この先に期待する

実家に帰ると昔のものが多すぎて嫌になる。いつも見ないふりをし続けていたが、ようやく整理整頓のやり方がわかってきたので(一人暮らしの部屋をいい感じに模様替えできたこと)今回は片付けに手をつけることにした。ようやく。

あまりにも見ないふりをしていたので、実家を出る前の状態ですべて時が止まっていた。大学受験のためのテキストや参考書が恐ろしく積み上がっていた。私は高校の途中でドロップアウトな状態になったので、高校3年時に浪人生向けの予備校に通っていたのだが、そこで配られて使っていたテキストたち、そして通常の高校生活から脱線し勉強を一人でやらなければいけないという強迫観念的思考を消したくて、書店に行くたびに買い集めた参考書たち、これらがどれだけ身についたのか思い出せないが今の私が感じる限りでは膨大な量だった。

この時はもちろん、というか大学院を出るまでだが、親に出してもらったお金で勉強をしていたのだから、これらのテキスト&参考書はすべて「もらった」ものでできている。そう思って、なんかとても辛くなった。前に過ぎたことなので何もやり直せないが、これらをどのくらい役立てていたのだろうか・・・。参考書はすることより選ぶことをしていた気がする。買ってもできる時間は限られていたので(当たり前だが)自分が何をできないか、ここまではできるかについていつも考えていた。今は何ができるようになったのか。

テキスト&参考書の他に、センター試験の結果と、大学案内パンフレットが出てきた。私は高3になってからようやく受験に必要な学習範囲に手をつけたので、反復学習の受験勉強以前の問題、知識をつけることでいっぱいだった。こういう場合は、知ることの楽しさが勝るので、「努力した」気持ちのない1年間だったせいか、頑張る理由=センター試験と大学入学の扱いがぞんざいな気がする。押しつぶされて何かの隙間から出てきた。

センター試験の結果は全然いいものではなく、受かったらいいな、ダメだったら浪人させてくださいと、これもまたぬるい気持ちでやっていたのだった。前期日程で受験した大学のパンフレットを開いた。今は、ここに受かってよかったな、と強く思っている。昔とは違う視点でもう一度読み、あーなんてあの頃は進路選択が無知で浅はかだったんだろうとか考えた。大体後で思い返すことは去年でも昨日でもそうなんだけれども。でも今でも、違う考えを持っても、同じところを受験すると思う。

帰省から戻って、仕事をしながらなんとなく、片付けしていたことを思い出した。大学のパンフレット、当たり前だけど明るいこと書いているよな、でも実際楽しかったし、なんならあの頃に戻りたいみたいな、テンプレートなこと考えたりしちゃってる。あの4年間+2年間の体験をこれから超えることは起きるのだろうか?確実に人生の中での出来事カテゴリーにあらゆる種類の楽しさを増やしたように思う。流星群を見るためだけに漁港に行ったりした。飲み会の帰りにも流れ星を数えた。したいことのためだけに時間を作った。もっとカテゴライズできたかもしれない。今はお金をもらっているが、あんなに自由なことは二度となさそうだ。(大学は遊ぶところだ論者は嫌いだけど、遊びは人生において必要すぎるので)

そう考えるとこれから長いこと生きていくことがつまらなく思えてきた。もうあんなに楽しいことはないのか。自分の将来性に期待できない。こうなった場合、何に期待して生きていくんだろう。自分の子供とかなんだろうか。

母親がそうだったが、自分はやりたくてもできなかったからと、ピアノ教室に通わされていた。どちらかといえばいい経験だったかもしれないが、まずやらされていたので、ろくに練習していなかった。自分がもし親の立場になったら、自分の代わりにやらせる、つまり自己を投影するなんて絶対に、何がなんでもしないぞ、と決めている。でも、自分にもう期待できないとなると、将来性溢れる、いや、これからきっと楽しいことに出会う期待値が高い、もっとも身近な存在に期待を載せる気持ちがわかってしまった。そこまで自分の親が考えていたとはあまり思わないが、自分は、あんたたちこれから楽しいことにちゃんと首突っ込んで生きて行きなさいよとか言いたくなりそう。

こうやって歳をとって大人みたいなやつ、若者と比較して大人、諦め、になっていくのだろうか。寂しいしなんか嫌だけど、あの時みたいなやる気も体力も周りに同じような人もいないので、ハードルが高すぎる。頑張れる理由は目標にあると思うので、こうやって先に期待するのか。子供たち、荷が重いな。

テキストたちは結局片付け終わっていない。センター試験の結果は写真だけ撮って、パンフレットと一緒に資源ごみ袋に詰め入れた。できる限り昔の物を捨てたいと思っている。

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