20211224 現代文――文脈の学び

「現代文」の指導というものについて、突如、ひらめくものがあった。いや、ごくごく当たり前の認識なのだが、改めて認識されたものがあった。すなわち、曲がりなりにも師である(でなければならない)自分が、なぜ本を読むことができるのか、それが現代文の指導の根底ではないか、という認識に至った。そして、その結果得られる方針というのは、これは現代文指導の常識に沿ったものだろうが、やはり、指示語や接続語や文章の構成に関する知識といった抽象的な論理だけで現代文を読むということは不可能であり(そうした面を強調する参考書というのもあるわけだが、まあ、無理だ)、私がそれなりに難しい文章を学生よりはすらすらと読めて理解できるのは、内容についてそれなりの知識があるからで、そこを疎かにしてはならない――むしろ、その部分こそが重く指導されなければならない、というものになる。

内容についてのそれなりの知識とは、現代において書かれる文章の、その置かれた文脈、とでも言い換えられるだろう。現代文とは、おそらくほとんど、現代文の置かれる文脈の学びである。学生にとってつまずきの石になるのは、単純に現代社会人の常識たる知識である場合もあれば、ある学問領域で暗黙に前提とされる知識ないしは思考の形式である場合もある。こうしたものは、ものを読んでいれば、あるいは学校のあらゆる種類の学習にまじめに取り組んでいれば、あるいは社会の中で生きてさえいれば、段々と、それこそ場合によっては暗黙のうちに、身についていくものなのだろうが、例えば大学入試などで、他の者より秀でていようと思えば、そんな悠長なことは言っていられないわけだ。現代文とは、そうした日常を超えた常識を身につける学習という面があり、そして、現代文のテストとは、他の者に先んじてどれほどの常識を身につけているかを問うという面があるのだろう。


仕事納め、ということにしたい。四月から、仕事の厳しい日々だった。妻の方はまだ明日も来週も仕事で、全き平日として過ごすクリスマスイブ。

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