20211202 始まらない喪の終わり

よく知った人が急に死んでしまって、しばらく何も手につかなかった。私もそれなりに鬱の経験を積んできたから、こういうときにはとにかく休めばいい、休む以外にはどうしようもないということがわかっていて、とにかく頑張らないようにしていた。まだ本もろくに読めていない(本が読めるかどうか、が、個人的には精神状態をはかるそれなりの指標である)が、まとまった文章を書く体力はないにしても、noteを書いてみる気になれた。

いつも会っていた、わけではないが、2、3週間前には話をしたはずだ。なかなかショックだった。通夜にも葬式にも行かせてもらえなかったが、通夜も葬式も、そういう喪の儀式がないと、やはり、どうにも死の実感が持てず、ただ世界や人生といったものにぼんやりとしたところが生じて、そこがぽっかりと空いた穴なのか、それとも、実は今までどおり続いているのかわからない、そういう思いでいた。そして段々と、実感も何もないまま、日常が再建されようとしているのを感じている。

「喪中」のハガキが来る季節である。「喪中」の字を見る度に、正しいらしい喪の形式に従って行動できることを羨ましく感じる。人の死は、私には穴としてイメージされる。世界の、人生の、穴。喪の形式とは、穴の空いた、世界なり、人生なりを、再び歩むために必要な、標識のようなものではないか。そのようなことを考える1週間程であった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?