

 

 ことり、とベッドサイドテーブルに何かを置き、髪を抑えながら頭を枕にそっと沈め、ふう、と息を吐き出してから僕の方に顔を向けた。彼女は何か言いたげに僅かに唇を開いたが、その隙間から息の吐き出されるよりも前に二人の唇は触れ合った。彼女の唇は乾いていたが、すぐに馴染んだ。長い間、二人は唇を重ね続けた。その間も僕は胸を圧迫し呼吸を苦しくさせる感情に耐えていた。

 唇は離れ、彼女は僕の目を見つめる。暗くしよう、と僕は呟く。同じことを何分か前にも僕は言った。これで彼女にとっては十分に暗かったのであろうが、僕には不十分だった。彼女は無言のまま腕を伸ばして、枕元のダイヤルを操作する。より濃くなった暗闇の中で僕は裸の腕をシーツから出し、彼女の湿った髪を撫で、指で梳く。シャンプーの強い匂いが溢れ出る。

 彼女を仰向けにし、身体に触れる。彼女が息を、深くゆっくりと吐き出すのを聞く。僕は、何か――僕の脳の、認識や欲望の奥深くにあるものを彼女の身体のどこかに見つけようとする。彼女の鼓動を聞き、彼女の鎖骨を撫で、胸を撫でる。肩を撫で、抱き寄せ、押し返し、舌で舐め、歯を当てる。彼女はほとんど反応らしい反応を示さなかった――僕は彼女の反応に気づかなかった。僕は混乱していた。彼女の表面のあらゆる場所を撫で、あらゆる場所への侵入を試み、殺してしまった、と僕は口にしたようだった。

 わたしだって殺したよ、と彼女は言った。彼女は階段を下りていく。暗闇の中で僕は彼女を求める。

 その空間はとにかく真っ暗で、目を開いているのか閉じているのかさえ定かではなかった。それくらい暗くしなければだめだったのだ。それは彼女の求めたことだった。それは夏の終わる頃で、風が秋の粒子を微かに孕んでいるような、そんな夜だった。その暗闇の中で僕は彼女を求め、彼女はそれを受け入れた。僕の手は彼女の核心、彼女の暗闇のもっとも深い場所に繋がる隙間を探してその肌の上を這い、彼女は片手を僕の頭の後ろに回して抱き寄せ、やがて僕の手に自身の手を重ね、ゆっくりと自身の性器へ導いた。彼女の吐息が僕の頬にかかった。彼女は僕の身体の上に身体の半分を乗せながら、窮屈そうに動いた。

 僕は強く彼女を抱き締める。そこにはただ熱と、柔らかさと抵抗と、時々乱れる呼吸とどちらかの、あるいは二人の鼓動の音だけが存在していて、その中に溶け込んでいきながら、それでも、絶対的な境界が僕に致命的な絶望を感じさせ、絶え間ない存在への侵犯によってそれを埋めた。

 やがて網膜は空間にわずかに存在する光を感受していた。そして僕の感覚が僕の精神と肉体の境界をとらえ、空間と時間を掴み、彼女の存在を対象としてとらえはじめた頃、僕は誰だろうと僕は呟いた。その言葉は僕を思考の底へと引きずり込んでいった。僕は眠ろうとしている。

 知らないよ。わたしは誰? と彼女はささやいた。僕は目を閉じ、暗闇へと向かう。わたしは誰? と彼女が言う。彼女の鼻が僕の鼻に触れる。彼女の二つの瞳が重なる。僕は眠った。

 僕は朝まで眠り続けた。そして、とても長い夢を見た。

   ・・・

 その車両の中には無数の男がいる。目の前には奈津子がいて、向こうには加賀美さんがいる。奈津子がパーカーの紐の先を弄る。加賀美さんは揺れる電車の中で直立している。僕は加賀美さんの名を呼ぼうとして、声の出ないことに気づく。僕は奈津子と共に電車を降りる。そうするしかなかったのだ。網棚の上には爆弾がある。それは目白を過ぎたところで爆発した。僕は加賀美さんを殺した。裏切ったのだ。そうですよね? と小高さんが問う。何を尋ねられているのか、本当にはほとんどわからないまま僕は、そうですねと答える。彼は満足気に頷く。

 僕は線路沿いの道を曲がりトンネルに入る。僕の追跡に気づいていたカラスが僕のことを見ている。彼の親しげなどこか懐かしい微笑みに、僕は安心して微笑みを返す。彼は右手に僕の手には馴染まなかったナイフを持っている。僕は胸を刺される。痛くない。何も感じない。ただ僕の胸は僕のものではなくなって、僕の意識は闇へと向かっていく。高いところから、美野里さんが僕の名を呼ぶ。見上げると、そこには彼女がいる。

 人工の光の下で毛布をかぶった裸の僕は目覚める。朝であると僕は知っている。奈津子は、既に昨日と同じ洋服をきちんと身につけ、灰色の革のソファの上にぺたりと座り、テレビの映像を、音は出さず、彼女自身も押し黙って、じっと無表情に見つめている――彼女は眼鏡をかけている。それだけが昨日と違った。彼女の眼鏡をかけた姿を僕は初めて見た。普段はコンタクトレンズをいれているのだろうか。僕はそれにも気づいていなかった。縁が上半分にしかない、レンズの小さいその眼鏡は、彼女の印象にほとんど何も付け足していなかったし、また何も奪っていなかった。

 テレビの映像に目をやる。見覚えのあるアナウンサーが深刻な表情を作り口を動かしている。画面の左上には時刻が表示されているのがわかったが、はっきりとは見えなかったし、見る気もそれほどなかった。とにかく朝であることは確かで、それ以上のものがテレビから得られるとは思えなかった。

 部屋の中は人工的に暖かく、乾燥していた。水とかなかったかな、と言った僕の声もやはりかすれていた。彼女は僕の方をちらりと見て、立ち上がり、冷えてる方がいい? と聞いた。ああ、と声を出すと、彼女は冷蔵庫からペットボトルの烏龍茶を取ってきて、無表情のまま、その一挙一動を見つめていた僕の頬に押し当てた。心地の良い冷たさだった。身体を起こしてそれを受け取った。頭から血の下っていく感覚があった。

「高いね、ホテルの飲み物って」彼女は僕を見下ろしている。

「……金持ちが使うものなんだよ、ホテルってのは」

 力の入らない手で何とかキャップを開け、口につける。喉から胃袋へと冷たい塊の流れ落ちていくのを感じる。喉で鳴る音が妙に気にかかる。彼女はベッドに腰掛け、テレビの方を見つめる。ペットボトルを差し出す。こちらを見ないまま受け取って、一口飲んで、キャップを締める。

「ごめん。遅くなる前に出る予定だったんだけど」

 僕は彼女の自宅に君臨する厳格な父親のことを思う。おそらく生涯聞くことのない、彼の低く響く詰問の声を想像する。父親――僕は父親を知らない。そのようにしか父親を想像できない。

「いいよ。仕方ないじゃない」

「ごめん」

 彼女は机の上のリモコンを取り、テレビの音量を上げた。女性アナウンサーの公共的で現実的な声。清潔のイメージをまとった映像の中の女と、髪を結び洋服を身につけた奈津子に挟まれて、少しずつ気恥ずかしさが芽生え、視線で自分の服を探したが見つからなかった。どこに置いただろうか。また、奈津子に頼まなければならないだろう。

「……奈津子」

「なに?」

「――眼鏡、けっこう似合ってるよ」

 嘘でしょ、と彼女は顔をしかめる。

「似合わないの。本当に。なんとか変にならないのを選ぶのに、苦労したんだから」

「変どころか、何ともないよ」

「それを君は似合ってると言うの?」

 君。

「……悪かったよ。でも、本当に――」

「ねえ」と彼女は僕の喋るのを遮る。

「ねえ、君は、まとも?」

 君。彼女に君と呼ばれるのには違和感があった。けれども確かに、それが最も、穏便な呼び方かもしれない。

「……それは、世間一般の二十歳と比べてなのか、君や過去の僕自身との比較なのか、健康状態とか――性的嗜好とか」

「……まともに生きていられるの?」

 答えを探し始めるよりも早く、どうだろう、と僕の口は乾いた声を発した。顔の筋肉は微笑みを作ろうと緊張している。どうだろう、と彼女は、僕の真似をして、歪な笑みを浮かべとても低い声で言った。

 

   11

 

 あの雨の夜、自宅近くの路上で何者かに鋭利な刃物で刺され、S区在住新聞社勤務の男性が死亡した。死体は通行人が発見し、犯行を目撃したり、不審な物音を聞いたりした者はいない。持ち物を物色した形跡はなく、また争った形跡もない。警察は通り魔、顔見知りの両面で捜査を進めている。

「裏切っている人間がいる、と加賀美は思っているわ」

 わたしは裏切り者なんです――裏切っている人間がいる、と僕の耳元でささやいたのは美野里さんだった。彼女はコーヒーのペットボトルを机の上に置き、僕の隣の椅子に座った。二限の授業が始まって間もない時刻だった。新書を閉じ机の上に置く。美野里さんはフランス語の書かれたキャンバスバッグを机の上に置き、コートを脱いで椅子に掛ける。

「何の話ですか」

「あの日のことで、君のことを疑っているの。殺せなかったんでしょ?」

 僕は頷く。

「彼は人のことを信用しない男だから、まあ無理もないわ。でも、君じゃないってことくらい、わたしでもわかるわよ」

「なんでですか?」

「なにが?」

 彼女は机の上の新書を手に取り、目次を見、ぱらぱらとめくり、目を細めた。彼女が来たのはちょうど読み続けるのにうんざりしていたところだった。

「なぜ僕じゃないってわかるんですか?」

「だって、君、演技が下手だもの。ほんとはもっといろいろな根拠があるけど、とにかくそれにつきるわ。ねえ、この本、おもしろい?」

「どうでしょうね……あの、僕がなぜ疑われるんですか?」

 美野里さんは新書を机の上に戻し、ん、と、声を出した。それは質問を拒絶しているようにも聞こえた。けれども彼女は少しの間の後、その問いに答えた。

「加賀美が刺したのが、カラスじゃなかったのよ。彼は生きている。相変わらず元気に解放軍の弾圧を続けている……物騒な言葉は使わない方がいいわね」

 彼女があたりを見るのにつられて僕もあたりに視線をやったが、心配するほど近くに人間がいるわけではなかった。二人ほどが眠っていて、一人は遠くで熱心に何かを書いている。

「君の能力を買ってた分、君が――殺せなかったことに、疑念を抱いたのよ」

 美野里さんは顔を近づけて、とても小さな声で言った。かすかにコーヒーの匂いがした。僕は彼女の艶かしく動く赤い唇を見つめ、頷くことしかできなかった。後ろめたさがあったのだ。僕は実際、加賀美さんに嘘をついた。それに、結果として、僕の弱さが加賀美さんに罪を背負わせることとなってしまった。僕は美野里さんの化粧の一つ一つや低い位置で結んでいる黒い髪の先端の傷み方、耳のピアスの形状を見た。

「もちろん、わたしたちが頼りにした情報そのものが操作されていたわけで、情報提供者の方に裏切り者がいるのは間違いないんだけど、加賀美はそれで、わたしたちの中にも裏切り者がいるとすれば、君って思ったわけね」

「ただの、疑心暗鬼じゃないですか」

 美野里さんは唇の前に人差し指を立てた。それが静かにしろ、の仕草であることに気づき、無意識のうちに声が大きくなっていたことに気づき、頬が熱くなるのを感じる。彼女は微笑む。

「そのとおりね」

 彼女は話すのを止め、身を引いた。彼女はカップに口をつける。

 カラスのものとして受け取った情報が、カラスではないまったく別人のものだった。S区に住む新聞社勤務の男性のものだったのだろう、本当に。加賀美さんは彼を殺した。僕は彼を殺さなかった。

 気づけば僕は美野里さんのことを見つめていた。僕と目が合うと、彼女は微笑み、口を開いた。

「……加賀美は、強くて、孤独な人間なのよ――いや、弱いのかな? 一度疑ったらもう二度と信じない。そういう人間ね、彼は。だから、そこまで気にしなくてもいいのよ、というのもおかしいけど」

 僕が何も言わないでいると、美野里さんは両手を上にあげて伸びをして、息を大きく吐き出し、背もたれに背をつけた。

「わたしね、人を見る目があるの」

 美野里さんは遠いところを見つめながらそう言った。その視線の先には大きな窓があり、冬の空の下で葉を落とした低い木があり、誰も座っていないベンチがある。彼女はゆったりと力を抜いて話している。そのように話すのは珍しい、と僕は思う。

「人の気持ちとか、考えとか、すぐわかるのよ。じっと見てるとね」

「……例えば、僕は」

「そんな占いみたいなものじゃないの。でも、いっしょにずっといると、だんだん、わかってくる。この人はこうしたらこう考えるだろう、こうされたい、されたくない、みたいなことが」

 加賀美さんのこともわかるんですか、とは僕は聞かなかった。

「それは、占いよりも便利ですね、きっと。……多かれ少なかれ、いっしょにいれば誰でもある程度は、そういうことがわかるようになるとは思いますけど」

「そう思うかもしれないけど、そうでもないのよ。君にも、恋人のことが理解できなかった経験があるでしょ」

「……多かれ少なかれみんなあると思いますけど」

「そう。でもね、普通に、合理的に素直にその人のことを見て考えることができるなら、確かにわかる、そう、ある程度は。みんなそれができない。願望や妄想、自分自身の感情を投影してしまう」

「そういうものを取り払うのは、不可能なんじゃないですか――美野里さんでも」

「そうね。まあ、占いみたいなものね、結局。君、昼食はどうするの?」

「昼食?」

 僕は柱に壁に掛けられた時計を見る。それから首を曖昧に捻ってみせる。

「食べにいきましょう」

 少し悩んでから、そうですね、と僕は言った。断り方がわからなかった、というだけではない。

 

「美野里さん、身長って何センチですか?」

 僕は彼女の揺れる黒い髪を追いかけて歩きながら尋ねる。

「百六十五」

「高く見えますね。痩せてるからなんでしょうか」

「ヒールで百七十くらいかな。そんなものじゃない? ……背の高い女は嫌?」

 彼女は僕の隣に並んで、そう尋ねた。確かに背は僕よりも少しだけ低かった。

「少し苦手ではあるかもしれません。悔しいというか」

「器が小さいからよ」

「なるほど」

「あるいは、ある種のマザー・コンプレックス。背の高い女性を見ると、幼い頃に追いかけた母親を連想してしまう」

 なるほど、と僕は思った。

 行きたい場所が決まっているらしく、美野里さんは再び僕の先を歩いた。そして大学近くのビルの二階の喫茶店に導かれた。注文を終えてから、彼女は煙草を吸った。それは見覚えのある銘柄だった。

 

   12

 黒いコートを身につけた僕らは、特に制止されることもなくエレベーターに乗り込めた。カラスを殺す、と加賀美さんが独り言を言った。それからもぶつぶつと何かを呟き続けていたが、僕らは誰もそれを気にしなかった。

 日本軍の対解放軍作戦の中枢であり、象徴である、カラス。カラスを殺す。僕はあの雨の日に追跡した男を思い出す。あの日、自宅近くの路上で死んだ男。僕は時々、一瞬見ただけの彼の顔と、生きて動いていた彼の背中を思い出した。いや、それらは、思い出したくなくとも思い出された。

 東京の中心に立つ背の高いビル。

 僕たちは最上階でエレベーターを降りた。

 流れのない重たい空気がそのフロアを満たしている。空気はその本性に逆らって動くことを拒絶しているようだ。それがこの空間特有のものなのか、僕の感覚によるものなのかはわからない。人のいる気配はない。人がいた名残のようなものも感じられない。人はおろか、動くものが入り込むのも初めてといった感じがする、まったく無機質な空間。

「奈津子はここで、エレベーターを。小高は、あっちの非常階段を。怪しい動きがあったら、すぐに伝えてくれ」

 加賀美さんの言葉に、小高さんと奈津子が頷く。

「何か緊急なことがあったら――それぞれで対応してくれ。その時は俺たちのことは考えなくていいし、俺たちも君たちのことは、考えられない」

 頷いた二人の顔にも緊張の色が見える。どこにいる誰が最も危険か、誰にもわからない。

 歩き出した加賀美さんに僕と美野里さんが続く。一人での行動でないだけ、精神的には良い方かもしれない。小高さんは反対の方向へと向かい、奈津子はそこに残る。僕らはエレベーターホールを出て右手に曲がり、二人の姿は見えなくなる。まっすぐ、白い壁紙に黒い飾り気の無いドアの等間隔に配置された廊下がずっと続いている。前方の突き当りには小さな窓が見え、振り返っても突き当りにはやはり小さな窓が見える。その窓の小ささ、灰色の空の一色は、むしろ空間の閉塞感を演出している。

 足音は灰色のカーペットに吸収された。一様に白く模様のない壁が進んでいるという感覚を麻痺させる。一歩一歩意識して踏み出さなければ、もう動けなくなってしまうというような感覚があった。僕は息を殺して歩いた。それは加賀美さんも美野里さんも同じであった。そうしなければならないと思ってしているのではない。僕は息苦しいまでに息を殺していた。

 ある黒い飾り気のないドアの前で加賀美さんは立ち止まった。ドアのプレートには何も書かれていない。空白。加賀美さんの目配せに僕と美野里さんは頷いた。美野里さんがドアノブを回し、ドアを押す。加賀美さんがドアを蹴って開け、中に入る。それに僕と美野里さんが続く。

 何もない部屋だ、と思った。実際にはそこには木製の大きなデスクがあり、応接用のソファとテーブルがあり、棚には統一された背表紙の本が何冊も並んでいて、品の良いベージュの壁には主張しすぎない抽象画が飾ってあった。しかしそれらはあまりにも空間に相応しく、故に意識されなかった――道端の石ころのように。僕はそれらの存在に、この部屋を出る時に初めて気づいた。

 デスクの向こうの社長椅子に座り、カラスは職業的な微笑を浮かべていた。美野里さんが後ろ手でドアを閉めた。すぐに開けられるよう、手はドアノブにかけられたままだ。

 ようこそ、と彼は言った。

 僕はコートのポケットの中でナイフを握る。加賀美さんは内ポケットから拳銃を取り出し、流れるような動作で、銃口をカラスに向ける。

 わたしを撃ちに来たか――カラスが言い切るのも待たず、加賀美さんは撃った。映画やテレビで聞き慣れた銃声と共に放たれた銃弾は、カラスの胸の中心を貫く。

 よく来るんだ。そういう人間はいっぱいいる。みんな、わたしのことが嫌いなんだ。

 カラスの胸の中心――ジャケットには確かに穴が空いていた。しかし、銃を撃った加賀美さんと同じくらい、カラスも微動だにしなかった。彼はゆったりとした動作で椅子から立ち上がる。

 みんな、わたしのことが嫌いだ。わたしがいなければ、まともに生きられないのにね?

 

 加賀美さんは、今度は立ち上がったカラスの額の中心を撃った。

 僕は確かに銃弾が彼の額に当たり、その皮膚が破けるのを一瞬見た。しかし、彼は無傷だった。銃弾はその微笑みをわずかに途切れさせることもなかった。彼はいかにも残念そうに首を振った。

 銃弾なんてものは、常にどこかで飛び交っているんだよ。つまらない。ありふれている。

 加賀美さんは黙ったまま、僕に拳銃を渡した。その手は震えていた。ナイフを、と彼は言った。彼は震える手で僕からナイフを受け取った。だめだ、と僕は思った。加賀美さんは一歩一歩、確かめるように、カラスに向かっていく。そうしないと動けないのだ。

 戦争は常に行われている。

 戦争は常に行われている――戦争とは何か。なぜ。誰によって。僕はそれが無意味な問いであったことに気づく。それは、常に、行われている。それだけだ。

 暴力は途切れることのない石ころだ。君たちもまた、砕かれたコンクリートの欠片のようなものだ。ありふれている。

 加賀美さんはデスクを飛び越え、カラスの首にナイフを突き刺した。それは確かに彼の皮膚を破り、肉を貫通していたが、カラスは微笑むことを止めなかった。

 そのように生きるしかないんだよ。

 加賀美さんの、カラスの胸を刺そうと再び振り上げた右腕をカラスは片手で軽々と抑え、もう片方の手で腹部を殴った。聞き慣れぬ鈍い音がした。加賀美さんの口から唾液の飛ぶのが見えた。カラスが手を離すと、加賀美さんの体はどさりと床に落ち、デスクの向こうに見えなくなった。

 僕は引き金を引いていた。銃弾はカラスの耳を千切った。カラスはその耳がきちんと無傷のままそこにあることを確かめるように耳に触れ、耳たぶをいじり、僕に微笑みかけた。逃げるよ、と美野里さんが言った。美野里さんが僕の右腕を掴もうとするのを、払いのける。殺さなきゃいけない、と僕は思った。殺さなければならないという声が、僕の意識の深いところから、それは次第に叫びになって、何度も何度も繰り返し聞こえてきた。一歩踏み出す。ずっとそう思ってきたのだ。殺さなければならない。僕が生きるために、僕が死なないために、僕はそれを、僕を切り刻み、損なわせるそれを、僕から大切なものを奪い、喪わせるそれを、忘れさせるそれを、殺さなければならないのだ。もう一度、引き金にかかった指に力を込める。それはデスクの上に軽々と飛び乗ったカラスの腹部を貫いた。カラスは銃弾を受けてから、ゆったりとした動作でデスクを降り、その親しげな微笑みを浮かべたまま、まるで握手でも求めるかのように僕のほうへと近寄ってきて、僕の腹を殴った。

 気づけばカーペットの上に倒れていた。目を開くとカラスによって首を締め上げられ閉じられたドアに押し付けられ意識を失おうとしている美野里さんの姿があった。美野里さんの手はカラスの腕に掛けられていたが、しかし力は入っておらず、唇は力なく開かれ、瞼は重たく閉じてしまうのを何とかこらえているように見えた。拳銃がカラスの足元にある。起き上がろうとして、腹筋にまったく力が入らないことに気づく。そこに感覚がない。僕は腕を伸ばして、カラスの黒い靴に触れる。カラスがその手を踏み、蹴る。指が吹き飛んだような感覚を覚える。カラスは美野里さんを投げ飛ばす。彼女は手を床につき、痛々しい咳をする。僕は再びカラスの黒い靴に触れる。カラスは今度はそれを蹴り払おうとせず、代わりに足元の拳銃を拾い上げる。僕は見上げる。そこには銃口がある。それはまっすぐ僕の額の中心に向けられている。

 荒い呼吸をしながら美野里さんが立ち上がって、カラスの背後から腕を回し、彼を抱いた。

 僕は何かが開くのを感じた。その開かれた何かから空気が流れ出し、この部屋の空気を侵食していくのを感じた。

 カラスが拳銃を取り落とす。それは僕の頭のすぐ近くに落ちる。彼の顔は微笑みをうかべたまま、まったく動かなくなっている。膝が折れ、美野里さんの腕から抜け落ち、丸くなって倒れこむ。うつ伏せになり、腕を伸ばし、何かを掴もうとする。そこには何もない。そして、動かなくなる。

 僕はそれを見つめながら、壁まで這って行って、寄りかかって座り、呼吸を整える。美野里さんもまた、荒く乱れた呼吸のまま、呆然とした表情でカラスを見つめている。

 息絶えたように見えたカラスは突然、満足気な呻き声を出す。そして彼の耳から、額から、首から、胸から、腹から、赤い血が流れ出して灰色のカーペットを染めていく。

 美野里さんは、それきり動かなくなったカラスから、血を避けるように一歩だけ離れた。そして僕の腕を引き、立ち上がらせた。彼女の動作は既に安定を取り戻している。僕は壁に背をつけて、身体のあちこちを点検する。疲労感はあったが、痛みはない。蹴飛ばされた手も、まともに動いた。美野里さんは拳銃を拾い上げ、デスクの向こうへと歩いていって、加賀美さんの腕を自分の肩にかけ、立たせる。加賀美さんは唸り声をあげた。苦しげであったが、目には既に鋭い光が宿っている。何があった、貸せ、と絞りだすように言って、美野里さんの持つ銃を握る。美野里さんは反射的に僅かに抵抗したが、すぐに彼に渡す。

 大変なことをしてしまった気がすると、僕の側まで来て美野里さんはぽつりと言った。殺しに来たんだろうが、と美野里さんに支えられながら、裏切り者、とでも言い出しそうな口調で加賀美さんが言う。そういうことじゃない――美野里さんの唇がそのように動く。

 ドアノブの回る音がする。

 僕らはドアの方を見る。

 ドアを開けて、小高さんが入ってくる。一瞬気が緩み、すぐに疑念が浮かぶ。なぜここに小高さんが来るのか? 彼は後ろ手にドアを閉めた。廊下から入ってきた冷気が肌に届く。僕は、彼の手に握られているものに気づく。

 やってしまったんですね。彼はそう言って、黒色の拳銃を曖昧に僕らの方に向けた。信じられません、と彼は言った。その話し方に、いつもの小高さんの穏やかな感じはなかった。かといって脅すような様子もなく、むしろ背に刃物を突き付けられ深い穴に落ちることを強制されているような、そんな雰囲気が声の震え方や表情にあった。

 彼の背に刃物を突き付けたのはお前だよ。僕の意識の深いところからそう声が聞こえた。

「あなたたちは、大変なものを殺してしまった。あなたたちが殺したのは――」

「裏切っていたのはあなただったのね?」

 美野里さんが吐き捨てるように言った。小高さんは絶句し、なおも震える声で話し続ける。裏切り――鼓動が速くなるのを感じる。

「逃げられませんよ。既に日本軍の部隊がビルを包囲しています。もうじきこのフロアにも着きますから。それでおしまいですよ。逃げられない。絶対に」

「今はあなた一人なのね」

 小高さんは銃口を美野里さんの方に向けた。息を飲んだのは僕だった。撃った、と思ったのだ。けれども美野里さんは眉一つ動かさなかった。彼女は軽蔑の眼差しをまっすぐ彼の顔に向けている。彼の手が目に見てわかるほどに震え出した。

「いつから裏切っていたの?」

「わたしは、常に裏切り者です――黙っていてください」

 小高さんの声音に動揺の色が混じっている。美野里さんは気丈に振舞い続ける。それが彼に対して有効であることがわかっているのだ。

「カラスね。大変なもの、って言うけど、案外、あっさり死ぬのね」

 美野里さんの言葉に小高さんは大げさに息を呑んだ、その瞬間、美野里さんに支えられ黙っていた加賀美さんが彼に飛びついた。二人はそのまま床に倒れこむ。あっ、と美野里さんが叫ぶ。銃声が響く。小高さんが撃ったのだ。銃弾は何も貫かず、天上にめり込む。逃げろ! 加賀美さんが叫ぶ。彼は小高さんの腕を押さえつけつつ、銃口を彼の身体の方に向けようとする。美野里さんが僕の手を引く。ドアを開ける。僕は彼女の手に引かれるまま部屋の外に出る。美野里さんがドアを閉める時にもう一度、銃声が聞こえる。

 僕たちはエレベーターの方へと走った。エレベーターの前には奈津子が立っていて、エレベーターの扉を足で止めて開かせながら待っていた。彼女だけが何も変わっていないように見えた。そして彼女以外の何もかもが変わっているように見えた。加えられたのでも奪われたのでもなく、何かが違っている。彼女は僕たちをエレベーターに迎え入れ、「閉」のボタンを必要以上に強く押し込んだ。

「どこまで降りる?」と美野里さんが僕の目を見て尋ねる。一番下まで、と僕は答えた。それは少しも考えずに、反射的に出てきた言葉だった。それもそうね、と彼女は答え、一階のボタンを押した。

   ・・・

 エレベーターは一階にたどり着くことなく、僕らを乗せて下り続けた。

 五分ほどたっても、誰も何も言わなかった。二人とも少しも気にしていない様子だった。それが当然で、違っているのはただ僕だけの感覚なのだと、そう思わせる沈黙だった。緊張か興奮かで、時間感覚が狂っているのかもしれない――そんな不安をあざ笑うかのように、エレベーターは下り続けた。

   13

「加賀美さんは?」

 最初に口を開いたのは奈津子だった。

「小高さんは? 加賀美さんたちの様子を見に行くって言って……」

 エレベーターの下り続ける中で奈津子が尋ねた。僕は美野里さんの方を見たが、美野里さんは黙っていた。

 死んだの? と、奈津子が小さな声で聞く。死んだ、たぶん、と僕は答える。エレベーターは下り続けた。

   ・・・

   14

 エレベーターは突然、短い大きな揺れと共に止まった。ドアが開く。冷たい、かすかに埃の臭いの混じった空気が入り込む。光は暗闇へと漏れ出している。外には半円のトンネル状の通路が続いているようだった。天上も壁も床も、寒々しい灰色の表面の粗いコンクリートで覆われている。通路の天井には一定の間隔で電線で繋がった橙色の小さな灯りがあって、ずっと遠くまで続いているのがわかる。僕は少し期待していたのだが、エレベーターの扉はいつまでたっても閉まらずにいた。僕らが外へと踏み出すのを、粘り強く待っているようだった。

 美野里さんがエレベーターを降りる。まっすぐ何歩か進み、立ち止まって振り返る。次に奈津子が出て行く。僕だけが光の下に残される。奈津子が振り返り、無言で僕を見つめる。

 僕がエレベーターを降りると、すぐに扉が閉じられた。途端に暗くなって、二人の表情を見るのも難しくなる。引き返せないのだろう、と僕は思う。何気ない風に振り返ってみると、あるはずの扉の隙間からは少しの光も漏れ出しておらず、暗いコンクリートの壁に同化していて、呼び出しボタンのようなものはもちろん見当たらない。あったとしても、おそらく、押すわけにはいかない。

 行こう、と美野里さんが小さく呟くのが聞こえる。奈津子に言ったようだ。二人は先を歩いていく。僕はその後を追う。

 足音の他に、どこか遠くで巨大な物体のうごめいているような音が、通奏低音となって響いている。

 点々と並ぶ灯りが、廊下が少しずつ左手へと曲がっていることを示している。足元で僕らの歪な影が揺れている。

「ここは? どうしてこんな場所が?」

 しばらく歩いてからそう言った僕の声は廊下の壁や天上に歪に跳ね返って響いた。少しの間の後、美野里さんが大げさに溜息をついて、その溜息も奇妙に響いて聞こえたのだが、溜息の後で早口に答えた。

「どんな場所にも地下はあるでしょ。それに、東京のような都市だもの、大きな地下があるに決まってるじゃない」

 その声も壁や天井に歪に反射し響き渡った。美野里さんは少し苛々しているようだった。あるいは彼女も状況を把握し切れていないのかもしれない――そう考えるのがずっと自然なのだが、なぜか、彼女だけはすべてわかっているように思えた。それは間違いだった。僕はそれからしばらく、彼女と、彼女にぴったりとくっついて歩く奈津子とを黙って追いかけた。とにかくついていけばいいと思った。

 やがてこの地下の道が、微妙な傾斜の下り坂になっていることに気づく。さらに深いところへと向かっているのだ。どれくらいの深さなのか、もう見当もつかない。僕はなるべく何も考えないようにした。美野里さんは進み続ける。それはつまり、進み続けるべきであることを示している。僕はそう考えた。

 やがて左手へのカーブが終わり、暗いトンネルの先に、強く光る黄色い灯りが見えた。それは道の終わりの壁を照らしだしていた。さらに近づいて、その灯りの手前に、丸く影のように大きな竪穴が空いていること、そこに梯子が掛けられていることがわかった。降りるのだろう。一番下まで行くのだから。

 竪穴を三人で囲んで見下ろす。底は見えない。下の空間に灯りはないのだろうか。下の空間。下の空間などあるのか? 梯子は金属製で、まっすぐ下方へと伸びている。錆びてはいない。むしろ奇妙に真新しい。誰にも触れられたことのないように思えた。奈津子が携帯を取り出し、ライトをつけて底に向ける。その光はどこにも至らず、闇の中で消える。奈津子はすぐにライトを消し、少し手間取りながら携帯をコートのポケットにしまう。

「それ、電源を切っておいた方がいいかもしれない」

 美野里さんが言った。そして自分の、折りたたみ式の携帯を取り出す。

「最初にこれのライトを使いましょう。君も携帯持ってるでしょ? 切っといて」

 言われたとおり、携帯を取り出して電源を切った。再びポケットにしまった携帯は、なぜか余計に重くなったように感じられた。

 美野里さんがポケットから財布を取り出し、小銭を一枚取って、その竪穴に落とす。何秒かして、遠いところから、軽い金属が固い地面に落ちる音が反響して聞こえてくる。深いのね、と美野里さんが言う。それは考え直すための言葉ではない。美野里さんはしゃがみ込み、梯子に触れ、冷たい、と言い、それから撫でて、手を慣れさせる。そして僕らを見上げる。その顔は影になっている。

「わたしが先に降りる。下についたら合図するから、それから、次に、奈津子ちゃんね」

 美野里さんの姿が見えなくなると、急に寒気を覚えた。寒さが一段増したように感じた。奈津子が少しだけ僕の方に寄ってくる。彼女もそう感じたのかもしれない。

 彼女を抱き締めれば温かいだろう、と僕は思う。しかし、そうしてはいけない、とも思う。

 寒いね、と奈津子がこっそりと言うその声が反響する。この空間では、どんな声も、響いてしまう。どんな些細なことも重要なことも、嘘も本当も、同様に響くのだ。何も言えなくなった僕に、奈津子は溜息をつき、壁に掌をつけ、撫でて、その手を光に照らして見る。光に照らされた小さな手の指のささくれを僕は見つめる。奈津子は灯りに手をかざし、掌を温めようとする。光に照らし出される彼女の表情が不安げなのを見、僕は目をそらす。

 沈黙の息苦しくなった頃、カーン、と気持ちのいい音が、穴の下の方から響いてきた。梯子を何かで叩いたか、蹴っ飛ばしたのだろう。奈津子が穴に向かい、しゃがみこんで下を見る。僕もしゃがみ、ポケットから電源の切られた携帯を取り出し、梯子を叩く。さっきの音よりも鈍く、カーン……と音が鳴る。もう一度、カーンと、下の方から大きな音が響いてくる。

「それほど深くないんじゃないかな。大丈夫だよ」

 その言葉を聞いて奈津子は僕を見る。強い光に照らされた肌の質感が生々しく迫ってきて、僕は竪穴の方を見る。

「上には僕がいるし、下には美野里さんがいる。何の問題もないよ。手を離さなければね」

「ほんとにそう思ってるの?」

 僕は頷く。奈津子はもう一度、何か言いたげに息を吸い込み、止める。竪穴を見つめ、恐る恐る、梯子に足をかける。そっと、下へと降りていく。最後に僕をちらっと見てから、彼女は消える。僕は灯りの方へと移動する。独りだ、と僕は思う。美野里さんが先に降り、次に奈津子を指名した意味がわかった。僕は灯りの側の壁に背をつける。光が眩しく、僕は目をつぶり、途端に恐怖を感じて、目を開けて灯りと反対の方に顔を向ける。確かに灯りは温かかった。僕はそれを左腕に感じ続けた。

 無音。

 いや、無音ではない。どこかで巨大な何かのうごめく音がする。その音は、地下に降りてからずっと鳴り響いている。

 地下の濁流を想像する。

 コンクリートの割れ目から染みこんだ雨や、日常の中で排出される様々な液体が、巨大な流れとなってこの都市の地盤を削っているのだ。

   ・・・

 冷たい梯子を握りながら、なぜ降りていくのだろう、と僕は思った。それは降りることを躊躇して問うた問いではない。降りていく必要のあることを僕はわかっていた。どこまでも深く、一番下まで。それは批判することのできない絶対的な必要だった。ただ、理由はわからない。

   ・・・

 竪穴の下は闇に包まれていた。梯子が地面に付くところに向けられている携帯のライトの他に、光源らしきものは見当たらなかった。僕が灰色のコンクリートの床に足をつけ、息を吐くと、その白く残る息の消えるのも待たずにライトは消された。誰か――奈津子だろう、彼女がひゃっと小さな声で金属的な悲鳴を上げ、その手が闇の中から伸びて僕のコートを掴み、ゆっくりと離した。驚く暇もなかった僕は彼女の腕を探って握り返し、引き寄せた。彼女は引き寄せられるままに僕に身体を寄せた。彼女の熱が僕の左手に伝わる。

 何も見えない。まったくの暗闇をただじっと見つめる。感覚が研ぎ澄まされ、彼女たちの心臓の鼓動さえ聞こえてくるような気がする。どこかから聞こえ続けている低音が、より迫って響いてくるような気がする。奈津子の身体から伝わる熱。彼女の体温なしに、どうしてこの暗闇で、自分の存在を確かめられるだろう?

   ・・・

 見える?

 しばらくしてから、美野里さんの声が響いた。どこか遠くから聞こえたようでもあったし、耳元で囁かれたようでもあった。見える? 僕は、自分の身体の表面が暗闇の中でわずかに浮かび上がっていることに気づく。それは自ら発光しているようにも見える。僕と、僕の隣にいる奈津子の表面。

 コツコツと足音を鳴らして、美野里さんらしき影が近づいてくる。彼女は僕のコートに触れ、軽く引っ張り、とんとんと軽く二度叩いた。確認、だろう。奈津子が何気なく腕を動かし、僕の手を解いた。彼女の表情は見えない。ただ、そこに身体があることだけがわかる。

「――見えるということは、光があるということよね」

 美野里さんは再び携帯のライトを付け、眩しさに驚いたのだろう、すぐに下に向ける。残像が視界を覆う。三人が光に慣れるのを待って、美野里さんはまず梯子を照らし、そこから上に動かしていって天上にぽっかりと開いた穴を照らし、天上の四隅を順に照らしていった後、壁をなぞって、ぐるりと部屋を回る。ライトは順序良く視線を導き、ここが何も置かれていない、どんな装飾も施されていないコンクリートで囲まれたほぼ立方体の小さな空間であることを確かめさせた。そして最後に、壁の一方にアルミ製のドアが取り付けられていることを示した。地上の物に倣って窓が取り付けられているが、それにはドアの向こうもまた暗闇であるということを示す機能しかない。

 しばらくそのドアを照らした後、溜息をついて、美野里さんはライトを消した。暗闇。何度か瞬きをしてみるが、すぐには目も慣れず、再び何も見えない状態が続く。

 少し休んでから行きましょう、と美野里さんが言う。

   15

 あなたの影はどこにあると思う?

 僕は暗闇に逆らえずに目を閉じて、ほとんど意識を失いかけていた。目を開いているのか閉じているのか、確信できないほどの暗さが、思考と夢の境界を曖昧にする。僕はいろいろなことを思い出し、思い描き、その夢に沈んでいき、意識を閉じかけていた。あなたの影はどこにあると思う? 僕はその問いを混乱の中で反芻する。問いは様々な文脈に結び付けられ、切断される。

 ありません。光のないところに影はできません。

 僕は四辺形の空間の一つの辺の壁に背をつけて座っている。肌寒さを感じ、伸ばしていた足を曲げ、膝を抱く。美野里さんの声は暗闇の右前方から、指向性は持たず、波のように広がっていって、そして僕の鼓膜を震わせる。

 光のないということはあり得るのかな? この空間にさえも、どこかから光が入ってきている。

 僕はその微かな、本当に微かな光が、ドアに取り付けられた窓から染み入ってきていることに気づく。小さな四角い窓が、暗闇の中で灰色に、僅かに赤みを帯びた灰色に浮かび上がっている。僕らはそのドアを開けてみることもなく休憩に入った。疲れている気はしなかったのだが、座ってしまうと、しばらくは動けないと思った。戦いを繰り広げた後なのだ――あれからどれほどの時が過ぎたのか、もうわからない。僕は腕時計を身に付けていないし、携帯の電源は切られている。

 あのドアに取り付けられた窓がなかったならば、この空間に光はなかったはずです。

 けれど、人がいき得る場所で、光のない場所というのは、ありえないんじゃないかな。あのドアが、ドアだけじゃないわね、天井のあの穴、あの穴と梯子がなかったなら、誰もここには来られないのよ。

 もしあの穴に戸がついていて、閉じられる仕組みになっていたら、そして閉じていたら、窓を何かで塞いだら、この空間はまったくの暗闇になるはずです。僕らがまったくの暗闇で生きる状況というのはありえます。

 理論的には、そうね。

 理論的には、と僕は繰り返す。沈みかけた意識はまだ覚醒しきっていない。いや、むしろ、意識は暗闇の重力によって閉ざされようとし続けている。

 実際に、光がない、ということは、あるのかしら。

 実際に。

 実際に、光のない場所に行くことは可能なのかしら。

 ひかり。

 朝には太陽があり、夜には月がある。厚い雲が夜空を覆っても、赤い航空障害灯がビルの上で瞬く。自分の部屋に逃げ込んでも、街灯の光がカーテンの隙間から忍び込み、ダイオードや蛍光塗料が枕のすぐ側で光っている。わたしたちは常に光の前に差し出されている。

 意識が閉ざされようとしている。電源を元から断ち切られてしまうような、緩やかでない、抵抗のできない、強制的なシャットダウンが迫っている。

 だから、そう、影は、常にわたしたちの内側にあるのよ。あなたの内側に電球なんてないでしょう?

 言葉は暗闇のどこかで発せられ、脳に届き、電気信号に変換される。言葉は存在から切り離される。言葉は暗闇の底から響き、神経を震わせる。それだけだ。暗闇の中の言葉。誰のものでもない、最も深いところから発せられる言葉。それは存在から、あらゆるものから切り離され、あらゆるものと接続される。

 ピッ、と、どこかで軽い電子音が鳴る。

   16

 わたしはもうずっと借り物の言葉で生きてきた。言葉に操られて、わたしは、本当のことを何一つ言えなくなっていた。ずっと、もう覚えていないくらい昔、昔からずっと、わたしはそうやって生きてきた。そして気づいたら、嘘の中でしか生きられなくなっていた。

 わたしはもう、本当のことを何一つ語ることができない。それは、もう、本当のことを何一つ聞くことができないのと同じ。

 わたし、あなたのことが嫌いでした。少女の声は震えている。

 暗闇の中に仄かに少女の肌が青白く浮かび上がる。少女は膝を抱えて座る女の前に立ち、見下ろしている。女は俯き、顔は髪に隠れて見えない。

 あなたはいつも嘘をついている。嘘の言葉で話している。わたしにはわかります。それは、わたしも習ったことのある、わたしも何度も使ってきた嘘だから。

 そうね、と疲れ果てた女は、もう何も話したくない、とでも言うようにそう言って、苦しそうに息を吸い込み、吐き出す。女は顔を少しだけ上げて、前髪を払い、虚空を見つめる。しばらくしてから女は、自分を見下ろし続ける少女の方に視線を向けて、口を開く。

 わたしたちはみんな、どこかでこの嘘を習った。そう、確かにそうね。そう、そうよ……。女は再び虚空を見つめる。

 あなたは本当は何になりたかったんですか? 少女は問う。

 わからない。女は答える。女の顔にはもうどんな表情も残っていない。

 何かになれるのなら何でも良かったのかもしれない。ただ、本当のそれはもう嘘の向こう側にあって――いや、違う。本当のそれは、嘘の中で、ばらばらに切り刻まれて、土に還るのを待っている。虚空に向かって、女はほとんど独り言のように、そう言う。

 帰りましょう、と少女は言う。その言葉は、まっすぐ女に向けられている。

 わたしはもうどこにも行けない。

 彼女は泣いていた。僕と彼女は真っ白な音のない世界で膝を抱えて向かい合っていて、彼女は真っ白な服を着て、俯いた顔は影になっていて、僕にはただ彼女が泣いていることだけがわかった。

 彼女は立ち上がる。彼女は白い衣をまとっている。彼女はするりとそれを脱ぐ。そこに肌色の表面はない。彼女の透明な手が彼女の肌色の仮面を剥ぎ取る。透明な瞳からこぼれ落ちた涙がきらめく。光に溶けていこうとする彼女の黒い髪に触れようと、僕は手を伸ばす。

 僕の手が暗黒を撫でる。その手は輪郭をなくしていたが、徐々にそれを取り戻していく。暗闇の向こうで、不意に赤い小さな火が揺れる。美野里さんがそのライターの火をじっと見つめている。やがて火は消える。

   17

 

 濃い霧が立ち込めていて視界はほとんどなかったが、広大な、しかし閉じられた空間が広がっていることが感じとれた。高さもあり、奥行きもある。しかし、あくまで閉ざされた空間。その空間の端に僕らはいる。空間には淡い光が存在している。床や壁は岩石と土でできているようであり、少なくとも見えている限りは、仄かに赤い。そのせいか霧もまた全体的に赤みを帯びて見える。岩石そのものが発光しているようにも、光が向こうから岩石を透かしている、そんな風にも見える。

 通奏低音はさらに音圧を増して心臓を細かく震わせる。それに加えて、今までは聞こえなかった様々な音が、何の規則性もなく鳴っている。小川のせせらぎのような音や水が岩に落ちる音、祭囃子のような音や、風が隙間を吹き抜ける音。この空間のどこかで鳴っているようだ。それらはすべて、確かにどこかで聞いたことのある、何かの音なのだが、しかし異様だった。

 地面は赤みを帯びた硬い土で、僅かに湿っているようだが表面は粗くひっかかり、滑ることはない。

「地獄みたい」

 奈津子が言った。確かにこの臭いは、硫黄のそれにも近い。薬品、腐敗、雑菌、そうした不快なものの混ざり合った臭いだ。

「地獄を見たことがある?」

 美野里さんは優しく茶化して微笑んだが、奈津子は答えなかった。むしろ彼女は口を固く結び直したように見えた。美野里さんは僕の方を見て、目が合うと、微笑もうとしてか口元を歪ませて目を細めたが、すぐに前を向いてしまった。

 道はなかった。どの方向でも地面は粗い姿を晒していた。僕らは美野里さんを先頭に印も何もなく視界の狭い荒れた地面をまっすぐ進んだ。おそらく実際にはまっすぐに進めてはいなかったのだが、そんなことは重要ではなかった。

 僕らは上り坂のようでも下り坂のようでもあるところを歩き続けた。濃い霧と光の弱さと荒れた地肌が高低の感覚を失わせた。その道程は、日常の中で歩むどの道よりもずっと僕らを疲労させた。

 僕は前を行く美野里さんの背中を見つめ続けた。その黒いコートは霧の中でも乾いて見える。黒く長い髪は重々しく揺れている。彼女の首筋は冷たく硬い。そこに血が通っていて、人間らしい温かさを持っているのだと、想像することができない。

 意識的に演じて生きてきたの、子供の頃から。昔からね。それで、どうも、そういう振舞い方が、自然になってしまったのね

 あの日から何日経っただろう。とても遠い日のようにも思えるし、さっきのことだ、と言われたらそう信じることもできる。記憶が混濁している。それらは現実的な秩序を失って、別の規則によって並び替えられている。

 君、演技が下手だもの、と誰かが言った。あれは夢だっただろうか。僕は今までに、何かを演じたことがあっただろうか。何を見てその人は、僕の演技が下手だと言ったのだろう。君、演技が下手だもの。その言葉は美野里さんの声で響く。彼女は煙草を吸っている。いつから、と僕は聞かない。なぜ、と僕は聞かない。彼女が、本当のことは何も言ってくれないことを僕は知っている。

 今が大嫌いなんです。今、ここにあるものが全部大嫌いなんです。

 本当です。本当にそう思ってるんです。何かが欠けているから嫌いなんじゃない。僕を包み込むこの空気に、日常に僕は、吐き気を覚える。今、ここにあるものに満足できるすべての人間に、吐き気を覚える。

 裏切ったな――駅舎の人混みの中で誰かが僕に言う。

 僕が裏切ったのは誰だ? 「KOOL」と書かれた箱。指に煙草を挟みながら語る男と、微笑む女。僕はそれを見下ろしている。女は箱を手に取ってしげしげと見つめる。男がその吸いかけの煙草を彼女の口元に運ぶ。赤い唇が恐る恐る閉じられ、煙草を受け取る女の指のその丁寧に磨かれたピンク色の爪を僕は見る。それは剥がれ、ぐつぐつと煮立つ土色の鍋に落ち、溶け、油や灰汁と共に浮かぶ。

 世界は現実感を失って遠ざかっていく。地下空間はどこまでも膨張し、現実の枠を超えていく。現実感。それは捉え方の問題に過ぎない。それはこの世界の何かに付された属性ではない。現実感を失ったのは僕だ。

 僕の何歩か先を美野里さんが歩いている。彼女は機械的に歩いている。黒い髪は機械的に揺れている。彼女に目的地はない。ただ先を歩く義務がある。彼女はそれに従っている。

 いつの間にか僕の隣で、僕と同じ速度で奈津子は歩いている。僕についてこようと足を速く動かしているようだ。彼女にも目的地は無い。近づいてくるものを拒否し、遠ざかるものを追う。

 歩く。見えるもの、聞こえるものに変化はない。それでいて目に耳に馴染むことはない。それらは常に強烈な違和感とともに迫ってきている。それがまた僕を疲労させる。地獄みたい、と誰かが言っていた。ここは地獄なのだろうか? 僕らは門を通り抜けてきたのだろうか。門、地獄の門、そこには 何と書かれていた? 何も書かれていなかった。あれは夢だ。夢。僕は僕の頬に触れる。

 仮面を外せなくなっていることに気づく。僕の顔に張り付いた土色の強張ったひび割れた仮面を、僕は外すことができず、もがき、ひっかく。いや、僕はこれを外してはならない。僕の透明の皮膚を光に当ててはいけない。光は僕の脳を焼き、心臓を焼く。僕は光を避けて生きなければならない。光は僕のことを愛さない。僕は光を忘れなければならない。記憶の中のそれは僕の記憶を照らし出し、影を作る。それが僕の精神を歪ませていく。僕は黄土色の仮面の上に新しい真っ白な仮面を一枚付け加える。

 Who am I?

 I don't know. Who am I?

 ――。彼女が僕の名を呼ぶ。――。僕は顔を上げない。気づかなかったのだ、それが僕の名であることに、それが彼女の声であることに。違う。お前が自分で選んだんだ。お前は気づいていた。どうするべきなのかもわかっていた。それでもお前は自らその光を放棄したんだ。お前は誰だ、と僕は叫ぶ。世界がひっくり返る。天上が地面になり、地面が天上に変わる。しかしそれが何だというのだろう? 僕は相変わらず荒れた赤い岩地の上にいる。どこかで水の激しく流れる音がする。容赦の無い濁流、いくつもの支流、広く穏やかに見え、実際は有無を言わさず何もかもを抉り飲み込んでいく強力で残酷な深く速い流れ。それはとても遠い場所で流れているようで、僕の足元を削り僕を引きずり込もうとする。水が僕の足に触れる。それはあっという間に僕の全身を包み、息を止めさせる。瞼を削り、頬を削り、肩を、脇腹を、背を、腿を、脛を――。

 ――。僕の名を呼ぶ声がする。

 目を開くと、奈津子が僕の顔を覗き込んでいる。彼女の目には涙が溜まっている。彼女の黒い瞳には僕の疲れ果てた顔が映っている。この水は飲まない方が良さそうね、と美野里さんが言う。顔をそちらに向けると、美野里さんは水辺にいる。水のさらさらと流れる音がする。それは川なのだ。ただ、その水は仄かに赤い。彼女は白いハンカチで手を拭い、それから口元に押し当て、ポケットにしまう。

「何か、妙な味がする気がするわ」

 喉は渇いていたが、何かを飲みたいという気持ちはまったくなかった。

「飲んだんですか?」

 僕は身体を起こして言った。美野里さんは、大丈夫よ、とどうでも良さそうに答える。僕のことを、無表情のまま見つめている。

「どこか、悪いの……?」

 奈津子が僕に尋ねる。奈津子は僕の背中にそっと手を当て、小さく撫でる。大丈夫、と僕は答える。やがて彼女は手を離す。

「急に倒れたのよ。そういうことは普段からあるの?」

 普段。美野里さんが言う。彼女の口元の動くのが妙にぼやけて、よく見えない。

「あの向こうへ行くのよ。大丈夫そう?」

 美野里さんの指差す方では霧は晴れ、赤黒い荒野が遥か遠くまで、微かに上りの傾斜を増しながら続き、先は闇に消えていた。

 歩きにくかった。上り坂だからというだけではない。足がうまくこの赤黒い地面を捉えない。滑るわけでもひっかかるわけでもなく、一歩一歩がどうしても小さなものになってしまう。そのことが僕を焦らせ、疲れさせる。一歩ごとに次の一歩を意識しなければならなかった。一歩一歩が何か奇妙な、慣れない初めての動きを身体に強いるように感じられた。

 僕らは長い地下の荒れた坂を登っていく。その坂は永遠に続くように思えた。いや、永遠に、この異様な景色と歩き難い地面が続いているのだと、僕は知っていた。それでも立ち止まることは許されていなかった。

 振り返ってはいけない気がした。僕は一度も振り返らなかった。禁止に抵抗する力を僕は既に喪っていた。振り返る代わりに僕は何度か、地上であれば空のあるべき場所を見た。地上であれば空のあるべき場所は無であった。岩肌もなく、宇宙もない。無限の、終わりとしての完全な闇がそこにはある。

 歩く。歩けば歩くほど、永遠に歩き続けなければならないことの重みが、精神を蝕んでいく。僕の身体は疲弊していながら、しかし、決して立ち止まろうとはしない。精神は休息を望んでいながら、さらに深い部分がそれを絶対的に拒む。

 歩き続けろと命じるものは、僕の内側にある。

 風景は異様で、しかしどのような解釈も許さない。ただ異様なまま僕の目を責め続ける。闇との境界は変わらず遥か彼方にある。そして僕の一歩は、とても小さい。次の小さな一歩を踏み出す。止まろうと思いながら、身体は次の一歩を踏み出す。どこにもたどり着けないのだと思考しながら、足を持ち上げ、少し先に下ろす――。

   ・・・

 先に行って、と美野里さんが言った。彼女の表情が石のように硬く冷たいものになっているのを僕は見た。大きなものに押し潰され、たくさんのものに身を削られ、疲れきり、怒ることも、泣くこともできない、そういう表情を僕は見た。

 僕は何かを言おうとして、しかしただ無言で頷き、歩き、茫然と立ちすくむ彼女を通り過ぎ、立ち止まり振り返ろうとする奈津子の背中を押した。

 なぜ僕は美野里さんに、何も言わなかったのだろう。

 彼女がそこに留まるのが、とても自然なことのように思えたから。

 違う。

 

 僕は彼女の手を引くべきだったのかもしれない。ここまで彼女が僕を導いたのだ。彼女がいなければ、僕はもっと早くに進むべき方角を見失っていただろう。そしてあそこからは、今度は僕が彼女の手を引くべきだったのかもしれない。

 正解はない。違う。僕は永遠に正解に辿り着けない。そしてもちろんそのことは免罪符ではありえない。それはただ永久に問いであり続けることだけを意味している。永久に問い続け、間違え続けなければならないことだけを意味している。

 僕は歩き続けた。一度も振り返らなかった。彼女を通り過ぎた僕の背中に、振り返ってはいけないと、美野里さんがそうささやいた気がした。彼女が僕に言った最後の言葉。それは何も言わなかった僕に彼女の残した最後の呪いだった。違う。それは僕の聞きたかった言葉に過ぎない。そして僕はそれを自らへの呪いにしたのだ。

 闇が急速に擦り寄ってきて、今にも僕を包み込もうとしていた。光の限界へと近づいている。

 闇に追われながら、闇の奥に入り込み、やがて上り坂が終わる。

   18

「ここは地下だ。わかってんのか?」と浮浪者は言い、舌打ちを何度も繰り返す。彼は空き缶のつまった大きなゴミ袋を右肩に担ぎ、潰れた発泡酒の缶を左手に持っている。そして濃密な臭いを発している。彼は地上にいるよりもずっと周囲に馴染んで見える。

 地上でするように彼を避けて進み続けることはできなかった。彼はまっすぐ僕らを睨みつけ、立ち塞がった。

「何も考えずにここまで来たんだろう?」

 違う、と僕の口の動くことはなかった。

「いるんだよ、そういうやつが時々。糞みたいな地上の人間。糞そのものだ。何の覚悟もなく地下に降りてくる」浮浪者は左手の缶をほとんど逆さまにして、上を向いて開いた口に液体を注ぎこむ。舌打ちを二度する。黄ばんだ唾を地面に吐く。

「落ちろ。底まで。一番下までだ。それがお前らへの罰だ。帰れると思うな。一番下で悔い改めろ」浮浪者は缶を地面に叩きつける。奈津子が僕のコートを掴む。浮浪者は人差し指を僕に向け、それから奈津子に向ける。

「俺は知ってるぞ。あんたらの罪を全部知ってる。あんたらは逃げられない。俺はあんたらがどういう人間かわかってるぞ。あんたらが見ないようにしてる全部を見ている」舌打ちをする。言葉にならない声で何かを罵る。「災いあれ!」

 闇の向こうからたくさんの目が僕らを見つめている。闇の向こうで彼らは何かを囁き合っている。やがて彼らは僕らに飽き、ばらばらの足音や意味を持たない言葉と共にそれぞれの方向に歩き出す。ある者は僕らのすぐ横を通って行く。どこかで聞いたことのある若い男女の笑い声が背後から聞こえ、僕は振り返る。奈津子は先を歩いていく。体格の良い男にぶつかりそうになっても、彼女は気にも留めず、人と人の間をすり抜け、歩いて行く。早足で歩くスーツ姿の男の鞄が僕の腰にぶつかる。華奢なハンドバッグにいっぱいの荷物をつめた女が走っている。すれ違いざまに僕は記憶をくすぐる甘酸っぱい花の香りを嗅ぐ。その匂いがあるイメージに行き着こうとするのを僕は拒絶する。黄色い服を着た少女がただ通りすぎていく。少女は絵本を抱えている。ヴァイオリンケースを背負った姿勢の悪い男とすれ違う。彼が片手を上げて振るのを見、僕は視線を落とす。奈津子は先を歩いていく。僕は彼女のその黒い靴を見つめる。

 そして僕らは浮浪者とすれ違う。人々は去っていく。彼だけはいつまでも僕らの背中を睨み続けている。僕らは逃げるように歩く。ふと、奈津子が立ち止まる。扉を開け、僕は彼女の背に手を回し、さらなる闇へと入っていく。小さな部屋で僕らは二人きりになり、灯りを消し、裸になって、さらに深い場所へと向かっていく。

 血。血の臭いの混じっていることに僕は気づく。血だけではない。この空間を満たしているのは、人のあらゆる分泌物の臭いだ。血液であり、性液であり、胃液であり、尿であり、汗であり、人の器官に蓄えられ染みだした粘液の臭いだ。

 空間が蠢く。闇の向こうの岩壁の向こうで巨大な何かが胎動する。岩肌が波打ち、ひび割れ、赤い血が濁流となって流れ込む。

 空間に満ちる音、水や空気の流れの生み出す音に、声が混じっている。獣の鳴くように聴こえていたそれは人の声だ。叫び、日本語や英語や知らない言語で叫ばれる苦悩、怒り、悲しみ、女の悲鳴、男の慟哭、赤ん坊の鋭い泣き声、老人の溜息混じりの嘆き、ありとあらゆる声音で、あらゆる言語で、あらゆる声が響き渡っている。

 僕は気づく。東京が、このどこまでも現実的な虚構の都市が、この不条理なまでに巨大な空虚の上に成り立っていることに。この空虚を渦巻く大気が、高層ビル群の隙間をめぐり、匿名の人々の欲望や絶望や妄想や不安や嫌悪や恋や愛といったもの、人々のあらゆる幻想とその瓦解の声にならなかった声を孕んで対流していることに。

 巨大な何かが胎動する。それはこの巨大な空虚の中にいる。それは赤く硬い膜を叩き、熱せられた赤い水を跳ね上げ、濁流を起こす。それはやがて東京のどこかの閉ざされた空間で光の下に引きずり出され、息絶える。

 それは小太りで背は小さく、僅かに飛び出た眼球には緑色の目脂がこびりつき、むき出しの歯茎は紫で黄ばんだ不揃いの歯の隙間には細かな白い泡が溜まり、顎には灰色の髭が霜のように張り付いている。赤黒くしわだらけの体表には長く縮れた毛が所々に生えており、短い足の間に白濁色の付着した巨大な陰茎が垂れ下がっている。それは露骨に粘膜の色をしている。いや、と奈津子がささやく。僕は気だるさに捕らわれている。それが奈津子の髪を掴んでかき分け、頬を舐めて涎を垂らし、胸の膨らみを押しつぶし、その粘液をまとった陰茎を彼女のスカートに擦りつけ、ブラウスのボタンを一つずつ外し、剥ぎ取ってしまうのを、僕は傍観している。奈津子はほとんど抵抗らしい抵抗を見せない。彼女の頬は紅潮している。いや、と彼女は言う。

 彼女は暗闇の中で脱がされたブラウスを手に取り、軽く畳んで、そっと身体から離れたところに置く。暗闇の中で彼女は、それの虚ろで曇っていて彼女の乳房の間に向けられ続けている目をまっすぐ見つめる。それは視線に応じようとはしない。その意味を読み取ろうとしない。それは彼女の下着を乱暴にむしり取り、丸めて放り投げ、性器を凝視する。

 本当にわたしでいいの?

 奈津子が言う。それは彼女の差し出すコンドームを冷たくざらざらとした手で受け取る。

 本当にわたしなの?

 それの手が奈津子の性器に触れる。

 違う。それにとって君は、選択された結果ではない。君は何かの代わりでさえない。

 奈津子はそれの背に手を回す。

 それは君を見ているんじゃない。

 それを受け入れながら、彼女の顔には恐怖や絶望や僕の知らない感情が滲んでいる。

 僕はようやく腰を上げる。さて、それを僕はどうやって殺すのだっただろうか。僕はそれを知っている。僕はもう何度もそれを殺してきた。

 

 光はいよいよ消えていく。

 やがて僕らは立ち止まる。僕らは広大な地底湖の辺の平坦な砂地の上にいる。視界はほとんど無い。それでもそこが広大な空間で、地底湖の辺であることを、僕らは感じ取ることができる。空気は澄み、ひっそりとしている。

 ここが終点だと僕らは知っている。

 静かだった。時々近く遠くで水泡の割れる音がした。時々湖の中心に遥かに高い天井から水滴の落ちる音が聞こえた。地下に入ってからずっと聞こえ続けていた水の流れる音は、今は、僕の身体の中から聴こえてくる。

 こわいね。

 奈津子が呟く。とても小さな声で。その声は砂地にこぼれた水のように、静かにささやかに空間に染み広がっていく。僕はただ首を横に振る。

 加賀美さんが死んで、小高さんまで死んで、次は誰だろうって、思ったの。

 ……美野里さんとももう、会えない。

 そんなことはない、と反射的に僕は答える。それから僕は、もう美野里さんとは会えない、と心の中で唱えてみる。彼女があそこに留まった時、その手を引きもせず、さよならと言うこともしなかった。彼女は独りであそこに立っている。僕は振り返りもしなかった。

 もう会えないんだよ、と奈津子は繰り返す。僕は答えない。もう会えないんだよ、とただ心の中で唱えてみる。

 夢の中のことみたいだね、と奈津子が言う。夢の中。そうかもしれない、と僕は思う。今までに起きたことはすべて、夢の中のそれらのように脈絡がなく、歪み、ずれていた。光景には現実感がなく、どのような解釈も拒み、脳を乱暴に揺さぶった。この空間は論理や法則に欠けている。しかし、と僕は思う。では、どこからが夢なのか?

 ねえ、もしこれが夢だったらどうしようって、わたし今まで、何度も思った事があるの。

 ほっぺたをつねるんだよ、そういう時は。卑屈な笑いと共にそう言った僕は、それから暗いのを良い事に、そっと自分の頬に触れ、二つの指で軽くつねってみる。確かに指には頬髭の感触があり、頬には痛みがある。

 痛かったら夢じゃなくて、痛くなかったら夢なのね?

 ……。

 わたし、昔、わたしの赤ちゃんを、殺したの。

 昔。ぽちゃん、と遠い所で水滴が湖に落ちる。

 ここまで降りてきて、思い出したの。初めて。忘れてたの。事実として覚えていても、それがどういうものだったのか、初めて、思い出したの。わたしね、あの赤ん坊がわたしの子宮から掻き出されて、ばらばらになって、捨てられた時、眠っていたの。ぐっすり。電源が切られたみたいに。目覚めた時には全部終わってた。わたしは温かいベッドの上で目覚めた。何時間かぼーっとして、それからお父さんの車で家に帰った。何も変わらない家に。家族はもうそのことについて何も言わなかった。今まで、一度も、その話をしたことがない。一度も。わたし、それで、全部夢の中のことだったんじゃないか、って思ったの。どっかでした誰かとの――ううん、あの人、もちろん覚えてる、わかってる、彼とのセックスから、病院の清潔なベッドの上で目覚めるまで、わたしは眠ってたんじゃないかって。わたしはそこにあった痛みも……喜びも、哀しみも喪失感も悔しさも怒りも憎しみも何もかも、信じられないの。

 ……夢と現実の差というものは、痛みの有る無しよりももっとずっと近いものなのかもしれない。あるいは認識できないほど遥かに距離のあるものなのかもしれない。何にせよ、ほっぺたをつねったくらいじゃわからないものなかもしれないね。

 あの子が……わたしを殺して、生まれて来るべきだったのよ。あの子がわたしを呼ぶの。堕ろされるべきはお前だったんだって、あの子が言うのよ。

 それはその子の声じゃない。その子は声を持たない。それは君の罪悪感の声だよ。聞かなくてもいい。

 ううん。聞かなければならない。わたしがわたしに語りかけているんだから。いつかわたしがわたしに語りかけた言葉が、この空間で反響し続けていた言葉が、今、届いたのよ。

 僕にはわからない。

 君にも聞こえる。聞こえなくちゃいけない。

 聞こえないよ。言いながら僕は耳を澄ましている。

 音が聞こえてくる。声ではない。しかし恐ろしくなって意識を閉ざそうと目を閉じる。しかしそこにもまた果てのない闇が広がっている。僕は目を開く。いや、わからない。僕は今、目を開いているのだろうか? 音は少しずつ明瞭になっていく。僕は音を拒絶することができない。それはピアノの音だ。誰かがそっと、恐る恐る、ピアノの鍵盤を叩いている。切り離された一音一音が段々と連なっていき、やがてあるメロディにたどり着き、テンポを持ち始める。それにやがて左手の伴奏を加わり、音楽となって、哀しげに響き渡る。『エリーゼのために』。すべてが白く染まっていく。わたしもピアノが弾けたのと、劇場を出た後で奈津子が言った。夢だったの。夢? 夢が叶ったその時、その場所が、心地よいとは限らない。結局、この日常に外側はないのかもしれない。それでもわたしたちは夢を見続ける。誰かがそう言っていた。僕の目の前で喘ぎ痙攣する言葉を喪った彼女は、彼女は独り消えた。僕は彼女にさよならも言わなかった。それは愚かなことかと彼女は問うた。僕はその問いに答えただろうか?

 夢みたいだけど、きっと、夢じゃないのね、と彼女は言う。ううん、そんな区別には意味がない。僕はただ頷く。彼女の方がずっとわかっているのだ。僕はいつまでも幼稚な思い込みに甘えている。本当はすべて僕が自分の手で確かに選び取ったものだった。そして僕はその事実から逃げている。意味があるとすれば、そこにしかない。

 奈津子の手が僕の手に触れて離れた。反射的に避けてしまったのだ。彼女の手はとても冷たかった。氷のように冷たく、氷よりもずっと脆いもののように感じられた。

 僕の手は彼女の手を探し、闇の中でさまよう。

「奈津子」

 僕の声が空虚に響く。

 声はどこにも届かず、跡形もなく消える。

 ぽちゃん、と水滴が広大な地底湖のどこかに落ちる。

 独り。

 両手をポケットにしまう。

 当然だ、と僕は思う。

 僕の前にはただ広大な地底湖が広かっている。巨大な、閉ざされた空間の中に僕はいる。地底湖の先に、光がある。僕はその光を知っている。光は、常にそこにあった。僕は目を閉じる。僕は目を閉じてしまう。

   19

 黒や灰色のスーツを着た男たち。

 僕が殺したのは、無口で、無名の、僕らだ。

 強く、孤独な、弱く、裏切り者の。

 死んだのは僕だ。

 誰にも裁けない、誰にも許すことのできない罪。ただ光が僕を照らす。僕の顔を照らす。血が通い、つねれば痛い僕の頬を照らす。

 

 地下鉄の改札前で、彼女は赤いヴィオラケースを背負っている。僕は彼女に何もかもを背負わせてしまった。笑顔の彼女は今にも泣き出しそうで、何も背負わない身軽な僕に、雑貨屋の黄色い紙袋を差し出して、プレゼント、と言う。受け取り、中を覗くとカラフルな包装紙に包まれた小さな箱が入っている。彼女は笑って、小さく手を振って去っていく。僕は改札を抜ける前に一度だけ振り返るが、彼女は一度も振り返らず、ゆっくりと階段を上っていく。僕は包みを抱き締めたままT線に乗り、高田馬場でY線に乗り換え、包みは目白を過ぎたところで爆発した。それはY線の回転を止め、時計の針は回転を続けた。

 僕が止めたかったのは、時計の針の回転だった。それは止めてはならないものだった。そしてそれは、僕自身の手で回し続けなければならないものだった。

 ごめん、と僕は言う。彼女は答えない。誰も答えない。僕の側には誰もいない。僕が傷つけ、見捨て、殺した。僕が振り払い、避け、目をつぶった。

 僕は僕を地下の闇の奥へと引きずり込む力に逆らい、階段を駆け上っていく。この階段を上りきると、大学の学生会館地下一階だ。おそらく合奏はもう始まってしまっている。僕はそこで楽器を弾かなければならない。メロディを頭の中で描きながら、浮かんでくる楽譜には、音符がない。音符のない五線譜が流れていく。僕は必死で音を追う。階段を駆け上り、駆け上って、上りきる。ドアを開ける。真っ白な光が僕の目を射抜く。そこにはカラスがいて、親しげな懐かしい笑みで僕を迎える。僕は安堵を覚え、笑う。カラスは手にナイフを持っている。僕の胸を刺す。痛くはない。ただ、僕の胸が僕のものでなくなる。喪われる。そこにはもう僕の椅子はない。音楽は先へ行ってしまった。カラスが笑いかける。僕は立ちすくむ。

 日の光の下で僕は、赤いヴィオラケースを背負った彼女が、講義棟前の階段から下りてくるのを見る。久しぶり、と彼女は困ったように微笑んで、学生会館へと向かっていく。僕は――どこへ行けば良いのだろう? 駅に向かう途中、彼女とすれ違う。浮かない表情の彼女に語りかけるべき言葉を僕は持っていない。彼女は僕に気づいただろうか? 気づかないふりをしてやり過ごす。気づかないふりをした僕に、カラスは笑いかけ、手を伸ばす。

 僕はカーテンを締め切った暖かく乾いた暗い部屋で毛布にくるまる。粗い繊維が裸の皮膚をつつく。

 日の光に照らし出された僕の心臓にカラスはナイフを突き刺す。それもいいか、と僕は思う。そうあるべきなのだ、と僕は思う。

 それはY線の中で爆発した。欠片が飛び散り、目に突き刺さり、耳に突き刺さり、それでも光はあって、悲鳴があって、炎には熱さも痛みもなく、ただ僕の身体を焼き、喪わせる。それもいいか、と僕は思う。

 違う。暗闇の中で毛布を跳ね除け、僕は身体を探す。

 日の光の下で、僕のよく知っている誰かが向こうの方を指差す。僕は彼女の示した方を見る。

 階段を上ってきた彼女は小さく手を振り、微笑む。彼女の唇が動く。――。彼女は僕の名前を呼んでいる。

 

 喪われたものを、忘れないで、思い出すの。

 

 いつかそう言った人がいた。

 

 小さい頃に読んだ素敵な本とか、空の青さとか、身体とか、心の中でうずくまっているもの、そういうものたち。何度も何度も。

 

 何かが、忘れさせてしまう。何か――それがどんなものか、わたしたちは誰も知らない。何かはやがて、喪われたことさえも忘れさせる。本当は心のすぐそこにあるのに、思い出せなくなってしまう。

 彼女が階段を上っていく。僕はその背中を見つめている。彼女は振り返らない。彼女は階段を上っていく。

 僕は声もなく叫んだ。

 そして僕は気づいた。叫ぶべき言葉を僕は思い出した。呼ぶべき名を、向かうべき方向を僕は知った。僕は奈津子の手を掴んだ。

   20

 

 目を開く。厚いカーテンの隙間から、太陽の光が、僕と、僕の左隣で眠る奈津子に差している。僕の裸の胸に乗せられた彼女の掌の温かさと、左腕に呼吸に合わせて柔らかく押し当てられる乳房の重さが、僕の身体の輪郭を確かめさせる。

 彼女の表情は安らかなようにも苦しんでいるようにも見える。僅かに開かれた唇が定まったリズムで吐き出す息を僕の皮膚は感じる。彼女の瞼がぴくっと動く。彼女は眠り続ける。僕の胸の上で彼女の掌に重ねられた僕の右手は乾いて冷たい。僕はその手で、少しだけ強く、彼女のその掌を包む。彼女の掌越しに、僕自身の鼓動が伝わる。二人の掌は互いに温め合って、馴染んでいく。

 部屋には暖房の吐き出した空気の残余のようなものも僅かに漂っていたが、肌寒かった。僕が眠ってしまってから彼女が切ったのだろう。毛布は乱れて二人の腰元より下だけを覆っていた。僕は右手でそれをそっと引き上げ、毛布の下で彼女の掌にもう一度掌を重ねる。

 どこかから微かに聞こえてくるのは、聞き慣れた都市のくしゃみや衣擦れだ。それでも彼女の眠りを妨げない程度にこの部屋は閉ざされ、守られている。

 僕は彼女が目を覚ますのを待つ。

 あの時――夢の中で、方向を指し示してくれたのは、確かに美野里さんだった。奈津子の眠っている間、僕はそのことを考えていた。あの人は今どこにいるのだろう。彼女は今日どこで目覚めるのだろうか。あるいはもう起きだして、朝食を食べながら天気予報なり芸能ニュースなりを聞いているかもしれない。そういう平穏な朝が彼女に訪れていることを、訪れ続けることを僕は願った。

 やがて奈津子は目覚めた。彼女は開いたばかりの目でぼんやりと僕の顔を見つめ、それから目を細めピントを合わせる。

「素敵な夢を見た、君のおかげで」僕は彼女にしてしまったことや、してもらったことを思いながら、そう言う。

「そう……どういたしまして」

 彼女は身体を起こす。毛布がずり落ち、胸が露わになる。両手を上に突き出して、ゆっくりと、無警戒に、大きく身体を伸ばす。光の線が差す彼女の乳房の在り方を、僕はどんな言葉でも形容することができない。伸びを終えて、ベッドサイドテーブルから眼鏡を手に取って、しかし掛けないまま、彼女は僕を見下ろした。互いに互いの瞳の奥を見つめた。僕は彼女の瞳が僅かに茶色がかっていることに気づいた。しばらく、そうして見つめ合っていた。

「……わたしも、そう、素敵な夢だった気がする。ねえ、わたしのこと、嫌いになった?」

「好きだよ」

「……わたしも好き。わたしにとってすごく大事な人だって気がするの。……また会えるかな」

「会える。もちろん」

「……君なら、どうだろう、って言うと思ったけどな」

 どうだろう、と彼女は僕の声真似をして言い、ふふ、と笑う。

「物事は、君が思ってるよりももう少しだけ、複雑なんだ」

「君が思ってるよりもね」と言って彼女は眼鏡をかけ、似合ってる? と僕に尋ねる。

   21

 左手で奈津子を支えたまま、右手で扉を開いた。視界が白に覆われた。光に慣れるまで、しばらくじっとしていなければならなかった。やがて奈津子は僕の手をそっと解いて、外に出た。そして振り返り、僕の名を呼んだ。

 僕は外に出た。都市。朝の都市の真ん中に、二人は立っていた。

 都市は動き出す。烏たちは朝の仕事を終え、姿を既に隠している。ある者はのんびりと、ある者は慌てて家を飛び出し、道を走り、電車に飛び乗る。ぎゅうぎゅう詰めにされながら制服の少女は参考書を開き、灰色のスーツをだらしなく着る中年の男は詰将棋を解いている。電車から吐き出され、少年は友人を見つけ背中を叩き、まだ真新しいスーツを窮屈そうに身につける若い女は、ファストフード店に入っていく。

 二〇十三年一月。何も終わっていない。けれども僕はここでペンを置かなければならない。ここから先は、過去ではないのだ。

 

   22

 僕は小説を書き終えた。

 けれども僕は、語り続けなければならない。

   23

 僕は小説を書き終えた。推敲するつもりはない。誰も読まないのだ。それは僕が僕のために書いた、小説と呼べないのなら何と呼んでも構わない、そういうものなのだ。それが書かれたことで達成されたことは一つもない。何も解消されず、何も理解されなかった。

 ただ、小説、物語、旅の宿命として、冒頭から末尾にかけて、やはり何か、何らかの変化が、あるように思う。何らかの変化。それは何かの解消ではなく、理解でもなく、姿を捉えるのは難しく、しかし確かに意味ありげに存在している。

   24 = 0

 年が明けて数日の過ぎた日、法学部四年の女子学生が進入する電車の前に飛び込み、轢かれ、死んだ。就職活動の失敗が動機らしい。

 朝目を覚ますと、インターネット上でその噂が盛んに共有されていた。

 本当だろうか。けれどもT線は確かに止まっていた。僕は大学まで人通りの少ない早稲田通りを歩いた。久々に歩いた街は静かだった。そしてどの建物も道のコンクリートも、脱皮したばかりの昆虫のように、新鮮で誇らしげに見えた。まだ汚されていない、損なわれていない、生まれたばかりの二◯十三年。そういったあるはずのないものの存在を、確かに感じながら僕は歩いた。

 あるいは僕だったかもしれないのだ、と階段を上りながら僕は思う。日常の中で、何かに背中を押されて轢死する法学部四年の女子学生は、僕だったかもしれない。それは起き抜けに、カーテンの隙間から光が差しているか否かに過ぎない。死者は言葉を失い、不意に背中を押した何かを僕らに語ることはない。

 講義棟に入る。外との温度差と、満ちている人間のざわめきに少し驚く。ラウンジの席の多くが既に埋まっている。レポートや試験勉強の時期なのだと気づく。

 唯一空いていた窓際の席に座った。冬の陽光を精一杯取り入れる大きな窓。バッグを探り、読むための本を一冊も持って来なかったことに気づく。目覚めてから家を出るまで、本棚を見ることさえしなかった。本棚。割れない泡が僕の意識を漂い始める。その泡はしかし膨張している。割れて消えてしまう日も近いのかもしれないと僕は思う。しかしまだ何も終わっていない。あるいは、何も始まっていない――どちらでも同じようなものだ。もしくは、何も終わることはないし何も始まることはない。日常に外部はなく。僕は何を止めることもできず、何を解消することも、理解することも、できない。それでも。

 息を大きく吐き出す。

 仕方なく窓の外を見る。

 パラソルの畳まれた白のテーブルと椅子、無表情のベンチ、葉を失った細くて背の低い木。それぞれが光を浴びながら、まだ遠い春を待っている。

 僕の目は低い木の影で動く小さなものを捉える。

 バッグを取って、椅子もしまわぬまま、早歩きで外へ出る。

 木の影を見、椅子と椅子の間やテーブルの下を覗き、そして広場を見渡す。溜息をつく。息は白く残って、消える。冷たい空気が頬を刺す。誰かの大きな笑い声が遠くから聞こえてくる。

 すずめはもうどこかへ飛んで行ってしまったようだ。それは一羽のすずめだった。あの痩せたすずめだ、と僕は思う。傍らにもう一羽のすずめはいなかった。けれども、ここに姿を現して、僕の触れる前に飛んでいってしまったのは、確かに、あの時の一羽だった。

 入り口近くのベンチに座る。一羽だった、と僕は思う。

 この冷たく静かな朝、すずめは相変わらず痩せたまま、何か落とし物を探すかのように、地上を歩き、飛んでいった。結局何も変わらなかった――僕は思い出す。変わるわけがない、と僕は呟いてみる。あの日、そう言ったあの子は――。

 少女が階段を上ってくる。

 僕の視線にその影が入り込む。

「泣いてるの?」彼女は僕を見下ろし、声をかける。

「……泣いてるかな」

「笑ってるのかもね」

「失恋したんだよ」

 彼女は僕の隣に座らない。僕は空を見上げる。

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