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子育てとは追体験なのか

金曜日の夜ごはん。
「7時になったらドラえもんだよね!」とそわそわする長男と三男をよそに次男(4)の元気がない。

頭の中でささっと保育園にお迎えにいったときのことを思い返す。
たしか、男の先生のお膝の上でジャンプしながら笑顔で遊んでいた。

思い当たる節がないので「どうしたの?」と聞いても
「なんでもない」と答える。

胸がざわざわしつつも「ドラえもんはじまっちゃうから歯磨きして!」と
長男に急かされ、「はいはい」と意識がうつる。

ドラえもん、クレヨンしんちゃん、お風呂とひと通り金曜日を終え
おふとんに入り、三男が寝入った頃、ようやく次男がぽつりと言った。

「だれもあそんでくれなかった」

その言葉に、今度ははっきりと胸がざわつく。

冷や汗が出るような、鼓動が大きく跳ね上がるような感覚を抑え
「だれもあそんでくれなかったの?」と聞き返す。

聞き間違いであることを願って。

「うん。」


この感覚。身に覚えがある。

思春期の6年間を中高一貫の私立の女子校で過ごした。

女子校ってコワいんでしょ?と聞かれることもあるけれど
特筆するような陰湿ないじめがあった記憶はないので
平和な環境だったように思う。

それでも、新学期には『お弁当グループ』でそわそわして
数日前から不安に駆られていた。

「いっしょにお弁当食べてくれる人いるよね?」

新年度はもちろん、新学期も長期の休み期間中にもしかしたら
私の知らないところで集まってハブられていないとも限らない。

幸い本格的にいじめられたことはないけれど
友達同士のいざこざなら、いくつか身に覚えがある。

友達とギクシャクしてしまい、それがグループ全員に広まって
楽しい会話をよそに私だけ入れずにいた時期もあった。

そんなときはいつも母に相談していた。
すると母はいつも「変われるものなら変わってあげたい」といった。

私には先天的な病気がある。
その病気のために、生まれてすぐのときから頻繁に入院していたし
15回以上の手術を受けてきた。

私にとっては生まれたときから毎年のようにそうだったので
入院がいや、手術が怖いという感覚はあまりなかった。

それでも甘えて「また入院?!もうやだ!」と言っては母を困らせていた。

そんなときも母は「変われるものなら変わってあげたい」と言った。

私は母のその言葉を聞くと、それ以上、母を追いつめることはできないし
ある種の満足を覚えていた。それが糧にもなっていた。

「変われるものなら変わってあげたい」と胸を痛める母を見て
子育てってこういうことなんだなと子どもながらに思った。

きっと母の思春期にだって辛いことの一つや二つはあっただろう。

それを乗り越えたかと思いきや、今度はまた子どものことで
同じように胸を痛めなければならない。(痛ませたのは私だけど。)

大人になってまで追体験のように同じ思いをしなければいけないのなら
子どもなんか絶対に欲しくない。

本気でそう思っていたし、母にもそう宣言していた。

そんな私も今や三児の母。

そして、昔の母のように、子どものことで胸を痛めている。

妊娠中にエコーで男の子だと分かったとき
「あぁ女子の面倒くさいいざこざがなくてよかったね」と思った。

きっと自分で思っている以上に思春期の痛みを引きずっているんだろう。
ひどいいじめはなかったと蓋をしていただけなのかもしれない。

そして、その痛みが、次男の言葉で鮮明によみがえった。

次男はおままごとがしたかったらしい。

そこで、お友達に「おままごとをしょう」と声をかけたけれど
そのお友達は走って逃げてしまった。

他のお友達にも声をかけたけれど、その子も走って逃げてしまった。

他の子はお絵かきをしていたり、他のことをしていたので
もう声をかけなかった。

おままごとセットのところでしばらく待っていたけれど誰も来なかったので
先生なら遊んでくれるかなと思って先生のところにいった。

悲しい気持ちだった。

次男はそう説明してくれた。

もしかしたら次男の誘いが聞こえていなかったのかもしれないし
たまたまおままごとの気分じゃなかっただけかもしれない。

そこにお友達のどんな気持ちがあったのかなかったのか、
それは知りようがない。

でも、次男が悲しい気持ちになった。
これは紛れもない事実だ。

悲しい気持ちだったという次男に何て言えばいいのかわからず
「そっかぁ・・・」と言った。

お友達はいじわるで走って逃げたわけじゃなくて、たまたま走っただけじゃない?きっとそのお友達も他にやりたいことがあっただけだよ!明日お母さんと一緒にいっぱいおままごとしよう!

いろんな言葉が頭の中を駆け巡ったけれど、どれも相応しくないと思った。

でも、次男は私より100倍強かった。

「今度逃げたら、なにがしたい?って聞いてみればいいんじゃない?」

と、とても前向きで素敵なアイデアを出した。

「それいいね!」というと、次男も満足そうにうなずいた。

これからもこのようなことはしょっちゅうあるだろう。

男の子だから未知の部分もあるし、SNSとかその時代特有の感覚もある。

話してくれるうちはまだ良くて、知らないうちに傷ついていてふさぎ込んでしまうこともあるかもしれない。

それが3人分だ。


でも、それは追体験とはまたものなんだろうと思う。

だって直面しているのは彼らなのだから。

自分よりも大切な彼らが胸を痛めているのを見て、心から胸が痛む。
「変われるものなら変わってあげたい」と本気で思う。

でも、そんなことはできないから、彼らは自分の考えや意志で以て、
自分の現実に立ち向かっていくしかないのだ。

そして、私にできることは、
追体験だなんだと自分の古傷をなめることではなく、
彼らの温かなホームでいることなのだ。と思う。

今回、次男は強かった。
そのことで少なからず過去の私が救われた。ありがとう。

でも、今後、強くいられない場面も出てくるだろう。

強くいられるときも、そうでないときも
変わらずにそこにあるホームでありたいと思う。

もし、過去にとても辛い体験があって
それを追体験することになるのではという不安から、子どもをもつことに迷いがある人がいたら

そんなことないよ、と伝えたい。

子どもは自分とはちがうから、自分とはちがう乗り越え方ができるし
自分とはちがうつまずき方もする。

過去の自分の悲しい気持ち、つらい気持ちがよみがえることもあるかもしれないけれど、それはそれで過去の自分を癒すチャンスだとも言える。

月曜日、次男は保育園を楽しめるだろうか。

私はきっと一日中そわそわするだろうけど、
それでも私にできることはホームで抱きしめることと
好きな夜ごはんをつくって待つことくらいだ。

明日いっしょにお買い物にいって、
夜ごはんに食べたいものを聞いてみよう。

センシティブになると次男にうつるような気がするので
どんと構えていよう。

みんなが楽しく元気に過ごせますように。

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