3/31 習慣の憂鬱

気づけば年度末になっていた。このところ、普段にはない仕事が多かったり、新年度の準備だったりで心身なかなか疲弊していたようで、ものを書く気力もなかった。大人になっても新しい環境は新しく、苦しいものだ。書く義務があるわけでもないのだが、それなりに習慣になっていたから抵抗もあり、何とか今日は書き出してみた。

しかし、自己啓発書なんかでは実にポジティブに描かれる物事の習慣化には、習慣をこなせないことによって憂鬱になるというネガティブな側面があることに気づく。この憂鬱の苦しみが人を習慣へと引き戻すわけで、その習慣が資本主義の更なる増進に寄与するものであれば……ここまで意地悪に書かずとも、社会的に良いとされる習慣であれば、そのネガティブさもまた社会的には良いものだろう。一方で苦しみは苦しみであって、その苦しみが個人の何かを蝕むのであれば、習慣など捨ててしまった方が、個人の生のためには良いのかもしれない。……結局バランス、程度の問題なのだろう。

習慣の崩れることの憂鬱。書いてみて気づいたが、自ら習慣化していた「書くこと」をこなせない苦しみと、年度末/新年度の苦しみは、抽象化してみれば、同一の構造を持っていそうだ。そしてまた、多くの憂鬱に共通していそうな雰囲気もある。あるいは、「崩れる」ときだけでなく、習慣とは憂鬱と密接に関わるものなのかもしれない(からこそ、自己啓発が目ざとく対象とするのだ)。

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