語りの、存在の、世界の不確かさ——村田喜代子「鍋の中」論

学部の2年生のときに、サークルで発表したもの。

《底本》
村田喜代子『八つの小鍋―村田喜代子傑作短篇集』より「鍋の中」(文春文庫)


《不確かなもの》

一、「案内人」の不確かさ

田舎の道を案内してもらううち、信頼していた案内人のお尻に長い尻尾を発見したような、……そんな変なかんじなのだ。この案内人には気をつけたほうがいいぞ――、というような不安な表情が、わたし達の顔にぼんやりとあらわれた。
                                  (p.132)

「案内人」という言葉は、引用したこの部分から引いたものである。この言葉は、引用部のようにそのまま登場人物である子どもたちを案内する「祖母」を示すものであるだけでなく、読者にとっての案内人である「語り手」の不確かさを暗示するものでもある。

(A)祖母

 本作において十代の子どもたちの「案内人」として描かれる、「祖母」とその不確かさについて整理する。
 「案内人」としての祖母の不確かさは彼女の記憶が不確かであることに起因している。
 まず、彼女の兄弟姉妹、軸郎と錫二郎に関する記憶についてだが、祖母は十三人兄弟であるといわれる。しかし彼女が名を挙げられるのは自らを含めた十二人であり、十三人目の忘れられた兄弟が錫二郎だ。軸郎の名は確かに挙げられる。しかし、古い浴衣を着た信次郎を見た夜に彼女が語るのは、気の違った一番下の弟「軸郎」であり、池のほとりで語るのは、「中学の校長になって、東北の学校に赴任する途中、その汽車の中で脳溢血で倒れて亡くなった」「軸郎」である(p.62, p.133)。
 次に縦男とたみの出生についての記憶だが、それらの記憶に誤りがある、という根拠は出てこない。(縦男の祖父母の伝説的な話に出てくる杉が現在あるものとは違う、ということは判明する。)ただ、祖母の記憶がかなり不確かである、ということだけが、これらの話に誤りである可能性を持たせる。。
彼女の記憶は不確かである。しかし、子どもたちはどれが事実でどれが誤りなのか確かめる術を持たない。彼女の不確かさがどのような意味を持ったかは後に考察する。

(B)主人公と語り手

 まず、一般に小説において主人公と語り手が別のものであることを確認する。
 主人公とは、一般に「小説や戯曲、シナリオの「中心人物」」であり、「物語を読み解く一つのコードであり、テクストの中の多くの言葉をつなぎあわせる記号」にすぎない、という考え方が現在の文学研究においては主流であると言える(『読むための理論』)。どの人物を主人公とするかは読み方によって変わることもあるが、本作のような一人称小説においては、一般的に、「わたし」や「僕」として示される文法的な主語、語られる「物語内容の主人公」が主人公であると言ってしまってよいだろう。
 では語り手であるが、語り手とは、物語内容を語る主体である。一人称小説である本作の「たみ」は「物語内容の主人公」であるが、それと同時に、物語内容を語る「言語表現の主体」であるとも言えるのだ。彼女は、過去の「わたし」を語る「わたし」なのである。
 語り手は、読者とテクストの間に立つものであり、「案内人」のような働きをするものである。またウェイン・C・ブース『フィクションの修辞学』から表現を借りれば、「複雑な内面の経験を映す良く磨かれた鏡」でも「いくぶん曇った、感覚に縛られた「カメラの眼」」でもありうる。語り手は、誤りもするし、「嘘」もつく。

「だっておれ達、隣り同士じゃないか」
 そして彼はいやがるわたしの横にきて歩きながら、小声でささやく。
「姉さん、今夜は間の障子をあけて寝ようよ」
(p.65)
あの晩「姉さん、こわいから一緒に寝ようよ」と信次郎がわたしにささやいたとき、軸郎がたしかにわたし達のすぐ横にいたのとおなじように……。
        (p.70)
 

七十頁の「あの晩」とはいつか。信次郎が「姉さん、こわいから一緒に寝ようよ」と発言した場面は描かれていない。軸郎がすぐ横にいた場面ももちろん描かれていない。
 「あの晩」が作中で描かれている軸郎の話を聞いた日であるとすれば、語り手=主人公の記憶に異常があるか、夢との混同を行なっている、語り手がそのように解釈、認識した、といったことが考えられる。何にせよ、本作の語り手はブースが前出書で示している、「信頼できない語り手」の系譜に並べられるものであるといえる。また描かれていない晩のことであるとすれば、やはりその晩のことを描写しないという、語り手による隠蔽が行われているということになるだろう(本稿では、描かれている夜が「あの晩」であると解釈する)。語り手に対する疑念は、次の場面からも湧いてくる。

 目に見えない重量物を背負っているようで、わたしをひどく息苦しくさせた。
「あたし、もう帰る」
 とあたしは縦男にいった。
「なぜさ」
 縦男はわたしのまぢかに立っていて、じっと顔をのぞきこんでいる。縦男はさらにわたしの目をのぞきこみ、わたしの震える心をのぞきこみながら、もう一度、
「なぜなの……」
 ときいた。縦男の声でないようなかんじがした。
「たみちゃん」
 と縦男は変に力をこめた声でいった。そしいきなりわたしの両肩を強く抱きしめたのだった。
(p.100)

 縦男ははずかしそうな顔をした。それでわたしは杉をみに行ったときの縦男のいやらしい動作をおもいだして、黙った。
(p.135)

 この二つの場面で気をつけなければならないのは、「はずかしそうな顔」「いやらしい動作」というのがあくまで語り手の主観であることである。縦男は杉を見に行ったとき、たみの両肩を抱きしめているが(「抱きしめる」という言い方も怪しい)、いやらしい動作であるというよりは、単に自分の世界に入ってしまっているたみを心配してのことであるという方が受け入れやすいように私は思う。
 これらの場面において、たみは信次郎と縦男の、何でもないような言動を性的でいやらしいものとして解釈している様子が見受けられる。このことについては後に《性》において考察する。
 この段階での結論として、本作においては、語り手による語りそのものが不確かであり、彼女の語ることをそのまま信頼してはいけないのである。
 (A)(B)と見てきたが、私は、本章の冒頭で引用した部分は、本作全体に影を落とす、祖母や信頼できない語り手といった「案内人」たちの「不確かさ」を暗示する一種のヒントであると考える。このようなヒントは、次の場面からも読み取れるだろう。

みな子はさけばなかった。彼女はしんと硬直したのだ。わたしの腕を無言でしっかりつかんでいた。
(中略)
わたしはぞくっと身震いした。そして自分の足がとても遠いところで蛇をめがけて一個の小石をけとばすのをみた。
(中略)
「たみちゃんがね、蛇に石を投げたの。蛇に命中させたのよ」
信次郎は大きな声で突然笑いだした。
「嘘いってらあー」
と、弟はそういって笑ったのである。
                          (pp.118-119)

 みな子は、信次郎の言うとおり、「嘘」を言っている。ここでは描写と「嘘」の間に場面転換もないために、読者に対して、あからさまに、「案内人」の不確かさを示していると言えるではないだろうか。


二、記憶とアイデンティティ、存在

一で見てきた「案内人」の不確かさの原因の一つとして、記憶の不確かさというものが抽出される。「物語内容の主人公」としてのたみと「言語表現の主体」としてのたみの大きな乖離も、突き詰めれば記憶の不確かさによるものであり、記憶の不確かさが過去の自分と現在の自分との同一性を崩しかねないものであることがわかる。
また、祖母の記憶も相当に不確かであり、主人公たちは始終その不確かさに振り回される。しかし、その不確かな祖母の記憶もまた、出自という、縦男とたみのアイデンティティを支えるものとなってしまっている。たみは、祖母の不確かな記憶によって自己の出生の「真実」を知ってしまったとき、以下のように表現している。

わたしはそのとき湯の中にしゃがんでいたのだが、急にぐらっとよろけるような錯覚をおぼえた。足が無くなったかんじである。わたしの体を支えている根本のかんじんな足が、不意に引き抜かれた……。ああ、親だとか肉親だとかいうものは足だったんだな、とわたしは頭の中でかんがえたのだ。それが無いと、こんなに不安定にゆらゆらと揺れて、頼りなくなってしまうんだな……。
(p.109)
 また、記憶が失われることが、ある人物が存在したそのことの消失を意味してしまうことがある。本作における「軸郎」や錫二郎である。気が違って、座敷牢に入れられた少年の存在は、祖母の記憶に完全に依っている。彼が存在したか否かは、祖母の記憶以外ではほぼ証明不可能なのだ。また、錫二郎の存在は、祖母の中には存在しない。しかし彼や彼の息子は確かにハワイに存在し、手紙を送ってきている。この矛盾に子どもたちは不気味さを感じている。
 これら、出自というアイデンティティや存在そのものが記憶によって不確かになってしまう状況を、縦男は「宙ぶらりん」と表現するのである(p.135)。

 記憶について、たみがどのようなイメージを描いているかを見てみよう。祖母に錫二郎の記憶がないことを知った直後のものが、次である。

 いったい、おもいでというものは頭の中にどんな構造で積まれているのだろう。そしてその構造のじっと過去のほう、たぶん霧みたいなものの底に沈んでいる六十年も前の世界の記憶とは、どんな形をしているのだろうか。そしてその中にぼうっと浮いたり沈んだりしているおばあさんのきょうだいの中に、軸郎少年がいるのだろうとわたしはおもった。錫二郎というお爺さんは、つまり沈んでしまったきりいつ浮かびあがれるか不明だった。
(p.80)

 それが、最終盤、祖母の不確かさを実感してからは、次のように語っている。

 いつかわたしは何十年も過去の記憶が、どんな形でおばあさんの脳の内におさまっているのか知りたいとおもったことがある。そのとき、わたしは靄か霧のようなものが、記憶の上にたちこめているのかもしれないとおもったものだ。
 けれどわたしは、いまは古い記憶というものはこれらの写真のように、固有名詞を失い前後の関係を無くしたばらばらのフイルムみたいなものだと推測できたのである。
                               (p.138)

 「固有名詞」とは、やはりアイデンティティに関わるものであると言えるだろう。この描写における「フイルム」とは、軸郎や錫二郎、たみや縦男の比喩となっている。「前後」、すなわち親子の「関係を無くした」「フイルム」である。「靄か霧が記憶の上にたちこめた」イメージとの違いは何か。それは、確かな形で浮上する可能性の無さである。投げ出されてしまったフイルムは、再び、信頼出来る関係性を得ることは不可能なのだ。祖母の記憶を例にすれば、「目、耳、口、鼻……と紙に字を書いた少年」と「軸郎」のフイルムが関係づけられたが、それは不確かなものであり、また一度関係性を絶たれれば、もう二度と修復できない。こう考えると、「目、耳、口、鼻……」と紙に書いていく行為は、自己の身体の存在を確かめているようであり、それを記憶の中の「軸郎」が行なっているというのは暗示的である。
 以下は、こうした記憶の在り方を解した後の場面である。

いまとなってはわたしはもう祖母をどんなに問いつめてみても、じぶんの納得のいく答えはもとめられないことに気づいていた。そしてこの答えはたとえ両親に訊ねても、けっしてじぶん達はもう心から納得することはないだろうと、縦男はわたしにいった。だから縦男はいまは天井をみつめているしかしようがないのである。
                               (p.138)

 この後にたみは、自己のアイデンティティの不確かさを肯定(無視)し、「いまのままのわたしでいたい」「いままで通りに現在の母を母と信じて生きていこう」と語る。これが日野啓三の言う「「宙ぶらりん」さを結論としてではなく出発点として、生きてゆこうとする軽やかなしたたかさ」なのであろう。私には、「天井をみつめているしかしようがない」中で、決して確かではない何かを「信じて」「生きてゆくしかない」ように感じられたが。このことについては後に《鍋の中》で述べる。


《性》

先の「不確かなもの」の考察から浮かび上がってきたものを前提として、大人不在の本作における「性」について考える。

一、たみの「性」

はじめに、十七歳の少女、たみの「性」について考察する。

(A)語られる少女たみ
まず、たみが、どのように語られているか、それが何を意味しているかを考える。

 けれどわたしは、もともと毎年学校が休みになると母にいわれて熱気のこもった台所でそれをやらされていたので、この涼しい家の台所仕事をみな子のかんがえるほどには苦痛におもっていなかった。わたしは小さなときから、母にじゃが芋を切らせてほしいとねだるような女の子だったのである。
(p.56)

なぜ花を食べると不良になるのかわからないが、いわれてみるとそんな気がしないこともなかった。
 縦男の唇は男のくせに薄赤くてきれいだった。花を食べるのに似合うような口だ。そして、わたしは花をくわえてもなぜかすこしもぴたりとこない唇をもった女の子みたいなのである。
(p.92)

わたしはすくなくとも、ここに書いてあるよい『習慣』を守っている少女なのである。これを書いた先生の願っている、理想の少女なのかもしれない。
(p.94)

次に、たみがみな子と自身を対比して語っている部分を引く。

みな子とわたしは、おなじ年の十七歳だが、彼女はわたしのように手ぎわよく芋の皮をむくことができなかった。けれどわたしもまた、みな子のようにきれいに頭の毛をカールすることができない。そんな意味でわたし達ふたりは大事なことが半分ずつできる娘だったのだ。
(p.57)

わたしはそんなみな子の柔らかそうな髪の毛と、すこしも日に焼けない人形のように白い横顔をみた。それから、じぶんの硬くて黒い頭髪とすこしも女の子らしくない黒い顔のことをおもったのである。
(p.117)

 これらの引用から読み取れることであるが、まず、たみは自らを、「良い子」であると感じている。「理想の少女なのかもしれない」と言える程度の自信を持っている様子も伺える。本文中で彼女は、

わたしは五人の人間の食事の管理をすることができた。手伝うということと管理するということがまるで違うことに気づくようになった。それは大きくなってもたぶん、わたしのもののみかたやかんがえかたに良い影響を与えるだろうとおもわれた。
(p.125)

と語っている。この引用部からもわかるように、この「良さ」は、家庭における「良き妻(母)」としての良さである。たみの母親のしつけと、それをたみが内在化していることも読み取れる。
また、みな子との対比から、たみが自らを不器量とみなしていること、また都会風なみな子と比べて自分は「芋っぽい」といったことを感じていることも読み取れるだろう。
 美しさという観点において、たみはみな子に対して劣等感を抱いている。「大事なことが半分ずつ」という語りから、たみはみな子と自分を、女性として同等の価値を持っていると見なそうとしていることが伺えるが、「こんなところまできて料理当番なんて」(p.56)という同情のこめられた発言もあるように、みな子も同様に考えているとは考えにくい。「理想の少女」「大事なことが半分ずつ」とはむしろ、劣等感に対する防衛機制であるかもしれない。
 
(B)たみと、信次郎・縦男という“異性”

たみが信次郎と縦男の言動を性的に解釈しがちであることは先に述べたとおりである。性的に解釈した結果、二人に対して性嫌悪症的に辛く当たってしまっているようにも見える。
先に縦男についてであるが、たみは彼を「いやらしい」「不良」と見ている。「汗が出てるから……」「気持わるいわ」という言葉が示すように、縦男は嫌悪の対象なのである。しかし、読者は、実際に縦男が「いやらしい」ことを読み取ることができない。
たみの信次郎に対する言動、感情はさらに理解が難しい。
作中には、弟おもいの姉になろうと決心したり、「あんた、もう寝たら?」と、色恋に関する話題から遠ざけようとしたり(p.82)、縦男と二人で出かけることになったときに「なぜか」信次郎を思い出しかわいそうに思ったり(p.96)、といった、姉として弟を思いやっているような描写も多くあるが、単なる姉の弟に対する感情を超えているのではないか、と思われる箇所も少なくない。
信次郎の「あいだの障子をあけて寝ようよ」を「姉さん、こわいからいっしょに寝ようよ」と言い換えたのは先にも挙げたものである。
ほかに、

 わたしの頭にそのときぱっと浮かんだのは、蛇だ。水面を長いSの字に泳いでいる蛇の姿だった。そうおもうまもなく、鳥肌立っていた。
「信ちゃんがつれてってくれるというの」
 みな子は白い日よけの帽子をかぶっている。わたしが行かなくても、信次郎とみな子は出かけるだろう。すると、わたしはいつのまにか立ち上がっていた。
(p.115)

 と、蛇の恐怖に耐えてまで信次郎とみな子が二人で出かけてしまうことを阻止する場面もあるし、

「かたかなのヨの下にエとロ。その下に寸」
 と得意そうにこたえた。
(p.102)

「おれにやらせて」
 と封筒をもぎとった。そして舌を出して封筒ののりしろをなめた。
「おれ、こんなこと好きなんだ」
(p.142)

 と、どことなく官能的な場面をわざわざ描写していたりもしている。そう考えると、六十六頁も、「わたしはその夜、なにか変な気分だった」「彼はもう、おとなしい人形のような弟になるのだ。彼がそんな弟になるならば、わたしのほうも優しい姉になってやることができるにちがいない」といった言葉や、「目、耳、口、鼻、……眉、瞼、頬、唇、顎……。」と細かく、下に下がっていく視線を深読みすることもできる。参考に目を通した『近親性愛と人間愛』という本には、「兄弟・姉妹関係では、近親性愛のタブーは性的なかかわり合いの防止には極めて重要である。」(p.91)「近親性愛の障壁を性本能が突破しそうになると、性は危険で罪深いものとして体験されるのである。こうして、正しくは近親性愛の神秘に属するはずの道徳的な葛藤が本能的な性に集中することとなった。われわれは近親性愛を恐れるかわりに、本能一般と同じようにして、性を恐れるのである。」(p.96)と、兄弟姉妹関係において性的なかかわり合いが起こりえること、タブーが存在する場合、そこから性に対する恐怖が生まれる、といったことが語られている。
 また、信次郎と血が繋がっていないと祖母に言われてからは蛇(フロイト!)に打ち勝つというのも何か象徴的な描写なのかもしれない。

 
二、メンデルのエンドウ豆の比喩
  
 本作では、メンデルによる遺伝の実験で有名なエンドウ豆が、遺伝、また親から生まれる人間の比喩として終始用いられている。エンドウ豆については「「鍋の中」考」においても触れられているので、ここでは詳しくは触れない。
 ただ、人間の比喩であるエンドウ豆が、鍋の中に投じられるものであるというのは意味のあることかもしれない。実際に六十頁では、サヤ豆という表記ではあるが、鍋の中に投じられた豆がいためられ飛び跳ねるシーンが描かれている。


《鍋の中》

 以上の考察を踏まえ、「鍋の中」の象徴するものを考察する。
 宇野憲司氏は論文「「鍋の中」考」において、「鍋の中」は、「いとこたちが祖母の家に集まって過ごす日々」と記憶の不確かさによる人間の存在の不安という「地獄」を象徴するものであると述べている。そうした解釈ももちろん可能であろう。
 しかし、私は、「不確かなもの」「性」に関する考察から《鍋の中》を検討したい。そこから見えてくるものは、日野啓三の言う「意識と世界の象徴」としての《鍋の中》である。
 まず、「不確かなもの」から《鍋の中》を考える。

 ふとわたしはあることをおもいついて、みおろしている鍋を大きな池面ほどの面積に拡大してみた。そして目を凝らしてながめたのである。すると味噌汁の洪水の中にちいさくチラチラと動くものをみつけた。粘土を溶かしこんだように黄土色の水面。そこに人の首と手が出ている。軸郎の首と手にちがいない。
 トンカチトンカチと鉄郎が靴を打った金槌の柄もみえる。ぷかりぷかりと浮いている。
 麦子の髪の毛が流れている。
(中略)
 漂っている。
 塵芥のようにみおろされる。
 わたしは火を止めて、フタをした。
 おばあさんの鍋は怖しい。
 茶の間のお膳に、縦男と信次郎とみな子とおばあさんの顔がそろった。わたしは鍋を運んで行く。なにもしないでごはんが頂ける、とおばあさんは頭をさげた。
 そして、
「極楽、極楽」
 と歌うようにいった。
(pp.126-127)

 彼女はきっと、あの池に舟を出したにちがいない、とわたしはおもった。黒い大きな鉄鍋の池だ。靄は今夜あたり混沌と怖しい雲のようにたちこめているだろう。
(中略)
 そこにはいろんなものが漂っている。
 鉄郎の首と手が、……いや、それはもう鉄郎ではないのかもしれない。
 誰かの首と手が浮いている、といいなおそう。
 そして、誰かの髪の毛が流れている。
(中略)
 山を沈ませ、田を沈ませ、家を、牛馬を、鶏を、塵芥を沈ませ、おばあさんは舟を漕ぐのだ。
 かなうはずがない……。
(pp.139-140)

 前者の引用は、《不確かなもの》二で語った、記憶に対するイメージの変化の描かれる前、後者はその後のものである。
 情景はかなり似合っているが、ただ、固有名詞が関係性を失うという記憶=フイルムのイメージを反映したものになっているのは明らかだ。「怖しい」から「かなうはずがない……」になっているのも意味深いだろう。これが先に述べた、「生きてゆくしかない」の根拠である。
 また、祖母の役回りも変化している。前者では、「おばあさんの鍋」、すなわち祖母の混濁した意識をたみが見つめる、という構図になっているが、後者では、祖母は、鍋の中をかき混ぜる。前者では「鍋の中」の混濁はあくまで祖母の記憶の不確かさを意味していたのに対し、後者では、その祖母(の記憶の不確かさ)が、世界そのものをかき混ぜ、乱していることを示している。ここにたみの作中における認識の変化を読み取ることができるだろう。存在、世界は、記憶のような不確かなものに頼らざるをえないほどに、不確かであるという認識である。そもそも世界とは認識によって成り立っているという見方もある。
 「性」に関する考察を合わせてまとめる。
 鍋の中とは、様々な具材が煮立てられる場である。具材には当然エンドウ豆も含まれるであろう。前述したたみの見た「鍋の中」のイメージのように、エンドウ豆である人間たちは、生まれ出た瞬間、「鍋の中」に投じられる。「「鍋の中」考」では、祖母のもとで過ごした一ヶ月半の生活が「鍋の中」であると述べられているが、本作百二十一頁に「自然とは深いうつわのようだ……」とあるように、人間は常に「鍋の中」に投げ出されていて、そこで生きているのである。
 「鍋の中」は、こういうわけで、意識と世界の象徴なのである。


《まとめ》

 これまで述べてきたように、本作の不気味さは、そもそも不確かな「案内人」と、彼らによって表出された、アイデンティティ、存在、世界そのものの不確かさによって醸しだされたものであったらしい。

 この作品に描かれた、「不確かなもの」と「性」を結びつけるものは何であろうか。両者とも、人が生きる上で避けては通れぬものであることは間違いない。そして、殊に思春期の少年少女にとって、これらはさらに重大な問題として認識される。思春期とはまさに、自己のアイデンティティの確立と、性に関する理解と自覚とが課題となる時期なのである。文部科学省のホームページでは、思春期について、「親や友達と異なる自分独自の内面の世界があることに気づきはじめるとともに、自意識と客観的事実との違いに悩み、様々な葛藤の中で、自らの生き方を模索しはじめる時期 である。また、大人との関係よりも、友人関係に自らへの強い意味を見いだす。さらに、親に対する反抗期を迎えたり、親子のコミュニケーションが不足しがちな時期でもあり、思春期特有の課題が現れる。また、仲間同士の評価を強く意識する反面、他者との交流に消極的な傾向も見られる。性意識が高まり、異性への興味関心も高まる時期でもある。」と説明されている。大人が不在であることを考慮すれば、本作は、こうした思春期の状況と一致する。「鍋の中」は、「人生そのものの不可解さ」を、思春期の状況から見つめ描いた小説なのである。

《引用・参考文献》
・ 『芥川賞全集 第十四巻』文藝春秋, 1989.5
・ 石原千秋・木股知史・小森陽一・島村輝・高橋修・高橋世織(1991)『読むための理論 : 文学・思想・批評』世織書房(引用部は小森陽一)
・ 宇野憲治(1999)「村田喜代子「鍋の中」考」比治山大学現代文化学部紀要、第五号、21-34頁。
・ 菅佐和子(1998)『思春期女性の心理療法 : 揺れ動く心の危機』創元社
・ スタイン, .R 小川捷之訳(1996)『近親性愛と人間愛 : 心理療法における"たましい"の意義』金剛出版
・ ブース, .W-.C 米本弘一・服部典之・渡辺克昭訳(1991)『フィクションの修辞学』書肆風の薔薇
・ 「3.子どもの発達段階ごとの特徴と重視すべき課題」(文部科学省ホームページ)
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shotou/053/shiryo/attach/1282789.htm


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